2019年11月24日日曜日

汗が出る…

今朝も暖かいというよりも暑くて汗が出ました。
小さな花、柊が咲き出して、写真を撮ろうと近づくと甘い香りがしました。
属名はギリシャ語のosme(=香り、匂い)とanthos(=花)の合成語で、花に芳香があることから
「ローマ教皇 長崎 爆心地公園でのスピーチ(全文)」(NHK)

今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。
しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。
これらは途方もないテロ行為です。

今朝の日曜美術館「秋野亥左牟 辺境の向こう側を見た男」
秋野不矩(ふく)さんの本『画文集 バウルの歌』(筑摩書房 1992年)を持っていますが
亥左牟(いさむ)さんのことは知りませんでした。
原画展があるのなら見たいな…
再放送は、Eテレで12月1日(日)午後8時からです。
秋野亥左牟さんの出身校が京都府立鴨沂高校なんですね。
京都巡りの参考にさせていただいている鴨さんも鴨沂高校の卒業。
映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」がまもなく公開されますね。
母は、戦時中、すずさんのように大本営発表などを信じ
日本が勝っていると信じていたと話してました。
戦艦大和は片道の燃料で母の故郷、沖縄を目指し、
父の故郷の奄美大島の海に沈みました。
戦艦大和戦没将士慰霊祭 伊仙町」(南海日日新聞)

日本のジャーナリズム 大衆の心をつかんだか』より
5 太平洋戦争下における報道の制約」を転記しますφ(..)

戦前・戦中の時代ではないのに現在の日本には報道の自由がないのかと思う。
5 太平洋戦争下における報道の制約
 前述したように、1930年代に入ると、記事の掲載禁止、差止め事項が多くなってくるが、1937年(昭和12)の日華事変開始以降は、新聞紙法第27条に基づく陸軍省令、海軍省令、外務省令により陸・海・外務に関する事項は、許可を得たもの(発表されたもの)以外、報道はいっさい禁止された(外務省は禁止示達の場合のみ厳禁)。
さらに1940年(昭和15)、情報局成立以後は、原則として政府発表は情報局に一元統制されることになった。
(『日本のジャーナリズム 大衆の心をつかんだか』内川芳美・新井直之編 有斐閣選書 昭和58年)
 加えて、戦時下の報道を制約したのは、一つはページ数の激減による記事掲載量(情報量)の減少、第二に戦況、国防ニュースの増大による一般記事の圧縮である。
したがって、太平洋戦争下の日本の新聞の報道は、量的にも内容の点においても、平時とはかなり異なった報道形態を示している。
戦時下の報道の特徴
 その特徴を列挙してみると、次のようになる。
(1) 戦況・軍事報道の増大にともない広告量が激減する(開戦直後で二割前後に落ち、末期になると約一割)。
(2) 天気予報が開戦と同時に姿を消し、碁・将棋、映画、マンガ、家庭婦人欄なども戦争末期には消えている。
(3) 社会面の内容も一変し、火事、盗難、事件記事は激減し(扱いも小さくなる)、生活情報、それも「衣」「住」関連記事は非常に少なく、配給記事を中心に「食」関係記事が目立つ。
(4) 銃後の国民の精神作興(さっこう)、戦意昂揚記事の増加(「お国に捧ぐ軍国の家表彰」「米英撃滅国民大会」「軍用機献納運動」の呼びかけなど)。
(5) 国民を欺く戦況報道――太平洋戦争下の新聞が戦況の真実を伝えなかった、とはよく指摘されるところである。
だが開戦から約半年間、戦況が日本に有利に展開していた間は、戦果は比較的正確に報道(発表)されている。
ところが1942年(昭和17)6月のミッドウェー海戦のころから戦局が転換し、米軍の反攻の前に、日本軍が不利になると、新聞の報道にも誇張、隠匿が目立ってくる。
この戦況報道は、いずれも大本営発表の報道なので、その不正確の責を新聞のみに負わせることはできないが、結果的に読者を誤導した事実は否定できない。
(6) 国際報道――戦時下の報道で一番問題になるのは、国外の情報、とくに敵国の情報である。
国際ニュースをほとんど外国通信社に頼っていた日本の場合、開戦と同時に英米仏の通信社からの送信は途絶えた。
だが同盟通信社をはじめ全国紙各社は、枢軸国、中立国の通信社や自社特派員、ならびに外電や短波の傍受などを通じて、大よそのニュースを受信していたといってよい。
その証拠に、その間の主な世界のニュースは一応、紙面に掲載されていた、とみることができるからである。
 ただ国際ニュースの扱いは、全般的に非常に小さく解説も少ないうえ、記事中で重要な部分に言及されていない場合もあり、当時の読者がどの程度、世界の事情に通ずることができたか、という点では、ほとんど不可能に近かったとみてよいだろう。
これらの外電は枢軸国や中立国、ソ連のニュースだけに限らない。
連合国(とくに米英)に関するものもかなり入っている。
これらは傍受も多かったろうが、クレジットは一応、枢軸国・中立国などを経由して入っているようなので、当時のニュースの発信地を大別しておく。
 開戦から敗戦まで『朝日新聞』にのった主要外電の発信地――ベルリン26.6%、リスボン20.6%、ストックホルム12.0%、ブエノスアイレス8.2%(1943年11月まで、以後国交断絶)、チューリヒ8.8%、モスクワ2.6%、上海3.7%(以上で8割強)。
新聞論調の戦争への同調
 報道の実態と並んで戦時下の新聞で問われねばならないのは、戦争という全国民をまきこんだ国家的大事業の中で、新聞がいかなる言論内容をもって対処したか。
国家(政府・軍)の戦争指導方針に対し、新聞が時局(戦局)にどう対応していったか。
また読者(国民)に対し、言論機関がいかなる指導性を発揮したか、という問題である。
 この点について、社説(この場合は『朝日新聞』『東京日日新聞』〔1943年『毎日新聞』に解題〕)の論調を概観してみると、この期間の社説が、その論拠の基礎に、「大東亜戦争」の完遂をとりあげているのが第一の特徴だが、その戦争の正当化の理由づけを、①新秩序と旧秩序の対立におき、②植民地解放、「大東亜共栄圏」の確立を〝征戦〟完遂の目的としていることが目立つ。
 第二の特徴として、現代の論調が国民の声をバックに、政府・政党・各省など為政者に対して論旨を向けるものが多いのに対し、戦時下の社説は〝国民に対して〟呼びかけるものが多い(政府批判はあまり見られないし、軍部に対する批判は全く見当たらない。指導者に対する批判としては、行政の末端機構の形式主義を批判するものがある程度だが、これも東条内閣時代にはほとんどない)。
こういう点も、新聞が政府・軍と一体となって、国民を指導したといわれる所以であろう。
 もう一つ目につくには、「東亜諸民族」に対する訴えかけである。
戦争目的(植民地解放)に関連づけて、各民族の独立闘争→日本軍に対する協力→「大東亜戦争」の勝利→「東亜諸民族」の繁栄という図式で、くり返し強調されている。
 「大東亜戦争」のアジアに対するキーシンボルは解放と独立であり、その内容は「東亜諸民族」をして〝各々その所を得しめ〟道義的秩序を確立するというのが「大東亜共栄圏」であり、(米英の)の旧秩序に対する〝新秩序〟の建設であった。
だがそこには〝自由〟とか〝平等〟という言葉は一言も現れてこないし、対等意識も出ていない。
つまり、この共栄圏思想の根幹をなすものは「日本なくして大東亜共栄圏なし」(『東京日日新聞』1942年7月4日)という皇国中心の理念であり、解放の中身も〝自主的な自給自足体として仕上げるのに尽力する〟といものであった。
これでは植民地状態からの解放を願う諸民族に、どれだけ訴えたか、疑問である。
 戦時下の報道、論調が、厳しい統制と指導の下におかれていたことは前に見た通りだが、それにしても、戦時下の新聞が戦争の目的に同調(むしろ誇張)し〝国民一致戦争完遂〟に邁進したことは、否めない事実である。
抵抗・反抗のジャーナリスト
 ところで、このような言論の統制、戦争突入への危惧の念をもった新聞人がいないわけではなかった。
少なくとも1930年代までは、かなりのジャーナリストが、このような風潮に危機感を抱いていたことは事実であろう。
だが、あえて批判(抵抗)の筆をとった言論人は少なかった。
 前に述べた桐生悠々(きりゅうゆうゆう)は、「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」の社説で社を退かねばならなかった。
だが彼はその後、名古屋郊外にこもり、1934年(昭和9)、名古屋読書会を組織、『名古屋読書会報告』(1935年『他山の石』と改題)を発行する。
この『他山の石』にのった彼の反戦・反軍・反ファッショの筆陣はすさまじい。
だがこの小個人雑誌も発禁あいつぎ、ついに1941年(昭和16)9月、彼の死の直前に壮絶な廃刊の辞をかかげて自爆的最後をとげる。
 同じように小個人雑誌で時局警世の言を掲げたのが正木ひろしの『近きより』(1937年4月~49年10月)で、その軍部批判は、桐生に劣るものではないが、いずれにしろ小雑誌の批判では、社会的影響力はほとんどなかったといえるだろう。
だが桐生、正木の抵抗は、その思想に裏づけられた態度であり、信念を貫いた言論人として銘記されるべきものであろう。
 軍部ににらまれ、迫害を受けた新聞人は他にもある。
菊竹六鼓(きくたけろっこ)は、政党政治擁護の立場から五・一五事件と軍の横暴を論難、中野正剛(せいごう)は、「戦時宰相論」で東条の独裁を非難して激怒をかい(『朝日新聞』1943年元旦)、ついに自害においやられる。
『毎日新聞』の新名丈夫(しんみょうたけお)は、戦局もおしつまった1944年(昭和19)2月23日の紙上に「勝利か滅亡か、竹槍では間に合わぬ」を書き、〝海軍に好意的〟と東条陸相(首相兼摂)を怒らせ、陸軍と海軍の対立をあおりをくって懲戒的召集をうける。
このような権力に抵抗して懲罰を余儀なくされた新聞人もあったが、新聞界全体からみれば、その例はきわめて稀であった。
(『日本のジャーナリズム 大衆の心をつかんだか』内川芳美・新井直之編 有斐閣選書 昭和58年)