2019年11月18日月曜日

青空から…

枯れ葉が小枝に刺さっているように見えたのですが
絶妙なバランスで乗っていました(*´▽`*)
今朝も青空が広がっていて風がないので落ちずにすんでいるようです。
歩いていると西の空に雲が広がってきたなと思っている
一気に曇り空になりました。
午後から図書室に資料集めに行くと、ムーッとするような暖かさ…
土曜日の番組をたまたま父と一緒に見たのですが、
父もすごいなと言っていたのが
Eテレ ろうを生きる 難聴を生きる「振動と光で“音”をつかめ!」
「音」を「振動と光」に変えて知らせる装置「Ontenna」を
若い技術者、本多達也さんが開発し、商品化していました。
11月22日(金) 午後0時45分 から再放送されます。

こういう製品は、大量に売れるものではないのに
大手の企業がゴーサインをだしたことにも感激しました。
感じること、それが未来。 Ontenna《オンテナ》」(富士通)
昨夜の番組、NNNドキュメント「由美子ちゃんのおべんとう」
この番組は、民放にありがちな感動を押し売りするようなナレーションがないので好きです。
見ているだけで美味しいお弁当のようにホカホカしてきました(*´▽`*)

番組に出てくる取り組みは以下に詳しいです。
地元明浜町の買い物難民に、買い物が出来る場所を提供したい!」(宇都宮由美子〔ゆめさく屋代表〕)
幼保無償化の波紋…「私、保育士辞めます」〟(NHK)
このニュースを読んで、前から思っていたけど
働く人の待遇改善がなされないままに労働環境が厳しくなると
幼保の施設では子どもたちに、介護施設では利用者にしわ寄せがいくと思います。

「保育園を考える親の会」の普光院亜紀代表は
「今回の無償化については
『待遇改善が先のはずなのに無償化に先に財源が使われてしまった。
優先順位がおかしいじゃないか』という声が上がっています」


虐待のことがニュースになりますが、
現場の職員はストレスがそれだけ溜まっていると思います。
公園で子どもたちを引率してる保母・保父さんを見かけますが
一人が担当する子どもたちが多いので気の毒になります。
一方、こんなニュースも…
「幼保無償化で負担増も」ひとり親支援団体が改善を要望〟(NHK)
今の大阪を見ているとカジノ誘致を前提に万博を誘致したのだなと思う。
大阪・関西万博 開幕を前倒しへ」(NHK)
大大阪の時代と比べると儲かればいいという気風に落ちてしまったと感じるのは私だけかな…
大阪の20世紀』より「徳風学校 貧しい子の教育支え」を転記したいと思いますφ(..)
徳風学校 貧しい子の教育支え
開校式

 教師たちに先導された80人余りの子供たちが、雨天体操場に入ってきた。
全員が揃いの筒袖。
帯に手ふきをはさみ、胸には記章をつけている。
君が代斉唱のあと、木津第二尋常高等小学校長を兼ねる校長の浅井清太が、教育勅語を読んで聞かせた。
 来賓の一人が「今日ほど心底から涙がこぼれるほど、うれしい式を見たことがない。それは昨日とうって変わって、皆さんのかわいらしい、おとなしい姿を見ることです」とあいさつした。
児童代表の丸田鶴吉が答辞を述べた。
 〽うれし、うれし、今日しも聞く学びの庭……と一同が歌う唱歌が場内に響いた。
 1911年(明治44年)7月5日午後、今宮戎神社に近い大阪市南区(現・浪速区)南高岸町の仮校舎で、「私立徳風学校」の開校式が行われた。
 学校には子供たちの病気を治療する施療所も併設されていた。
式の後、施療所に案内された親の一人は「子供に教育をしていただくだけでなく、病気まで診ていただくとは……」とうれし涙を流したという。
(『大阪の20世紀』産経新聞大阪本社社会部 2000年)

*「 〽うれし、うれし……」の曲名や歌詞がこれでいいのか調べたのですが分かりませんでした。
 授業は開校式翌日の夜間から始まった。
教壇に立ったのは、浅井のほか、木津第二、恵美第一、恵美第二の各尋常小学校の教員たち、いずれも兼務だった。
授業は一般の小学校と同様、読み書きや算術、歴史などだった。
ただ、仕事に就くために、手に職を付けなければならないという状況もあって、職業教育にも時間を割いていたようだ。
「手工」といわれた実技の授業では、男女を問わず、机や木箱などの組み立て、ペンキやニスの塗り方などを学んだ。
子供たちは、自立できる能力を身につけようと必死で、授業は大変静かな中で進められた。
 うわさを聞いて入学する子供は日ごとに増え、教室はすぐに不足をきたした。
このため、翌年の45年には、学校東側の土地を所有者だった堂島米穀取引所理事長の高倉藤平に無償で借り、建て替えのために売り出されていた恵美第一小の校舎を譲り受けて新校舎とした。
大正3年には昼間部もできた。

署長ら奔走
「やあ巡査が通る、巡査が通る」。
明治43年秋のある日、騒ぎ立てた数名の子供たちが石を投げつけた先に、難波警察署の新任署長、天野時三郎がいた。
 巡視中の天野は一瞬、どなりつけてやろうかとも考えたが、「昼間からこうして遊んでいるのは、学校に行っていないに違いない。教育をつけてやらねばならない」と思いとどまった。
近辺は荒廃が進んでいた。
子供を学校に通わせる余裕のない労働者が多く、就学率は大阪市内でも極端に低かった。
天野はこうした子供たちのために学校づくりに奔走するようになる。
 天野の考えに賛同し、支援したのが、「鉄工王」と呼ばれた久保田鉄工(現・クボタ)の創始者、久保田権四郎だった。
権四郎は金銭面の援助だけでなく、自社の貸工場を手入れして、校舎として差し出した。
学校には、教室二つと雨天体操場、施療所をはじめ、幼児を預かる保育所もあり、一般の小学校と比べて、かなり充実していたようだ。
 戦後まもなく久保田鉄工に入社し、社長、会長を務めた三野重和(76)=現・相談役=は、徳風学校と権四郎の関わりについて、「権四郎さんは子供のころ苦労されており、貧しい子供たちのために学校を作ったのだと思う。懐の深い人だったようです」と話す。
 こうして徳風学校は産声をあげた。
校名は天野が『論語』の『君子之徳風(くんしのとくはかぜなり)』から引用した。
「刑罰で悪の道を絶つことを考えるより、徳をもって民衆を教化する」との意味だった。

1890~1926(明治23年~大正15年)創業と個人経営の時代」(クボタ)
民間が支援
「家のために働こう」。
徳風学校の校訓はこう始まっていた。
子供でも家計を支えねばならないという事情から、当然のように欠席者は多かった。
とくに、働く子供がほとんどの夜間部の出欠は予測がつかなかった。
学校の事務員を兼ねていた巡査が熱心に督促に出かけたが、効果はあまりなかった。
 大正の初め、世の中が好景気にわいていたことも影響したようだ。
子供たちを労働力として使っているガラスやマッチの工場などは繁忙を極め、賃金を上げて居残り残業を奨励した。
子供たちは儲かるのがうれしくて、家庭に少しでもお金を入れようとした。
 そんな子供たちの欠席を、かろうじて押しとどめたのが給食だった。
現在の給食といえば、昼食と決まっているが、徳風では、欠食児童対策としての朝食と働く子供たち用の夕食が用意された。
給食には白米が出されたが、サントリーの創業者、鳥井信治郎が匿名で寄贈したものだった。
 久保田権四郎に続き、高倉藤平、鳥井信治郎……。
こうした民間人が学校を支えていた。
 大阪市教育研究所で大阪の学校の歴史などを研究した赤塚康雄(64)=現・天理大教授=は「東京にも貧しい子供のための学校はあったが、すべてが官主導。しかし、大阪の場合、救済事業は民間主導で行われ、徳風もそのひとつだった。大阪には民間から何かが生まれるという土壌があるのでしょう」と指摘する。

創立者 鳥井信治郎」(邦寿会)
釜ヶ崎へ
 大正11年3月、私立徳風学校は大阪市に移管され、市立徳風尋常小学校となった。
ほかの小学校が学区で維持、運営されていたのに対し、徳風は学区を持たない小学校だった。
ここでも大阪市の社会部長に就いていた天野の後押しがあったようだ。
 市立への移管から5年後の昭和2年6月、今度は勤労学校への転換が図られる。
手に職をつけ、卒業後はすぐに自立生活に入る能力を養成しようとした。
職業教育は授業時間の半分以上を占めた。
 昭和に入り、大阪市内の過密住宅化が次第に南下し、未就学児童の割合も西成のあいりん地区「釜ヶ崎」で目立つようになる。
付近には約60軒もの木造の簡易宿舎があり、一軒に少なくとも約50人、多いときには200―300人が宿泊していた。
徳風は13年3月、釜ヶ崎に移転した。
 同じ年の『徳風勤労学校概覧』によると、274人の児童の家庭204世帯のうち、過半数を超える107世帯が簡易宿舎で生活しており、普通の家屋は賃貸を含めて83世帯にとどまっていた。
中には小屋暮らしを余儀なくされていた家庭もあった。
教師たちは、連日、欠席している児童宅を訪ね歩いた。
 《父母が病気のため家計を助けるべく、行商をしているとは聞いていたが、見舞いかたがた詳報を得るべく訪問》
 『家庭訪問記』には、こんな記述が至る所にあったという。
 師範学校の生徒たちもしばしば、参観に訪れた。
13年春ごろ、視察したという石田光(82)=元大阪市立愛日小学校長=は「校長先生の小森俊一さんから学校の概要などを説明を受け、先生方の苦労の様子がうかがえた。何ともいえない深い感動を覚えた」と、薄らいだ記憶をたどった。
 徳風は戦時下の昭和16年4月に徳風国民学校に改称したが、20年の大阪大空襲で校舎が炎上する。
終戦後の21年3月に、ついに廃校となった。
あいりん地区の真ん中にあるわかくさ保育園の片隅には、今も『私立徳風学校記念碑文』と書かれた黒ずんだ碑が立っている。
学校はなくなったが、47年にこの地に移ってきた保育園は、徳風の精神を受け継いでいる。
家庭の事情で保育を受けられない子供たちを探し、一般の子供たちと一緒に預かる。
関係者の一人は「この地に、徳風という学校があったんだという意識がいつもあります」と話す。
 赤塚が今は亡き徳風関係者に話を聞いた際、「卒業生の一人は『徳風で学んだおかげで雇ってくれた作業所があった。将来のために一生懸命、勉強もした』と言ってくれた」と打ち明けたという。
 今回の取材で卒業生に直接、話は聞けなかったが、徳風の子供たちは、自分で生きていこうという強い意志があったのだろう。
赤塚は「徳風のような学校が今あってもおかしくない。むしろ、今こそ必要なんだと思う」結んだ。
 (平成11年11月21日・篠田丈晴)
(『大阪の20世紀』産経新聞大阪本社社会部 2000年)

徳風国民学校」(大阪市内で戦争平和を考える 空襲で消えた国民学校<西成区>)