「特別展 池大雅 天衣無縫の旅の画家」を見に行きました(^_^)v
日曜美術館「漂泊の天才画家 池大雅」を見て、是非見たいと思いました。
平日ということもあってかゆっくりと見ることができました。
池大雅のことを知らずにいたのですが、大雅の描く人物の顔にほっこりしました。
「五百羅漢図」など見ていても肩の力が抜けていくような穏やかな気持ちにさせてくれました。
これから池大雅のことを調べたくなりましたp(^-^)q
『近世畸人伝』に載っている池大雅と妻玉瀾の挿絵に夫婦仲のよさが出ています。
史跡方広寺石塁および石塔(昭和44年4月12日指定)
耳塚(鼻塚)
この塚は、16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(朝鮮史では、壬辰・丁酉の倭乱、1592~1598年)にかかわる遺跡である。
秀吉輩下の武将は、古来一般の戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本へ持ち帰った。
それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。
これが伝えられる「耳塚(鼻塚)」のはじまりである。
「耳塚(鼻塚)」は、史跡「御土居」などとともに京都に現存する豊臣秀吉の遺構の一つであり、塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と想われる。
秀吉が巻き起こしたこの戦争は、朝鮮半島における人々の根強い抵抗によって敗退に終わったが、戦役が遺したこの「耳塚(鼻塚)」は、戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、いまに伝えている。
京都市 平成15年(2003)3月
元和キリシタン殉教の地
1619年10月6日,鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりで、将軍秀忠の命により、52人の信者が火あぶりの殉教を遂げた。
うち11人は子供であった。
日本の教会の殉教史で大殉教と呼ばれる殉教は三つである。
1622年9月10日の長崎の殉教、1623年12月4日の江戸の殉教、1619年10月6日の京都の大殉教である。
(「京都の大殉教」カトリック中央協議会を参照してください)
源融(みなものとのとおる)河原院(かわらいん)跡
この付近には、嵯峨天皇皇子で『源氏物語』の主人公 光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の左大臣 源融(822~895)の邸宅 河原院があった。
東西は現在地から柳馬場通まで、南北は現五条通から六条通(一説には正面通)に及ぶ広大な敷地を有する、平安京屈指の大邸宅であった。
邸内には陸奥塩釜の風景を写した庭園を造り、難波の浦から運んだ海水で塩焼きをしては、その眺めを楽しんだという。
河原町五条に西側に「塩竈町」「本塩竈町」の町名があるのは、このことに由来する。
また、この榎の大樹が邸内にあった森の名残とも言われている。
河原院自体も、『源氏物語』で光源氏が自邸として造営した六条院に投影されており、作中では源氏が妻たちとともに住み、冷泉帝・朱雀院の行幸を得て栄達の極みを謳歌する舞台となっている。
京都市
「酉歳一生の守本尊」とあったのでお参りしました。
母は酉年です(^_^)v
明王院不動寺(みょおういんふどうじ)
青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で、俗に「松原不動」という。
持統天皇5年(691年)に、道観大徳(どうかんだいとく)が開基した法相宗の寺であったが、のち弘法大師が自作の「石仏不動明王」を安置してから現宗に改まったといわれている。
平安京造営の時に、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北の四つの磐座(いわくら 石蔵)に経巻を収めたが、明王院はその四岩倉の一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。
天暦年間(947~957年)、賀茂川氾濫に遭い、堂舎はことごとく流没し、一時比叡山の苔筵法師(たいえんほうし)によって再興されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋れてしまった。
天正年間(1573~1592年)、豊臣秀吉は聚楽第の造営に際し、ここから苔むした本尊不動明王を得て、聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので、霊験を感じ、旧地に堂舎を建立し、これを再び奉安したという。
京都市
昔ながらのオムライスがワンコインでおつりがきます♪
450(税込み480)円で食べられる♪
地元に愛されているお店だろうな「ますや」
カウンター席7人の小さなお店です(^_^)v
赤矢印の所は
夕顔の墳
源氏物語の中で「六条御息所」の生霊に殺されるのが「夕顔」であるのは余りにも有名ですが、夕顔の住まいが「五条の辺り」とあります。
堺町松原(旧五条通)上ルに「夕顔墳」の碑が建てられています。
(「松原通おさんぽマップ」)
朝顔の墳も探したけど見つからなかった(T.T)
松原橋(まつばらばし)
松原通は平安時代の五条大路であり、当初は嵯峨天皇の勅命により橋が架けられたともいわれる。
清水寺の参詣道でもあったことから、人の往来が多く、大変賑わった都の目抜き通りであった。
元来、この地に架かっていた橋が五条橋であり、通りの両側に見事な松並木があったことから五条松原橋とも呼ばれていた。
安土桃山時代、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり、この地に架かっていた橋を平安京の六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え、五条橋と称した。
そのため、この地の橋の名前からは「五条」が外れ、以後、松原橋と呼ばれるようになった。
この通りは、歴史的・伝承的に話題が豊富である。
伝説に謳われる牛若丸と弁慶の決闘、「京の五条の橋の上」は、当地のことを指す。
また、この橋を東へ進むと清水寺に行き着くが、途中、冥界へ通じると言われる井戸で有名な六道珍皇寺がある。
現在架かる橋は、昭和10年(1935年)鴨川の大洪水による倒壊流出後に架け替えられたものである。
京都市
池大雅展の展覧会図録の重さが1kg以上もある(°°)
今回はリュックで来てよかったと思いました(´。`)
暑かったのでリンゴジュースとマフィンのセット。
マフィンは塩昆布です(o゜▽゜)o
疲れていたので塩味がよかったです!
時々ここでお昼をいただいています「SAGAN」(^_^)v
地獄の冥官小野篁の伝説が残る
現世と冥界の境界に建つ寺
古来、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)とともに風葬(ふうそう)の地として知られていた鳥辺野(とりべの)。
かつての五条通であった門前の松原通は鳥辺野へ亡骸を運ぶ際の通路であった。
現世から冥界へ行く際の入り口とされたこの寺の界隈にはさまざまな伝説が残る。
平安時代、五条坂から今熊野あたりの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の麓一帯は鳥辺野と呼ばれる京の東に位置する葬送の地であった。
都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡り、鳥辺野へ至る道筋にあたる六道珍皇寺にて野辺の送りの法要を行い、この地で最後のお別れの後、隠坊(おんぼう)により風葬の地である鳥辺山の麓へと運んで行った。
そんな風習のためか珍皇寺の辺りを中世以降「六道の辻」と称し、他界(冥界)への入り口とされてきた。
この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。
衆生は死後生前の善悪の業により、六道のいずれかに赴くとされ、珍皇寺はこの六種の冥界への入り口にあたり、こここそが人の世の無常とはかなさを感じる「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。
この寺の冥界にまつわる伝説がもう一つある。
それは、平安時代初期の官僚で、閻魔大王に仕えたとされる小野篁は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜毎冥界へ通ったという。
また、時としてその出口として嵯峨野の大覚寺門前の六道町に明治頃まであった福生寺の井戸を使ったという俗説もある。
近年隣接民有地(旧境内地)より、冥途からの帰路の出口に使ったと伝わる「黄泉(よみ)がえりの井」も発見された。
格子の穴から閻魔大王と
小野篁をのぞきました…
写真に写したら罰が当たるかも(^^ゞ
昨日が母の月命日でした。
「迎鐘」を撞かせていただきました。
「冥途通いの井」(赤矢印)は特別拝観の時などに見ることができます。
八坂庚申堂も観光客で一杯でした…
2016年7月31日にここを訪ねているのに知らなかったな…
大雅堂旧址
和光同塵
「大雅堂旧址」①、「和光同塵」②
この季節、見物する観光客は、ほとんどいませんが(^_-)シダレザクラが見事だなと思いました(^。^)
ブラタモリの「#70 京都・祇園」の放送で紹介されていた時は懐かしかったです(´。`)
○ ○ ○ ○
父がトンカツを食べたいというのでトンカツ屋さんに(^_^)v
昨日の母の命日に父がゴーヤチャンプルを作ってくれましたp(^-^)q
今日の記事は、急いで書きましたので誤字脱字などが多いと思います。
Kazeさん
返信削除こんにちは
ようやく気温が上がってきましたね。
京都が近くて羨ましいです。
源氏物語が大好きだった母、
今はどれだけ思い出せるかな?
という日々です。
また一緒に行くことができたら、、
と思っていますが、、
お父様お元気そうでよかったです。
Kazeさんとの外出が楽しみですね。
becoさんこんばんは(*^O^*)/
削除暑いですが、空気がサラッとしているので助かります(^-^)
京都へは1時間弱で訪ねることができるので気楽に行くことができます。
>今はどれだけ思い出せるかな?
記憶は、何かきっかけがいりますよね…
部屋にいるとどうしても記憶が曖昧になります…
出かけることができますように!
父は、頑固者ですが
そのおかげで足の痛みや肩の痛みがあっても
動かすことで治すという気概があるので助かっています。
この頃は、写真を撮ることを楽しみしてくれていますp(^-^)q