2019年6月1日土曜日

因幡堂へ

血液検査の後、京都の七条にやってきました。
いつもと反対に七条大橋を渡って…
京都駅を横に眺めながら…
龍谷大学龍谷ミュージアム
企画展「因幡堂 平等寺」を見たかったのです(^^)v
20分ほど歩いたのでカフェ・ショップでコーヒーを飲もうと思ったら
チーズケーキが美味しそうなので(^_-)-☆
最近、再読しているのが栗田勇さんの
一遍上人 旅の思索者』(新潮文庫 平成12年)
20年ほど前に読んだときはあまり印象に残っらなかったのか
なんか初めて読むような感動を覚えました
というか記憶力が落ちている(^^ゞ
現在、絶版になっているのが残念…
館内は撮影禁止なのですが「記念撮影スポット」がある(*´▽`*)
撮影が許されていたのが…

60 薬師如来立像懸仏(やくしにょらいりゅうぞうかけぼとけ)
明治19年(1886) 京都・平等寺
 本堂向拝の軒下に掛けられた大型の懸仏で、
玉眼(ぎょくがん)を嵌入(かんにゅう)した基盤の上に立つ
本尊薬師如来の丸彫像を取り付ける。
外縁左右には阿吽・昇降一対の龍を向き合って取り付け、
明治の彫刻・工芸の水準の高さを示す。
高所にある懸仏を間近で見られる最後の機会となる。
因幡堂は「一遍聖絵」にも描かれています。
(「一遍聖繪 第四巻」22/33国立国会図書館より一部)

 『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第二巻』には、


 第四巻、京都因幡堂の一部。
健治2年(1276)の春一遍が因幡堂へとまろうとすると
寺僧の拒否にあったのでやむなく縁にねていると、
夜中に堂の執行の覚順の夢に本尊があらわれて
大事な客人であるからよくもてなすように言った。
そこであわてて一遍を中に入れることにした。
堂の中は板敷のままだったので寺僧たちが、
にわかに畳をはこんで寝所をつくっているところ。
このころ畳にはすでに床がついて今日とあまりかわらないことがわかる。
そして畳はあげたり敷いたりしていたものであろう。
日頃は畳はつみあげておいて特別の日に敷く風習は、
いまも僻陬(へきすう)の地に見ることができる。
なお簀子縁(すのこえん)の下には乞食がねている。
乞食たちが寺社の床下を栖にした歴史は長く、
明治時代までいたるところに見られた。
因幡堂にもずっと後まで乞食の群がいたようである。
(『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第二巻
 編者 澁澤敬三 神奈川大学日本常民文化研究所 平凡社 1984年)
西本願寺も訪ねたいけど…
案内板を見てここなのかと思ったのは
(長い年月に文字がかすれているので誤記が多いと思います)

新玉津島神社(にいたまつじんじゃ)
 この神社は、文治(ぶんじ)2年(1186)後鳥羽天皇の勅命により、
藤原定家の父で平安末期から鎌倉初期の歌人として名高い藤原俊成(としなり)が、
五條大路(現在の松原通)烏丸から室町にかけての自分の邸宅地に、
和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られてい
る歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したことに由来する。
 それに先立つ寿永2年(1183)、後白河法皇の院宣により、
藤原俊成はこの邸宅を和歌所として
「千載(せんざい)和歌集」を編纂(へんさん)し始めた。
ちょうどその年、木曽義仲が京に攻め入り、平家一門は都落ちするが、
門下の一人である平忠度(たいらのただのり)は、
危険を顧みずこの屋敷に引き返し、
「一首なりとも選んでほしい」と
自分の秀歌の巻物を献じた逸話は有名で、
俊成は、その中から次の一首を選び、千載和歌集に載せたという。

  さざなみや 志賀の都は あれにしを
    むかしながらの 山ざくらかな


 江戸時代には、「源氏物語湖月抄」などの古典注釈の第一人者で、
松尾芭蕉の師である北村季吟(きたむらきぎん)が、
約7年間、この神社の宮司として住み、
万葉集の注釈書「万葉拾穂抄(まんようしゅうほしょう)」の編纂に励んだ。
 これらの由縁から、今も多くの人が短歌、
俳句、文章の上達祈願に訪れている。
  京都市
因幡堂にやってきました。
前から訪ねたかった理由の一つに鴨さんのブログにあった記事
「病気の克服を願い 因幡薬師さま」(下鴨物語)

鴨さんは2014年11月30日に旅立ちました。
30年11カ月という短い人生でした。
Kazeが鴨さんのブログ「京都日和~都の風に誘われて~」を知ったのは
2011年に心筋梗塞を発症したあとでした。
同じ頃、鴨さんは三年という余命宣告を受けていました。
詳しいことは分かりませんでしたが、
若い娘さんなのに過酷な試練を受けながら懸命に生きている姿に
記事を読むたびに目がかすみ、生きる勇気をもらっていました。
因幡堂の記事を読んだときも生きることを諦めない姿に
Kazeも生きていることに感謝しなければと思いました。

鴨さんが旅立った後でも事務所のみなさんのおかげで
ブログが残っていたのですが
ZAQがサービスを終了したために見ることができなくなっていました。
發起 髙島屋 新七」と刻まれているのが
烏丸通りに面した石燈籠です(赤←)。
(「一遍聖繪 第四巻」23/33国立国会図書館より一部)

『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第二巻』には、


 第四巻、因幡堂(いなばどう)執行の覚順が夢のつげによって
夜半因幡堂の縁にねている一遍にあいにいくところ。
侍童(じどう)が松明をかざして従者が太刀をもち棒を肩にしてしたがっている。
覚順は頭巾をかぶり鹿杖をついている。
当時の京都の寺社あるいは豪家は
屋敷の周囲に築泥(ついひじ)塀を前方にめぐらしていた。
因幡堂もその一つである。
しかし裏の方は網代塀ですまされている。
まいら戸に絵馬のかかっているのも薬師信仰のためであろう。
(『新版 絵巻物による 日本常民生活絵引 第二巻
  編者 澁澤敬三 神奈川大学日本常民文化研究所 平凡社 1984年)
大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ)
 ここはかつて、祇園祭(八坂神社の祭礼)の神輿渡御(みこしとぎょ)のとき、
三基の神輿のうち、大政所[素戔嗚尊(すさのおのみこと)]神輿と
八王子[八柱御子神(やはしらのみこがみ)]神輿の二基が安置される場所であった。
 残る少将井[しょうしょうい(櫛稲田姫命 くしいなだひめのみこと)]神輿は
烏丸竹屋町にあった少将井御旅所に渡御していたが、
天正19年(1591)に豊臣秀吉により、
これら二つの御旅所が四条寺町に移築・統合されて、現在の御旅所となった。
 天延(てんえん)2年(974)に、
この地に住んでいた秦助正(はたのすけまさ)が、
夢の中で八坂大神の神託を受け、
また自宅の庭から八坂神社まで蜘蛛が糸を引いているのを見て、
朝廷にこのことを奏上した結果、助正の家が御旅所となったという。
 天文5年(1536)に騒乱のため焼失したが、
その後に町の人々が小祠を建て、八坂大神を奉祀し、
大政所町鎮護の社として毎年7月16日を例祭日と定めたという。
今でも神輿還御(みこしかんぎょ)の時には神輿が立ち寄り、
神職が拝礼する。
  京都市
蛸薬師堂です。
お寺の方にお聞きすると堂内は撮影禁止だそうです。
前に訪ねたときは、そんなことはなかったと思うのだけど…
2014年11月25日の記事
かなり歩いたのでお腹がすきました(^-^;
暑かったのであっさりしたものが食べたいなと入ったのが
「生蕎麦 大黒屋」です。
学生の頃から時々、たぬきそばを食べにきていました(^_-)-☆
2014年12月29日の記事
と言いがらたぬきそばではなくて
この時期にいただけるらしい
「長芋となめこ茸のつけとろろ蕎麦」(^^)v
龍谷ミュージアムで購入した図録「因幡堂 平等寺」
別の機会に紹介したいと思いますφ(..)