2019年11月19日火曜日

気温の変化に…

昨日がムーッとするような暑さだったのに
今朝は、寒さを感じるほど…
歩きだしてしばらくすると体調が悪くなりました。
でも、しばらくすると楽になったので無理せず短めの散歩にしました。
こんなニュースがあります。
法王、貧困者やホームレス1500人招き昼食会 「わが道急ぐ」社会を非難〟 (AFP BB NEWS 11月18日)
法王が来日されて首相と並んで写る姿に人格の違いも映るのでしょうね。

昨日のEテレの番組
グレーテルのかまど「絵本“モチモチの木”のとち餅」
番組でとち餅の作り方が紹介されていましたが
栃の実を使えるようになるまで1ヶ月もかかるのですね…
古代の人々がドングリなどを食べられるように工夫した知恵に
あらためて凄いなと思いました。
好きな絵本が取り上げられていました(*´▽`*)
出版されて50年近くになるのですね…
滝平二郎さんの息子さんが絵本の誕生秘話として

後にも先にも絵から誕生した物語は『モチモチの木』だけ

と紹介してくださっていました。
↑は柿の実ですが(^_-)-☆
実とタネキャラクター図鑑』より「トチノキ」を転記しますφ(..)
トチノキ(トチノキ科 トチノキ属)
気前のよい森の主
 大きな葉を広げて太く育つ立派な木で、昔から山里の人々に恵みの贈り物を与えてきました。
パリのマロニエの親せきで容姿も似ており、よく公園や街路樹にも植えられます。
(『実とタネキャラクター図鑑』多田多恵子 誠文堂新光社 2017年)
 花は春、枝先に大きな花序が立ち、遠目にも目立ちます。
秋にはゴルフボール大の実が集まって重たげに実り、熟すと地面に落下します。
厚い果皮が割れて転がり出るのは、すべすべした大きなタネ。
表面の白っぽい部分は親植物とつながっていたおへそです。
 これが山の恵みの「とちの実」で、手間ひまかけて渋を抜けば美味な餅や団子になります。
国語の教科書に載っている「モチモチの木」もこれ。
森のリスやネズミはタネを運んで土に埋め、冬の間に大半を食べますが、一部は残されて目を出します。
森の動物とトチノキの長い信用取引なのです。
● トチノキは直径4m、高さ30mの巨木になります。
良質のデンプンを含む実は、縄文時代から利用されている森の恵みなのです。
● アクを抜いたらトチ餅に。
昔は飢饉の際の貯蔵食料にするために、トチの実をたくさん拾い集めました。
● クリと似ていますが、クリはブナ科、トチノキはムクロジ科。
そっくりの他人です。
(『実とタネキャラクター図鑑』多田多恵子 誠文堂新光社 2017年)
昨日の記事で『大阪の20世紀』より「徳風学校 貧しい子の教育支え」を転記しましたφ(..)
その中で、高倉藤平の協力があったことを書いたのですが
どんな人物なのか図書室などで調べてみました。
二つの資料から転記したいと思います。
高倉藤平(たかくらとうへい)
 実業家。典型的な七転八起型で語り草になる。
明治7年(1874)岸和田生まれ。
木綿商高倉長平の長男。
早くから家業に精励するが、綿糸の思惑買いをして大失敗、産を破った。
大阪に出るも地道な仕事はできず、堂島・北浜に出入して株屋の手伝いをするうち眼先きが利いて小金をつかみ、同29年株式仲買店を開くが多大の損失を蒙り、たちまち閉店して姿をくらましている。
同36年今度は米穀取引所仲買人として登場、翌37年株に手を出したところ、今度は日露戦争後の財界膨張と株相場の大波瀾が奇利を呼び、一夜にして巨富を得た。
これ以後藤平は石橋を叩くが如き堅実派に変身する。
と同時にあらゆる事業に参入し、浪速火災・有隣生命会社社長、北浜銀行頭取、日本冷蔵・大正銀行・京都貯蓄・帝国土地・浪花土地・伊勢電鉄の重役、さらに同45年には堂島米穀取引所の理事長を歴任する。
だが驚異的な活躍も束の間、大正6年(1917)43歳で早世した。
(『大阪人物辞典』三善貞司 清文堂出版株式会社 平成12年)
高倉藤平(1874.11.1~1917.9.7)
 1874(明治7)年に、堺県の旧岸和田藩領(現・大阪府岸和田市)に木綿商の長男として出生した。
1900(明治33)年には、大阪市南堀江に両替店を開き、株式仲買業を営むが失敗する。
1905(明治38)年、ふたたび堂島浜通りに米穀仲買店を開き、株式仲買を兼業する。
1908(明治41)年、堂島米穀取引所の監査役に就任(翌年理事、1911年理事長)している。
この間、大阪朝日新聞社主催の世界一周旅行に参加し、野村徳七らと『漫遊土産・欧米取引所』なども刊行している。
(『かくれスポット大阪』吉村智博 解放出版社 2013年)
 藤平については、大阪土地建物会社などでの土地買い占めや株の投機についてのエピソードが多く残されているが(新世界や飛田<とびた>など)、私立徳風小学校の第二期校舎(大阪市南区広田町)の土地や校舎新築費を提供したのも藤平であった。
また藤平婦人は、大阪市北区の心華婦人会で活動し、夜間の私立心華小学校を設立・運営していた。
(『かくれスポット大阪』吉村智博 解放出版社 2013年)