プラス体温を測ると36.2度で平熱
体調が悪いのはいつものことなので出かけましたp(^^)q
公園を歩くときは暑い時でも長ズボンに長袖なのですが
それでもマダニに侵入されました。
公園で作業されているスタッフのように
足許を登山の時に使っていたスパッツなどで
キッチリと閉めないと侵入されるのだろうな…
ネジバナの螺旋階段
ほっそりした野の草が、不思議な螺旋を描いている。
その花は小さいけれどもカトレアそっくりで愛らしい。
けれでも、見かけによらない一面も…
(『したたかな植物たち―あの手この手の㊙大作戦【春夏篇】』
多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
超小型ながら立派なラン
光こばれる初夏の午後。
公園の芝生の間におもしろい花を見つけた。
まるでエッシャーの「無限階段」。
不思議な螺旋を描く花は、その名もネジバナ(捩花)という。
別名モジズリ(文字摺)。
属名の Spiranthes も「螺旋の花」という意味だ。
近寄って見ると、螺旋をなして咲く花は、
大きさの差に目をつぶりさえすれば、
形も色もカトレアの花にそっくりだ。
それもそのはず、ネジバナは小さいながらも立派なランの仲間である。
(…略…)
ねじれることに意味はあるのだろうか。
花を訪れて花粉を運ぶのは、小型のハチ。
横から花にもぐり込むハチの行動習性に合わせ、花は横向きに咲く。
視覚で花を探すハチを呼ぶには、小さな花は集まった方が効果的。
だが、花がそろって一方を向けば、茎はそっちに傾くのが道理。
そこでネジバナは花の向きを順繰りに変えた。
花を螺旋につけることで重心が安定し、細い茎も直立する。
(『したたかな植物たち―あの手この手の㊙大作戦【春夏篇】』
多田多恵子 ちくま文庫 2019年)
6月14日に訪ねた御旅所について『京都の歴史を歩く』と
『中世京都と祇園祭 疫神と都市の生活』より転記しますφ(..)
新京極を出た、四条通の南側には、祇園御旅所(おたびしょ)があり、
祇園祭の7月17日から御輿が渡御し、祭りの間はここに留まった。
三大事業(第二琵琶湖疎水建設、上水道整備、
道路拡張・市電敷設)にともなう四条通の拡幅により、
1912年に四条寺町からこの地に移動した。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)
(「第二章 御旅所と神輿渡御」より)
二 御旅所の成立
さて神輿が迎えられて洛中に入り、
一定期間そこに滞在して、帰っていくとすれば、
その神輿の泊まる場所が必要である。
それが御旅所であるが、
御旅所というものはどういうかたちで成立したのであろうか。
(『中世京都と祇園祭 疫神と都市の生活』
脇田晴子 吉川弘文館 2016年)
『祇園社記』の伝える文書によると、
洛中の高辻東洞院(たかつじひがしのとういん)の助正というものの私宅を、
御旅所として神幸(しんこう)するという神託が下ったという。
神託が誰に下ったのか、文書では明らかではないが、
おそらくは祇園社の巫女(みこ)に下った託宣であろう。
祇園社の後園から蜘蛛が糸を引いていたので、
所司(しょし)が怪しんで訪ねていったところ、
助正の居宅に引きとおっていたという。
それで所司などが奏聞(そうもん)して、助正を神主として、
居宅を御旅所とするように、宣下(せんげ)されたという。
時は天延2年(974)5月のことだといわれている。
元亨(げんこう)3年(1323)に書かれた社家の晴顕の
「祇園社草創以来代々勅願次第」(『社家条々記録』)にも、
高辻東洞院方四町を御旅所の敷地として助正からされ、
「大政所(おおまんどころ)」と号し、
天延2年にはじめて御霊会が行われて、
当社一円進退の神領となったと伝えている。
天延2年というのは、
祇園すなわち観慶寺感神院(かんぎょうじ かんじんいん)が
天台の別院となった年(『日本紀略』)であり、
翌3年には、天皇の去年の疱瘡の時の御願として、
はじめて走馬(はしりうま)・東遊(あずまあそび)などの奉納があるが、
これは兵乱鎮定のためのお祈りであった。
去年の疱瘡のためといわれるように、
天延2年は疱瘡流行の激しかった年であったことがわかる。
このように画期となるべき年であるから、
祇園社側にこの時期にはじまったとする
何らかの伝承があったのであろう。
さて以上のように、御旅所を設定して、
神の臨幸を迎えるということは、
疫神(えきじん)信仰である祇園祭の神観念に対する
大きな変化をあらわすものであった。
そもそも祇園会をはじめとする御霊会は、
疫神を追いやる祭礼であるから、
疫神を乗せる神輿をつくって、それに神が乗っていると考えた。
そしてこの神輿の前で、
神をよろこばせるいろいろの芸能をして歓待し、
供え物をして、神が満足したと見るや、
どこかの水辺に流したのである。
正暦5年の船岡山の例のように、
神輿を難波の海に流しているようにである。
ところが、いつしか神輿を流さずに、
御旅所をつくって安置するようになる。
これは鎮送するものとしての疫神の観念が、そこにとどまって、
自分たちを守ってほしいというかたちに変化していったといえるであろう。
その神観念の変化については次章で詳述したい。
疫神なるがゆえに、朝廷は洛外で祭ろうとし、
京中で祭ろうとする都市民との対立・妥協が、
この祭り形式となったとする説(五味 1984)もあるが、
その基底には、神観念の転化があると思われる。
したがって、本来「追いやらうもの」として
河東(かわひがし)の地に追いやった疫神と、
市中に安置したいという町の住人たちの要求、
その反対の要求の疫神を早く送り出したいという両者の妥協点、
それが普段は河東の地にとどまっているが、
一年に一度は御旅所に臨幸して、
歓迎を受けて、町の人々の生活を守るという
祭礼形式になったといえよう。
このように町の住人たちの、
疫病から自分たちの身体や生活を守りたいという要望、
そのための疫神信託をたくみに汲みあげて、
その信仰の中心センターとなる御旅所をつくっていった人、
それが助正であった。
のちの時代に起こる助正子孫と祇園社の神主職任命をめぐる争論から、
御旅所成立の経過を具体的に解明された瀬田勝哉氏が、
「御旅所は在地の祭礼センター」と指摘されているのは、
まったく賛成である。
助正は、町の人々の要望を汲みあげて、町の人々の先頭に立ち、
率先して居宅を寄付して、神主職におさまった人である。
助正は長者といわれるが、
これはのちの時代の金持ちの代名詞としてのそれではない。
長者というのは、「町の長(おとな)しき人々」などと当時呼ばれた、
自治的な町の共同体の年長順構成のなかの年寄ら有力者であったろう(脇田 1981)。
祇園祭だけでなく、
稲荷祭の御旅所も柴守長者という人の
寄進で設定されたといわれる(近藤喜博 1958)から、
当時、御旅所を設定する祭礼の動きがあって、
それらを担った人々の先頭に立ったのが、
「町の長者」層であったといえる。
居宅を寄進して、神主職に任じられるというのは、
収益を確実にするための方法で、
当時盛行した私領を権門に寄進する寄進地系荘園と同じ動きであった。
土地を寄進して、下司職(げししき)など下級荘官の職権を留保する、
いわば名をすてて実をとるやり方の宗教版といえるものであった。
以後、居宅を祇園社に寄進した助正とその子孫は、
御旅所の神主職を認められた。
神主職をもつということは、当然、御旅所にあがる賽銭、
巫女の神楽(かぐら)や託宣のほかの収益の得分など、
通常の神主同様の収益が入ったであろう。
その上、祇園祭の場合は、のちに述べるように、
馬上役(ばじょうやく)という祭礼の頭役(とうやく[神事の当番役])が出す
祭礼費用三百貫文の半分を収益とすることができたのであった。
16世紀を下らないといわれる「祇園社大政所絵図」には、
大政所と称する御旅所に鎮座した天王と八王子の神輿、
そして降臨した本地仏の文殊菩薩(八王子)・薬師如来(牛頭天王)・
十一面観音(婆梨采女[はりさいじょ])を
拝む助正らしき人物が描かれている(徳田和夫 1990)。
この絵図を子細に見ると、
長刀鉾(なぎなたぼこ)と伯牙山(はくがやま)が描かれている。
(「ツマグロヒョウモンの研究」静岡県 中学1年)
伯牙山は一名、琴破山(ことわりやま)といわれて、
中国春秋時代の話を山につくったものであるが、
応仁の乱前から明応年間(1492~1501)再興後のものと、
出す町内が少しずれているが存在する。
後述するように婆梨采女神輿が鎮座していないことから、
この絵図は、豊臣秀吉以前戦国時代のもとわかる。
戦国時代にも御旅所の信仰が、相当盛行していて、
祇園とは独自に絵解きなどがなされたことがわかるのである。
(『中世京都と祇園祭 疫神と都市の生活』
脇田晴子 吉川弘文館 2016年)
今朝の父の一枚です。
ネジバナがいっぱい咲いているので喜んでいました(^^)v