6月になり梅雨も間近かな?
なんか曇り空で蒸し暑かったです(^-^;
この季節、木々の葉が生い茂ってきたので野鳥の撮影を諦め
90㎜マクロレンズ(MF)での撮影にします。
これからは虫たちが主役になります(^_-)
時折、参照元に赤字でリンクさせていますが
虫の苦手な人はクリックしないでください!
なお、町歩きの時は24㎜レンズ(MF)などで撮っています。
龍谷ミュージアムで「因幡堂 平等寺」展を見たときに
因幡堂の石標や石燈籠を飯田新七が寄進したことを展示していました。
それを見て因幡堂の石標や石燈籠を確認しました。
図録の中に「因幡堂と髙島屋」というコラムがあるので転記しますφ(..)
(図録には図などが多数収録されています)
因幡堂と髙島屋
髙島屋資料館 高井多佳子
はじめに
日本の〝老舗百貨店〟のひとつである高島屋は、
今から188年前、天保2年(1831)に京都の地で創業した。
現在、四条河原町に大型店舗を構える髙島屋の創業地が、
烏丸松原上ル西側、すなわち烏丸通を挟んだ
因幡堂の向かい側であったことを知る人は少ない。
ごく小さな古着木綿商として創業した高島屋が、
やがて呉服商となり、百貨店へと歩みを進め得たことは、
庶民の信仰を集め参拝者で賑わった
因幡堂の傍に位置していたことと決して無関係ではないだろう。
本コラムでは、髙島屋資料館が所蔵する創業家文書から、
因幡堂と髙島屋の関りの一端を紹介することにしたい。
(『因幡堂 平等寺―京に飛んできたお薬師さん―』
編集 龍谷ミュージアム 2019年)
1.髙島屋の創業 烏丸松原の「髙儀」と「髙新」
創業者である初代飯田新七(1803~1874)は、
越前国敦賀(福井・敦賀市)出身の中野家に生まれた。
12歳から京都の呉服商へ奉公し、
26歳の時、京都烏丸松原の米穀商飯田儀兵衛の
娘婿として飯田家へ入ったが、
家業の米穀商を継ぐことはしなかった。
文政10年(1827)9月に始まる商品勘定帳が残されており、
この頃から古着や木綿の行商を初めていたことが知られる。
やがて分家し、天保2年(1831)正月、
烏丸松原上ル薬師前町西側に店を開いたのであった。
さて、本家の飯田儀兵衛は、
近江国高島郡今津町南新保村(滋賀・高島市)出身で、
江戸時代後期に京都へ出て米穀商を始めた。
屋号は出身地にちなんで「髙島屋」とし、「髙儀」と呼ばれた。
「髙儀」は天保初年には、
駕輿丁(かよちょう)や町年寄をつとめる町の有力町人となっていた。
一方、古着木綿商を始めた初代新七もまた、
本家と同じ「髙島屋」を屋号とし、「髙新」と呼ばれた。
嘉永年間には本家に続いて駕輿丁、町年寄をつとめ、
安政2年(1855)正月より呉服商となったのである。
2.因幡堂標石と石燈籠の寄進
初代新七は信仰心の篤い人物であったと伝わる。
その生涯を通じて、清水寺や八坂神社など
京都の神社仏閣へ寄進を続けたことが、
自筆の日記や寄進録によって知られる。
弘化5年(1848)2月には、因幡堂へ標石を寄進した。
この標石には次のような逸話が伝わる。
標石「いなはやくし」の文字は、鷹司家の祐筆田辺某の筆であった。
鷹司(たかつかさ)公(関白鷹司輔熙〔すけひろ 1807~1878〕)が
因幡堂の前を通りかかった折に、
その文字に目を留めて「能筆なり、誰が手跡ぞ」と
髙島屋に尋ねたところ、
自身の家臣であったと知った関白は
「そうであったか」と拍手して褒め称えたという。
その9年後、安政4年(1857)8月に初代新七は因幡堂へ石燈籠一対、
翌5年2月に北野天満宮へ石燈籠一対をそれぞれ寄進した。
この両所の石燈籠は完成の時期こそ異なるが、
日記によれば、初代新七自身が同時に発起したものであったという。
当時54歳の初代新七は、前年8月に
娘婿新太郎(二代新七)へ名前を譲り、
自身は新兵衛(真兵衛とも記す)と改名して隠居した。
翌年2月19日、町の人々を招いた名前譲り披露の席上、
彼は集まった一同へ、
因幡堂と北野天満宮へ石燈籠を寄進したい旨を
伝え助力を請うたのであった。
完成した石燈籠には発起人として「髙島屋新七」の名が刻まれた。
当時の「新七」は二代新七を指すが、
両所の石燈籠寄進の真の発起人は初代新七であった。
「油料預ケ銀控」には、
石燈籠建立は「髙島屋新七」の数年来の願望であったと記されている。
そして、「燈明油料」を町と世話方へ半分ずつ預け、
その利息銀を以て両所へ永世に油料を納める仕組みを調えたのである。
隠居という人生の節目にあたり、代替わりをした髙島屋の行く末、
また頻発する地震(安政大地震)への不安、
さらには風雲急を告げる京の町と日本国の前途を案じて神仏に祈る―、
初代新七の様々な思いが込められた石燈籠寄進であったのだろう。
3.「仏涅槃図」と飯田家
「仏涅槃図」(No.46)もまた、
髙島屋飯田家と因幡堂との深い関りを伝えてくれる。
本図は享和3年(1803)の成立であるが、
木箱の墨書から、文化5年(1808)、
大正9年(1920)の二度にわたって修復されたとみられる。
「大正九年四月吉日」の日付と共に記されているのが
「飯田源次郎」の名である。
飯田源次郎(源治郎とも記す〔1874~1936)は、
髙島屋本家の米穀商「髙儀」へ、
三代儀兵衛の娘婿として入った人であるが、
それまでは「友七」と呼ばれていた呉服商「髙新」の店員であった。
「髙新」での精勤ぶりを見込まれて
本家への婿入りであったと推察されるが、
源次郎はその後も髙島屋呉服店に勤務し、
経営会議に臨席することもあった。
源次郎の義父三代儀兵衛は大正3年(1914)4月27日に没している。
同9年4月20日には故三代儀兵衛の法要が営まれた。
おそらく、源次郎は亡き義父の供養として、
因幡堂の「仏涅槃図」を修復し施入したのであろう。
おわりに
近代に入ると、因幡堂と髙島屋のつながりはますます密接となった。
初代新七の孫である四代飯田新七(1859~1944)の日記によれば、
髙島屋主催の懸賞図案募集や
染物競技会などへの応募作を審査、陳列し、
そして授賞式を行う会場として
因幡堂の方丈を使用することがたびたびあったという。
明治35年(1902)6月には、
帛紗(ふくさ)図案500枚余りを因幡堂に陳列し展観した。
また、髙島屋の染織品下絵を描く仕事をしていた
若き日の竹内栖鳳(たけうちせいほう)、
「大作は、自宅では狭いので因幡堂の座敷でよく描いた」
と語っている。
さらに日記には、因幡堂が町の集会所として機能していたこと、
能や芝居、角力が催されたこと、
各種の演説会が行われていたことが折に触れて記されている。
因幡堂は信仰の場であると同時に、
公共の文化施設としての役割をもあわせ持つ、
町の人々が集まる場であった。
店舗が恵まれた立地にあったこと―、
これが今日の髙島屋を成した要因のひとつであるといえよう。
(『因幡堂 平等寺―京に飛んできたお薬師さん―』
編集 龍谷ミュージアム 2019年)
「植物の細胞はどんなもの?」(動画)
今朝の父の一枚です(^^)v
ツバメを撮りたくて何枚も写していました(*´▽`*)
昨日、京都を歩いていて外国からの観光客の方が
子どもと一緒にツバメの子育てを楽しそうに見て、
スマホなどで撮影していました。
「ツバメ 軒下の子育て」(動画)