今朝は青空が見えて雲も面白い形をしてました(^^♪
昨日、歩いている途中で急にお腹が痛くなったのですが
どうも冷えてしまったようです(-_-;)
今朝は、どうなるか不安でしたがなんとか歩けました。
おなじみさんと話していたのは「まだ梅雨入りしていないですね…」
梅雨入りの最も遅い記録は
「1958年6月25日ごろ」(大阪管区気象台)だそうです。
ゆっくり歩いていると
つい見すごしてしまいそうなものに出会える。
ヨメナの花を写していると
ちょこんと飛び出ているのがある…(^_-)
コバネイナゴが隠れていました(^-^)
ハンゲショウの中に隠れていたのはニホンカナヘビ
ハシボソガラスが何かくわえてやってきたなと思ったら
どうも硬いパンのようで
水に浸して食べていました(*´▽`*)
スイレンにコフキトンボが止まっていると見たら
反対側にはクモ(?)がいました。
私が一遍さんに興味を持つきっかけになったのは
坂村真民さんの詩集を読んでからです。
捨てて捨てて
捨て得ないもの
捨てて捨てて
捨て得ないもの
それは一遍上人にとっては
ナムアミダブツであり
わたしにとっては
詩であり
母にとっては
遺された五人の
幼な子であった
(『詩集 詩国』坂村真民 大東出版社 昭和52年)
捨てて捨てて
捨て得ないもの
それには人それぞれのものがあろう
でもあくまでそれは
財産でもなく
名誉でもなく
他のためにつくす
無償の愛でありたい
かつてない狂乱の時代に生まれきて
静かに一隅にあって
花を愛(め)で
捨てて捨てて
捨て得ないものを
わたしは今日も
乞い願う
(『詩集 詩国』坂村真民 大東出版社 昭和52年)
一遍について
『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』より転記しますφ(..)
この本は中・高生向きの本だと思います。
ふりがなが多く、漢字が苦手なσ(^-^;は助かっています!
(転記の際、多くのふりがなを省力しています)
一 遍
遊行の生涯
伊予(いよ[愛媛県])の豪族河野通広(こうのみちのぶ)の子として生まれ、
10歳で母と死別し出家する。
都には行かず大宰府で浄土教を学び智真(ちしん)と称した。
父の死に帰国して一旦還俗(げんぞく[僧侶をやめて俗人に戻る])したが、
回る独楽(こま)が止まるのを見て生死(しょうじ)の無常を悟り再出家して旅立った。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』
日本史教育研究会 山川出版社 2001年)
33歳のとき信濃(長野県)善光寺で「二河白道(にがびゃくどう)図」
(恐ろしい、火の河<衆生の怒り恨み>と
水の河<衆生のむさぼり執着の>に挟まれて
狭い一条の白道<浄土往生を願う清浄[しょうじょう]の信心>がある、
いかにこの恐ろしい水と火に脅かされても
白道を進めば必ず西方浄土に到達できる、
浄土教の祖・善導[ぜんどう]が比喩として説いた)
これを絵で表したものを写して持ち帰り、
伊予の窪寺(くぼでら)で念仏三昧(ざんまい)の生活に入った。
そして衆生(生きとして生けるもの)を
利益(りやく)しよう(仏の力によって恵みを与えよう)と思い立って、
遊行の旅に出た。
彼は北は奥州江刺(おうしゅうえさし 岩手県)から
南は大隅(おおすみ 鹿児島県)までと、
全国くまなく布教して歩き回り(遊行)、
遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と称された。
彼は極楽浄土へ生まれることができるのは、
学問や仏教理論ではなく、
念仏を唱えることによるとして、
ただ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と実際に声に出して唱えることを
人々(衆生)に勧めた(これを念仏勧進[ねんぶつかんじん]という)。
念仏勧進のために
「南無阿弥陀仏、決定往生(けつじょうおうじょう)、六十万人」
という念仏札を配った(賦算[ふさん]。算[ふだ]を賦[くば]る)。
この念仏札については1274年熊野参詣の折、
夢の中で山伏姿の熊野権現(その正体は阿弥陀仏とされる)から
「信不信(しんふしん)をえらばず、
浄不浄(じょうふじょう)をきらわず、その札くばるべし」
との神託(しんたく[おつげ])を受け、
お札を配る意義を悟ったとされる。
この時から彼は「一遍」と名のったという。
また、彼は1279年、信濃の武士の館(たち)で、
太鼓や鉦(かね)をたたいて拍子をとり、
踊りながら念仏をなどを称(とな)えて
阿弥陀仏に救われる歓喜(かんぎ)の心を
体現する踊念仏(おどりねんぶつ)を始めた。
彼は諸国を歩きに歩いて15年目、
阿波(あわ[徳島県])で発病しその後、
淡路島・明石をへて、
兵庫の観音堂(現在、神戸市兵庫区の真光寺[しんこうじ]。一遍の墓がある)に入った。
彼は死の直前、
「我化導(わがけどう)は一期(いちご)ばかりぞ」
(自分の教えは自分一代限りのもの)
といって自身の著書など一切を焼き捨てさせた。
そして、
「没後の事は我門弟(もんてい)におきては
葬礼(そうれい)の儀式をととのふべからず。
野にすててかだものにほどこすべし」
として1289年、51年の生涯を閉じた。
人々が唱える「南無阿弥陀仏」という念仏だけが残れば
それでよいとする「捨聖(すてひじり)」一遍らしい最期であった。
彼の事績を描いたものとして『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』がある。
これは一遍没後10年目に弟子で実弟の聖戒(しょうかい)が詞書(ことばがき)を作り、
円尹(えんい)が絵を描いたもの
(歓喜光寺[かんぎこうじ]・清浄光寺[しょうじょうこうじ]蔵)で、
『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』と称される。
また、法語(ほうご)・消息(しょうそこ[手紙])・和歌などを編集し、
江戸後期に刊行されたものに「一遍上人語録」がある。
一遍といえば時宗(じしゅう)の開祖とされているが、
彼自身は(親鸞と同様に)教団をつくる意図はなかった。
彼の遊行に従った人々を「時衆(じしゅう)」と呼び、
そこには差別された人々も付き従ったが、
後に武士や農民層が彼の教えを信仰するようになった。
時衆は一遍の後継者たちによって室町期には大勢力に発展した。
将軍・大名の側近(同朋衆[どうぼうしゅう])として、
作庭の善阿弥(ぜんあみ)のように阿弥号(あみごう)を称し、
芸能・茶事(ちゃじ)など文化の形成に大きな影響を及ぼす者も出た。
江戸時代になると幕府の政策で、
一遍以外の遊行聖(ゆうぎょうひじり)の系統をも統合し、
神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ[遊行寺(ゆうぎょうじ)])を
総本山とする「時宗」として、
宗名が確立し一般化した。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』
日本史教育研究会 山川出版社 2001年)
「新しい仏教」(動画)
「御廟所」(時宗 西月山 真光寺)