今朝は日差しが眩しかったです。
こんな天気では梅雨入りの宣言をするは難しいだろうな……
永井路子さんの
「関が原合戦・もう一つの謎
――北政所はなぜ大坂方に味方しなかったか?」
の続きを転記しますφ(..)
(ヨメナ? キク科)
女の戦いの背後には……
このときの家康との連携プレーについて、
気がついている人の中にも、
おねねが結局家康に操られているという見かたがある。
あるいは、淀どの憎しと思うあまり対局を見誤って、
豊臣家崩壊の端緒を作った、さはかな女、とう批難もある。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
永井路子 PHP研究所 1992年)
が、この見かたは当を得ていない。
おねねが淀どのを憎んでいたことはたしかだし、
関ケ原合戦が、
絶好の復讐のチャンスだったこともまちがいがないが、
では淀どのへの憎悪だけでおねねが動いたとみるのはどうか。
もう一度、おねねの心情やおかれた環境を
みつめなおす必要がありはしないか。
たしかに彼女と家康は、かなり以前から、密接な関係はあったが、
大坂城から自分が身を退くのとひきかえに家康を城内にひきいれた、
とするのは、真相に反している。
おねね追出しと同時に淀どの側は五奉行の一人、
浅野長政追放を企んでいた。
なぜなら彼はおねねの義妹の夫であり、
淀どの側にとっては、とかく邪魔な存在だったから。
そこで長政が前田利家を担いで
家康を亡きものにしようとしていると言いふらし、
たくみに長政を排除してしまった。
妙手である。
一方で家康に恩を売り、長政を追いだし、
あわよくば家康、利家双方に疑心暗鬼を懐かせようというのだから。
しかし、これはあまりにも小細工すぎた。
すかさず家康はこれを逆手にとった。
「このような風評が立つのは、
私が伏見にいて大坂と離れているためだ。
今後このようなことのないように城内に入り、連絡を密にしたい」
と西の丸に入ってしまった。
淀どの側はかえって家康につけこまれたのである。
この間、家康はもちろんおねねと連絡はとっていたことだろうし、
おねねとしても大坂退城という完全敗北からぬけだすために、
家康への協力は惜しまなかったことだろう。
いや、むしろ、このとき秀吉亡きあとは家康――と、
ひそかに彼女は思っていたのではなかったか。
彼女は乱世を生きてきた女である。
足利、浅井、朝倉、織田、明智――と有力者は彼女の眼の前で、
次々姿を消しているではないか。
それをしっかと見据えて生きてきた彼女の胸の中に明滅していたのは、
「天下人は一代かぎり」
との思いだっただろう。
この時代、むしろ権力者の家系が続くほうがふしぎなのだ。
代々子供が後を継ぐ制度が定着するのは徳川時代になってからで、
そうなったときの考えかたで戦国時代を眺めるのは大まちがいである。
ということは、そもそも、秀吉が幼い秀頼に
天下をとらせようと考えたことじたいに
無理があったことにもなるのだが……
周知のように家康は秀頼に大坂城を出るかわりに、
大和郡山三十万石を与えるという条件を出している。
淀どのはそれを拒否して死への道を選んだわけだが、おねねは、
――それがほどほど。
と思っていたかもしれない。
なまじ実の子でないだけに秀頼の器量は見通していたはずだ。
さらにもう一つ、彼女の戦国体験がある。
じつは秀吉は信長の死後、
信長の孫の秀信には岐阜十三万石しか与えていない。
この秀信こそ、幼名は三法師。
秀吉は彼を擁して織田家を守る忠臣のまねをしてみせたが、
落着く先はそんなところだった。
実力本位の世の中であれば、しょせん無理もないことで、
秀頼の三十万石は、むしろ厚遇である。
そのあたりに眼配りの届かなかった淀どのは、
秀頼を買被り、冷静な判断力を失っていたというほかはない。
泣きわめきもせず大坂城を去ったおねねと、
城を出ることを拒んで非業の死を遂げた淀どのと――。
二人の敗けっぷりも対照的である。
しかし、これは単に二人の性格の問題ではなさそうだ。
その底にある社会や歴史の問題、とりわけ女性史の研究が進んで、
家とか子供、親族のことが視点に据えられはじめた現在、
これらを鍵にして、
彼女たちの胸の深奥(しんおう)に分け入る必要がある。
たとえば、子供である。
おねねに子がなく、淀どのに秀頼がいるという差は決定的だ。
いかに「まんかかさま」と呼ばれようと、
おねねにとって淀どのと秀頼は他人である。
だから、彼女は、
「豊臣の本流は、秀吉と私でおしまい」
と割切っていたのだ。
このおねねを、新豊臣家ともいうべき秀頼側に抱きこむために、
淀どのは、もっと政治的に動くべきだった。
あくまで「まんかかさま」を表に据え、
自分は一歩も二歩も退って秀頼を支える。
そうすれば清正や正則も味方につけることができたかもしれなかった。
それだけの政治力のなかったことは惜しまれるが、
考えてみると、これも時代のなせるわざかもしれない。
江戸期になれば、なにごとも「家」中心である。
「家」だけが大きな顔をしてのさばりかえり、
おねね、淀どのたちのように、
さまざまな思いを胸に秘める女たちも、
いやでもそれに従わねばならない。
主君は絶対であり、その下で誰もが忍従の一生を送るのだ。
おねね、淀どのと違って、この形を先取りして生きたのが、
淀どのの妹、お初だった。
彼女は京極高次の妻となったものの、子供にめぐまれず、
側室の生んだ忠高が後継ぎとなった。
が、お初はこれをしっかり自分の翼下に抱えこみ、
自分の妹で二代将軍秀忠の妻となったお江の娘、
つまり将軍の姫君を忠高の妻に貰いうけた。
将軍の姫君を迎えたことで京極家は安泰となったかわり、
忠高は一生お初に頭があがらなくなったし、
彼の生母が口出しもできなかったのはいうまでもない。
お初は淀どのと違った道を選び、
要領よく、したたかな世渡りをしたのである。
それに比べると、「家」の観念は、
それほどおねねの中に定着していない。
それは彼女が時代おくれだったというのではなく、
それだけ「家」にしばられず、
女の自我をさらけだして生きる時代を呼吸していたことになろう。
さらに、この時代、女にとって、
まだ「家」とは婚家よりも実家だったことも注目すべきだ。
嫁いだ後も頼りになるのは実家とその家族である。
おねねの場合も実兄家定との結びつきは深い。
関ケ原の前夜、家定はまずおねねの京の邸に駆けつけているし、
秀秋が出陣しただけでなく、
その他の息子たちも、みなおねねに味方した。
その木下家が、徳川時代、
備中足守、豊後日出(ひじ)の藩主となって続くのもこのためであり、
彼らにとっては、おねねは、頼りになる大黒柱だった。
これに比して、淀どのの実家浅井家はすでに滅び、
母方の織田家も崩壊している。
子供の秀頼に執着して、
それを守るよりほかに生きる道がなかったのだ。
子のないおねねと子のある淀どのは、
このために皮肉にも運命の明暗を分けたともいえる。
これまで女たちは母として生きることが絶対だったから、
その分淀どのへの同情も集まったようだが、
シングルライフや子供なしの
自立した生きかたが求められはじめた現在、
おねねに対する評価も変わってくるのではないか。
もちろん、あのときと現代を短絡させるのは早計だが、
江戸時代の「家」の倫理で彼女たちを評価するのは的はずれである。
彼女たちが、歴史上、どのような位置にあって生きたのか、
それを探ることが、
彼女たちの素顔に迫る鍵となるのではないだろうか。
なお、おねねの系図はわかりやすく木下姓のものを使ったが、
もともとは杉原を名乗っていた。
おねねは秀吉に嫁ぐ以前、浅野長勝の養女となっていたが、
これは、長勝の妻が彼女の叔母だったからだ。
浅野家には義妹おややがいて長政を婿養子(むこようし)にしている。
杉原、浅野、木下はつまり縁つづきのグループであり、
『寛政重修諸家譜』でも、おねねは、木下のほか、
杉原、浅野両系図に登場している。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
永井路子 PHP研究所 1992年)
クモは苦手だけどこの子たちに出会うと写したくなる(*´▽`*)
「富津 フンチ合戦 体長10ミリ、地上の小さな戦士」(動画)
シダが胞子で殖える様子がわかる番組です。
「胞子を投げる シダの秘密」(動画5分)
午後から心臓リハビリですp(^^)q
今日からトレッドミルで30分間の歩行です。
初めは時速3.5kmから始めて途中で4km、4.5kmと上げました。
歩行距離は2.10kmでした。
消費カロリーを見るのを忘れました(^^ゞ
途中で、心拍数や酸素飽和度を測ってもらいました。
「さあ始めよう運動療法―心臓リハビリテーション―」
(京都大学医学部付属病院循環器内科 YouTube5分)
おねねに子がなく、淀どのに秀頼がいるという差は決定的だ。
いかに「まんかかさま」と呼ばれようと、
おねねにとって淀どのと秀頼は他人である。
だから、彼女は、
「豊臣の本流は、秀吉と私でおしまい」
と割切っていたのだ。
このおねねを、新豊臣家ともいうべき秀頼側に抱きこむために、
淀どのは、もっと政治的に動くべきだった。
あくまで「まんかかさま」を表に据え、
自分は一歩も二歩も退って秀頼を支える。
そうすれば清正や正則も味方につけることができたかもしれなかった。
それだけの政治力のなかったことは惜しまれるが、
考えてみると、これも時代のなせるわざかもしれない。
江戸期になれば、なにごとも「家」中心である。
「家」だけが大きな顔をしてのさばりかえり、
おねね、淀どのたちのように、
さまざまな思いを胸に秘める女たちも、
いやでもそれに従わねばならない。
主君は絶対であり、その下で誰もが忍従の一生を送るのだ。
おねね、淀どのと違って、この形を先取りして生きたのが、
淀どのの妹、お初だった。
彼女は京極高次の妻となったものの、子供にめぐまれず、
側室の生んだ忠高が後継ぎとなった。
が、お初はこれをしっかり自分の翼下に抱えこみ、
自分の妹で二代将軍秀忠の妻となったお江の娘、
つまり将軍の姫君を忠高の妻に貰いうけた。
将軍の姫君を迎えたことで京極家は安泰となったかわり、
忠高は一生お初に頭があがらなくなったし、
彼の生母が口出しもできなかったのはいうまでもない。
お初は淀どのと違った道を選び、
要領よく、したたかな世渡りをしたのである。
それに比べると、「家」の観念は、
それほどおねねの中に定着していない。
それは彼女が時代おくれだったというのではなく、
それだけ「家」にしばられず、
女の自我をさらけだして生きる時代を呼吸していたことになろう。
さらに、この時代、女にとって、
まだ「家」とは婚家よりも実家だったことも注目すべきだ。
嫁いだ後も頼りになるのは実家とその家族である。
おねねの場合も実兄家定との結びつきは深い。
関ケ原の前夜、家定はまずおねねの京の邸に駆けつけているし、
秀秋が出陣しただけでなく、
その他の息子たちも、みなおねねに味方した。
その木下家が、徳川時代、
備中足守、豊後日出(ひじ)の藩主となって続くのもこのためであり、
彼らにとっては、おねねは、頼りになる大黒柱だった。
これに比して、淀どのの実家浅井家はすでに滅び、
母方の織田家も崩壊している。
子供の秀頼に執着して、
それを守るよりほかに生きる道がなかったのだ。
子のないおねねと子のある淀どのは、
このために皮肉にも運命の明暗を分けたともいえる。
これまで女たちは母として生きることが絶対だったから、
その分淀どのへの同情も集まったようだが、
シングルライフや子供なしの
自立した生きかたが求められはじめた現在、
おねねに対する評価も変わってくるのではないか。
もちろん、あのときと現代を短絡させるのは早計だが、
江戸時代の「家」の倫理で彼女たちを評価するのは的はずれである。
彼女たちが、歴史上、どのような位置にあって生きたのか、
それを探ることが、
彼女たちの素顔に迫る鍵となるのではないだろうか。
なお、おねねの系図はわかりやすく木下姓のものを使ったが、
もともとは杉原を名乗っていた。
おねねは秀吉に嫁ぐ以前、浅野長勝の養女となっていたが、
これは、長勝の妻が彼女の叔母だったからだ。
浅野家には義妹おややがいて長政を婿養子(むこようし)にしている。
杉原、浅野、木下はつまり縁つづきのグループであり、
『寛政重修諸家譜』でも、おねねは、木下のほか、
杉原、浅野両系図に登場している。
(『女の修羅・男の野望 私の歴史ノートから』
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今日からトレッドミルで30分間の歩行です。
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歩行距離は2.10kmでした。
消費カロリーを見るのを忘れました(^^ゞ
途中で、心拍数や酸素飽和度を測ってもらいました。
「さあ始めよう運動療法―心臓リハビリテーション―」
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