2019年11月22日金曜日

今にも降り出しそうな空模様

曇り空で少し風があって寒かったのですが
歩いているともう水仙が咲いていたリ、冬桜も咲いていました。

11月22日 
 新井白石が宣教師シドッチを尋問した。 1709(宝永6)年
 ちょうど午(ひる)ごろから夕方まで江戸の小石川にあったキリシタン屋敷で、新井白石ははじめてイタリア人宣教師シドッチに会った。
シドッチは前年夏、布教を目的として鎖国の日本に入りこもうと屋久島に上陸し、長崎で取り調べをうけた後、江戸に送られたのである。
シドッチがとても博学なのに感心した白石は、12月までに4回もキリシタン屋敷を訪ね、世界の政治、文化、キリスト教のことなどをこまく質問し、のちに『西洋紀文(せいようきぶん)』3巻にまとめた。
白石は、シドッチがイタリアにもどれるように運動したが、それを望まないシドッチは、1714年10月に衰弱のため死亡した。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
諦めていたのに出会えました(^^)v
ガガイモは、除草されるので花を見ることはあっても
袋果(たいか)が割れて綿毛が今にも飛んで行きそうになっているのを初めてみました。
ガガイモ(キョウチクトウ科 ガガイモ属)
 ふわふわ気ままに空中散歩
 里の野原の空を白く光りながら飛ぶタネは、捕まえると幸運が来るという謎の生物「ケサランパサラン」のイメージそのもの。
日本の国造り神話では、この実の殻を舟にして神様が渡ってきたとも書かれています。
 よく晴れた初冬のある日、紡錘(ぼうすい)型をした実が裂けて開くと、白銀の毛を空気と光でふくらませたタネたちが次々と旅立ちます。
タネの毛はミクロン単位と極細なため、鳥の羽毛と同様に空気を含んでふわふわと空中に漂うのです。
まるで無重力飛行物体!
まるで無重力飛行物体!
風に乗れば何百メートルも飛べるでしょう。
・実は多くの場合、2個ずつ接して実ります。
熟すと縦に裂け、ふわふわの毛をつけたタネが出てきます。
・ガガイモの綿毛はタネの付け根部分が変化したもので、「種髪(しゅはつ)」と呼ばれます。
・タネそのものは平べったい形をしています。
・実は裂けると舟の形。
神話では、スクナビコナはガガイモの舟に乗り、海の彼方から日本の国造りに駆けつけたと伝えられています。
(『実とタネキャラクター図鑑』多田多恵子 誠文堂新光社 2017年)
ガガイモの舟に乗ってくる見知らぬ神を
オオクニヌシノが伴の者に聞いても誰も知らなかったのですが、
クエビコがスクナビコナだと教えます。
2019年9月24日の記事)
少名毗古那(すくなびこな)の神
名義は「体の小さい男性」。
「少名」は「少なし」の語幹。
「大(おほ)」に対する語で、結局小人(こびと)をさす。

(略)

「毗古」は「彦」(男性)の意。
「那(な)」は小さなものにつける愛称。
神産巣日(かむむすひ)神の子で、その手の指の間から漏れ落ちた子だというほどの小人である。
葦原(あしはら)の色許男(しこお)命(大国主神の別名)の弟格として協力して国作りをし、常世国(とこよのくに)に帰る。
(うつ)し国(くに)に幸いをもたらす神と信じられていた。
一寸法師と同様な主人公の型である。
(略)
(『《新潮日本古典集成》古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
久延毗古(くえびこ)
名義は「身体の崩れた男性」。
「久延」は「崩(く)え」で、「岩くえ」(万葉、巻十四、3365)は岩の崩れをいうように「崩(く)え彦(びこ)」の意。
歩行不能者と見立てた案山子(かがし)の名。
少名毗古那(すくなびこな)神の素性を明かし申したので、天下の事を知っている神だとしている。
身体の崩れた異形(いぎょう)の人は知恵者の化身として信じられていた。
『古事記』編纂当時は「山田(やまだ)の曾富騰(そほど)」と言われた。
山田(やまだ)の曾富騰(そほど)
名義は「山田の濡れそぼつ人」。
「曾富騰」は「そほちひと」の約。案山子(かがし)のこと。
久延毗古(くえびこ)に同じ。
『古事記』編纂当時「山田の曾富騰」と言われていた。
「山田」は神に初穂を供えるための田で、番人を置いていた。
案山子もそこに立てられた。
歩行不能者だけれども、天下のことを皆知っている知恵者であった。
当時から一本足の案山子が立てられたことが分る。
(『《新潮日本古典集成》古事記』西宮一民 新潮社 昭和54年)
日曜美術館
光の絵画~ハンセン病療養所・恵楓園 絵画クラブ“金陽会”」を
父と一緒に見ていた時に父がこんな思い出話をしてくれました。
(11月24日 日曜日 Eテレ 午後8時から再放送)

私がまだ母のお腹の中にいたとき、母が足を滑らせて尻もちをついたことがあるそうです。
流産しないか心配した父が祖母に連れられて行ったのが屋我地島(やがじしま)
今は、橋が架かっていてバスで行けますが、当時は船で渡った。
そこで占い師に占ってもらったら引っ越しをするようにと言われたそうです。
当時沖縄は戦後まもなくで住宅事情が悪く、馬小屋を改造した家に住んでいたそうです。
母が尻もちをつかなかったら元馬小屋で私は生まれていました(^_-)-☆
その占いは

サンジンソー【三世相】
(過去・現在・未来を見通す意)沖縄地方で、易者。
シムチー(書物)・ムヌシ(物知り)ともいわれ、運勢判断・風水(墓・建物の吉凶)判断などを主とする。
(『広辞苑 第七版』新村出編者 岩波書店 2018年)

そして占ってもらった屋我地島の占い師はハンセン病の人だったそうです。
祖母は、ハンセン病の人が家を訪ねて来た時に接待をしていたので
よくハンセン病の人が来ていたと母が思い出話をしてくれた。
この屋我地島には「国立療養所 沖縄愛楽園」があります。
当時の建物は掘っ立て小屋だったそうです。
ハンセン病家族補償制度 きょうから補償金の請求受け付け開始」(11月22日 NHK)と報道されていますが、
ハンセン病問題 これまでとこれから』(2002年刊)より
Hさんの証言」を転記しますφ(..)
(「優生思想とハンセン病者 市野川容孝(東京大学教員)」より)
 多磨全生園(たまぜんしょうえん)で暮らすHさんは、私たちの最初の集会にも参加して、ハンセン病者としてのご自分の経験を語ってくれた。
2001年8月、私たち三人が全生園を訪れたのは、Hさんの経験を一つの証言として記録すべく、改めてHさんにお会いして、お話をうかがうためだった。
(『ハンセン病問題これまでとこれから
 ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会編 日本評論社 2002年)
Hさんの証言
 Hさんは、私たちに次のように語ってくれた。
――ハンセン病の療養所内で、入所者同士の結婚が認められるようになったのは、1915(大正4)年のことだが、それは入所者の人権を認めたというわけではまったくなく、園内にパートナーがいれば、入所者も逃げ出さず、園内に居つくようになるだろう、とうのが本当のねらいで、隔離の徹底こそが、その本当の目的だった。
 だから、入所者に認められた「結婚」も実にひどいもので、当時は、男女別々に、十二畳半の部屋で8人が相部屋生活するのが決まりだったが、「結婚」というのは、夜に男性が、同じように相部屋生活をしている女性のところに通うという通い婚で、夫婦のプライバシーなど何一つ与えられなかった。
 それだけではない。
 結婚する条件として、ほぼ例外なく、まず男性の入所者が不妊手術(断種)を受けさせられた。
男性がどうしても嫌だと拒否したときには、女性が手術を受けさせられた。
 そして、Hさん自身も不本意ながら、不妊手術を受けさせられた。
 Hさんが手術を受けたのは、1950年のことだそうだ。
Hさんは、その手術に形式的には「同意」したのだが、「手術を受けなければ結婚を認めない」と迫られていたわけだから、実質的には強制である。
 Hさんは、自分の受けた不妊手術について、「とても不可解なことがある」と言う。
一つは、Hさんが自分のこれまでのカルテを全部調べてみても、自分の受けた不妊手術のことが何一つ書かれていないこと。
その理由をHさんは、こう考えている。
Hさんに不妊手術をしたのは、正規の医師ではなく、医師資格のない看護助手だった。
無資格の看護助手がメスをとってやった手術のことなど、カルテには記載できない。
だから、何も書かれていないのだ、と。
続けてHさんは、正規の医師がやったならまだしも、無資格の看護助手に自分たちの不妊手術を任されていたところにも、自分たちが「人間」としてでなく、イヌやネコ同然に扱われたということが、はっきり表れていると語った。
 もう一つHさんが不可解に思っているのは、なぜ自分が戦後の1950年に手術を受けさせられたのか、ということである。
Hさんの手術は、時期的にみても1948年制定の「優生保護法」のもとで実施されたことになる。
しかし、戦時中ならいざ知らず、人権尊重が唱えられた戦後になぜ実施されたのか、いまから考えても不可解だとHさんは言う。
1984年は「世界人権宣言」が出された年でもあるが、この宣言は、第三条で「身体の安全」を万人に保障し、第五条で何人も「非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い」を受けないと定め、さらに第十六条では成年男女に対し「婚姻をし、かつ家族を形成する権利」を保障している。
そういう宣言が出された時代に、なぜ自分たちが、しかも実質的には強制によって不妊手術を受けさせられたのかわからない、とHさんは言う。
結婚条件としての不妊手術は、少なくとも1960年代まで続いたそうだ。
 現在、Hさんは、韓国や中国やインドのハンセン病経験者と交流する機会をもっている。
しかし、外国の仲間たちがみんな子どもをもって、その子どもたちにまた孫が生まれ、家族と一緒に生活しているなかで、自分たちだけが子どもがいない。
そういうことを考えると、日本のハンセン病政策が、世界的にみてもいかに外れたものだったかを現在改めて痛感すると同時に、この不妊手術のことだけは許せない、自分たちが受けてきた数多の屈辱を許しても、このことだけはどうしても許せないと思う、とHさんは私たちに語った。
 最後に、Hさんは、「優生保護法」が正当化してきた優生思想は、自分たちハンセン病者だけでなく、精神障害をもつ人、知的障害をもつ人、身体障害をもつ人たちを深く傷つけてきた。
そういう人たちとつながりながら、優生思想を問いなおし、反差別のたたかいを進めていくことが、自分に残された人生の課題だと思う、と語ってくれた。
(『ハンセン病問題これまでとこれから
ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会編 日本評論社 2002年)

わかりやすい世界人権宣言(谷川俊太郎訳)」(アムネスティ)
今朝の父の一枚です。
帰宅後、父の撮影した画像を見た後に、
その中から数枚プリントしてあげているのですが
リクエストのあった一枚です。
「ここで母さんがよく座っていたな」と呟いていました。