2019年11月29日金曜日

日ざしがあふれていると(^^)v

なんか日ざしを見るのは久しぶりのような…
日影は寒かったけど、日向は気持よかったです(^^)v
ジョウビタキの雌に出会って写させてほしいなぁと呟いていると…
下に降りてきてくれました♪
昨日、石清水八幡宮の参道で護国寺跡を見たのですが
図書室で本を見ていると『廃仏毀釈百年―虐げられた仏たち』に
石清水八幡宮護国寺」があったので転記したいと思いますφ(..)
(「第三章 廃仏毀釈―何が行われたのか(その一)」より) 
(2)石清水八幡宮護国寺
 石清水八幡宮は、貞観2年(860)に武内宿弥の後裔(えい)とされる僧行教が、阿弥陀三尊の示現によって、清和天皇の勅を奉じて創建したものである。
記録によれば、はじめ貞観18年(876)までの17年間は、ここに神主なるものはいなかった。
創建当初から、純然たる仏式であったのである。
その後、主役たる僧侶が、脇役方としての神主に貞観18年(876)から奉仕の手伝いをさせることになっていったのであった。
いいかえれば、母屋は寺院であり、その軒先に社(やしろ)があったわけである。
それが、明治になって、逆転し軒先を与えられて育てられた恩義も忘れて、飼い主に喰いついてかみ殺してしまったのであった。
うまく言えば、軒をかりて母屋を取ったといったら過言であろうか。
(『廃仏毀釈百年―虐げられた仏たち』佐伯恵達 鉱脈叢書16 1988年)
 さて、この石清水八幡は、創建されて以来実に千有余年の間、一般庶民から尊崇されてきたのであったが、ここも例の明治の廃仏令によって、僧侶は還俗させられて俗人となり、法施(仏の教えを説くこと)や読経を禁止され、仏像・仏具等は残らず取り払われるという狂行がなされたのである。
 宋国版一切経、大塔・八角堂・愛染堂・鐘楼(いずれも国宝級)はすべて売り払ってしまった。
そしてその代金は神職の手当てとしたという。
また、開山行教筆の紺紙金泥の法華経八巻、無量義経壱巻、観普賢経壱巻は入札に付せられて、金六十両で落札された。
下殿の仏具は十一両二歩で落札された。
護国寺、琴堂、経蔵もそれぞれ落札されたが、これはそのままとなっていたといわれている。
他に阿弥陀如来像、七社宮殿、僧形御影、愛染明王御影、曼荼羅等々もすべて売却されてしまったのであった。
これらによる莫(ばく)大な売上金は、ほとんど神主の生活費にあてられてしまった。
売却されたもののうちには海を越えて外国に流出したものもあるという。(『神仏分離史料』)
 明治2年(1869)12月、世にも不思議な稚拙きわまりない蛮行が実施された。
それは、石清水八幡の開山である行教上人の還俗復飾の儀式が行われたことである。
千年前の開山上人まで神職にしてしまったのである。
開山堂は神殿に造りかえ、開基住職たる行教上人の木像の頭には烏帽子が釘付けされたのである。
この狂行は、仏教弾圧に対する腹立たしさを通りこして、むしろ滑稽とさえ言えるであろう。
 更に、明治4年(1871)4月には、八幡領八千六百石すべてが国に取り上げられたのであった。
こうして、今の石清水八幡宮ができあがったのである。
(『廃仏毀釈百年―虐げられた仏たち』佐伯恵達 鉱脈叢書16 1988年)
2019年1月5日の記事で紹介した
石清水八幡宮の宮司が語る 謎多き神 八幡様のすべて
から転記した「神仏和合の精神」も参照してください。

先日紹介した『アジアの民話』に
心があったかくなるお話があったので転記しますφ(..)
へらないお米の謎
 むかし、ある村に、貧しいお百姓の夫婦が住んでいました。
ふたりのむすこのうち、兄が嫁をもらいました。
兄は年とったふた親のめんどうをみながら、せっせと働きました。
(『アジアの民話』文・君島久子 絵・太田大八 講談社 昭和57年)
 まもなく、弟も嫁をもらって、となり村にひっこしをしました。
弟もいっしょうけんめい働いて、やっと、小屋のような家をつくりました。
けれども、ひどい貧乏で、地主におさめるお金もなければ、牛をかうお金もありません。
 しかし、弟は働きもので、朝は、どこの家より早おきして、田んぼにでかけ、夕がたは、みんながかえってしまっても、まだ働いているのでした。
 こんなに弟は、貧乏なくらしでしたが、兄の家も、それいじょうに苦しい生活でした。
兄弟は、どちらも、食うや食わずの貧しいくらしでしたが、人もうらやむほど仲がよく、いつもいたわりあい、はげましあっていました。
 ある年の秋のことです。
兄は、とりいれをすまして、もみのままのお米を、袋にいれました。
かぞえてみますと、ちょうど十袋でした。
 兄は袋を見ながら考えました。
「ことしの米のできも、あまりいいほうじゃあない。だが、弟のところは、もっとわるかった。ひと袋もっていってやるとしよう。えんりょするといけないから、ないしょでこっそりおいてこよう」
 兄は日がくれてから、お米の袋をしょって、弟の家へでかけていきました。
 途中で、だれかとすれちがいましたが、なにしろ、まっくらな夜道ですから、はっきりしませんでした。
兄は弟の家のうら口から、こっそりはいりました。
お米のおきばしょに、自分のしょっていったお米をそっとおろすと、いそいでかえってきました。「しめしめ、弟はすこしも気がつかない。もうひと袋、持っていってあげよう」
 兄はそうきめました。
ところが、家にかえってみると、これはふしぎ。
お米の袋は、もとのようにちゃんと十袋あるのです。
すこしもへってはおりません。
いったいこれは、どうしたことでしょう。
 けれども兄は、あまり考えるひまもなく、すぐにまたひと袋しょって、弟の家へでかけていきました。
途中でまた、だれかとすれちがいましたが、くらい夜道なので、だれだかわかりませんでした。
 弟のところへ、こっそりお米をおいて、兄は家へかえりました。
かえってみると、やっぱりお米は十袋あるのでした。
まったくふしぎです。兄は決心しました。
「よし、それじゃ、こんどは二袋しょっていってやろう」
 そこで兄は、またかよいなれた小道を通って、弟の家へむかいました。
ちょうどこのとき、月が顔をだして、こうこうと夜道をてらしました。
しばらくいきますと、むこうから人がやってきます。
どうやらその人もなにかしょっているようです。
「おや、あいつじゃないか!」
 兄はその人を見てびっくりしました。
それは弟だったのです。
「こんなに夜おそいのに、おまえはどこへいくのかね」
「にいさんこそ、こんなにおそいのに、どちらへいくんです」
 弟もまけずに、問いかえしました。
そしていっしょに、「わっははは」とわらいました。

 これで、ふたりはすっかりなぞがとけたのです。
弟もまた兄にあげようとおもって、こっそりとお米の袋をはこんでいたのでした。
ふたりは、ちょうどおんなじ時間に、はこんでいたので、いくらはこんでも、へらなかったというわけです。
 兄弟ふたりは顔を見あわせて、もういちど、「わっははは」とわらいました。
 そして、しっかりと抱きあいました。
お米はとても重かったけれど、ふたりの心は、とてもかろやかでした。
 (「朝鮮民間故事」より)
(『アジアの民話』文・君島久子 絵・太田大八 講談社 昭和57年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♂がチョコンと止まっていました。