2019年11月28日木曜日

石清水八幡宮

久し振りに石清水八幡宮参道ケーブル(元、男山ケーブル)に乗りました。
山上は明治時代の神仏分離・廃仏毀釈によって
お寺はなくなったけどお地蔵さんは残っている。
その経緯は分からないのだけどお線香が供えられていました。
朝早く参拝に来たので静かな参道です。
今朝は、父が「今にも雪が降りそうやな」というほど
風が冷たく空が暗かったです。
石清水 
 つきぬみいつを 
  とこしえに 
くみて
 あがめむ
   神の御光

人の過(あやまち)を云程(いふほど)の者は、
  我身に徳の 
   なきをりの事也。 
           明恵


意味
 他人の過失や欠点をあげつらうような人には、未だ徳が備わっていないと見るべきである。
たとえ他人の悪いところを告げ口して、その評価を引き下げたとしても、それに比例して自分の評価が上がるというものではない。
それほど他人から認めてもらいたいのであれば、まず人の様々な良い部分を見つけて褒めてあげればよい。
そして自分自身は他の人の良いところを見習い、人の目につかぬようにして努力を重ねることである。
(末社 竈神殿<そうじんでん>

出典
 『栂尾明恵上人遺訓(とがのおみょうえしょうにんいくん)』より
 承安3年(1173)~寛喜4年(1232)
 鎌倉時代前期の華厳宗の僧。明恵は号。諱(いみな)は髙弁(こうべん)
 明恵上人(みょうえしょうにん)、栂尾上人(とがのおしょうにん)とも呼ばれる。
 父は髙倉天皇に仕えた平重国。
 幼い頃に両親を亡くし高尾山神護寺に預けられ修行に励み研鑽を積む。
 後に後鳥羽上皇より山城国栂尾の地を下賜され、高山寺を開山し戒律を重んじ華厳教学を研究した。
 著書に法然の浄土教学を批判した『推邪輪(さいじゃりん)』三巻などがある。
 『栂尾明恵上人遺訓』一巻は、明恵の没後弟子の高信が明恵上人の法語を筆録整理したもので『阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)』の名でも知られる。
父が「12月になると参拝者が多くなる」ということでお参りにきました。
叔父(すぐ下の弟)の容態が心配で長い時間、祈っていました。
(末社 三女神社 御祭神 宗像三女神)

宗像三神(むなかたさんしん)
『古事記』では多紀理毘売(たきりびめ)命またの名を奥津島比売(おくつしまひめ)命・市寸島比売(いちきしまひめ)命またの名を狭依毘売(さよりびめ)命・多岐都比売(たぎつひめ)命。
『日本書紀』本文では田心姫(たこりひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・市杵嶋姫(いちきしまひめ)
総称して宗像三神という。
記紀や一書によって現れた順や名前に異同があるが、玄界灘の沖ノ島に沖津宮、海岸に近い大島に中津宮、陸地に辺津宮が建てられ、現在ではそれぞれに田心姫・湍津姫・市杵嶋姫を祀る。
古くから大陸へ通じる海路の守護神として国家により重視され、『日本書紀』第三の一書にはこの三柱の女神を道主貴(ちぬしのむち<道中を守る神>)というとある。
沖ノ島は、上陸する者は必ず海水で禊(みそ)ぎをし、島の外には何も持ち出してはならないとされてきた女人禁制の神域であった。
宗像三神はやがて瀬戸内海でも祀られるようになり、厳島(いつくしま)神社が創建される。
神仏習合が盛んになると、同じく水辺に祀られることの多い弁才天(べんざいてん)と市杵嶋姫が同一視され信仰を集めた。
(『神道用語の基礎知識』鎌田東二編著 角川選書 平成11年)
福岡 女神の島 海の恵みを授かり、守る漁師たち」(NHK)
石清水八幡宮参道ケーブルの山上駅で父と別れて急な石段を上がり
展望台にやってきました。
展望台からは比叡山や愛宕山を見ることができます。
横切っているのは京滋バイパス
谷崎潤一郎文学碑
  蘆刈抄
     谷崎潤一郎
 わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、まだどこやら夕ばえの色が残ってゐる中空に暗く濃く黒ずみわたってゐた
(碑文の字は、昭和8年に刊行された潤一郎自筆本による)

 谷崎潤一郎(1886年~1965年)は、関東大震災を契機に関西に移住して以降、その風土と伝統文化に魅せられ、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表した。
小説「蘆刈(あしかり)」は「春琴抄」等とともに女性を讃美し、永遠の美を追究した中期の名作群の一つとされている。
 大山崎から橋本へ渡る淀川の中洲が小説の舞台であり男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられている。
 この文学碑は、「やわた文学碑建立事業」の第三基目として、谷崎生誕百年にあたる1986年7月24日に除幕された。
 八幡市
護国寺跡
 石清水八幡宮は、平安時代初め、貞観(じょうがん)元年(859)、奈良大安寺の僧・行教和尚(ぎょうきょうおしょう)が、九州の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から、八幡神(はちまんしん)をこの地に遷(うつ)したのが起源です。
本殿が朝廷により建てられた後、行教和尚はこの地に前からあった山寺を改め「護国寺(ごこくじ)」と名付けたと伝わります。
本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。
 平成22年(2010)の発掘調査で、江戸時代後期、文化13年(1816)に建てられた本堂の柱を支えた礎石の跡が見つかり、その内側には地鎮祭(じちんさい)の跡がありました。
銅でできた輪宝(りんぽう)の独鈷杵(とっこしょ)を突き立てる天台宗の方式で、八角形に配置し、須弥壇(しゅみだん)を取り囲んでいました。
護国寺は再建からわずか50数年後、明治の初めに破却(はきゃく)されました。

護国寺略年表
貞観18年(876) 石清水八幡宮護国寺の名が正史に見える。
康和5年(1103) 大江匡房(おおえのまさふさ)、十二神将を造立・寄進。
嘉暦元年(1326) 山下の家からの飛火により焼失。
建武元年(1334) 後醍醐天皇臨席のもと護国寺再建供養。
明応3年(1494) 近くの宿坊の失火で焼失。以後長く再建されず。
延宝7年(1679) 仮御堂(薬師堂)が建てられる。
文化13年(1816) 本堂が再興される。
  平成29年3月28日 八幡市商工観光課
見えてきたのが「石清水社・石清水井
 石清水八幡宮は、もと男山山中から湧き出る清泉を神として祀ったのが起こりと伝え、平安時代の貞観(じょうがん)年間(859~876)に奈良大安寺(だいあんじ)の僧行教(ぎょうきょう)が神託により宇佐(うさ)八幡神を勧請し、石清水八幡宮と称したことに始まります。
 石清水社は、石清水八幡宮の摂社(せっしゃ)の一つで、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀っています。
現在も岩間から清水が湧き出ており、社前の鳥居は寛永12年(1636)京都所司代(しょしだい)板倉重宗が寄進したものです。
  京都府
東谷瀧本坊跡
 江戸時代初期に「寛永(かんえい)の三筆」の一人と称された松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が住職をつとめた坊です。
現代では「松花堂弁当」の由来として有名ですが、書画だけでなく茶の大成者でもありました。
江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、将軍の茶道師範でもあった小堀遠州(こぼりえんしゅう)は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒(かんうんけん)」があり、詳しい絵図面も残されています。
 平成22年(2010)の発掘調査では、坊跡の地面の上に、南にあった客殿の礎石と、北には漆喰(しっくい)作りの瓢箪(ひょうたん)形の池が見つかりました。
さらに、絵図をもとに東の崖の斜面を調査したところ、建物の柱を支えた礎石の列が30m以上に渡って見つかり、閑雲軒の北に懸(か)け造(づく)りの書院があったことがわかりました。
茶室「閑雲軒(かんうんけん)」は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した「空中茶室」ともいうべき構造であったことが判明しました。
   平成29年3月28日 八幡市商工観光課
東谷 泉坊跡
 今から約400年前の江戸時代初期、「寛永(かんえい)の三筆」の一人で、当代一の文化人であった僧侶・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が、この坊で晩年を過ごしました。
昭乗は石清水社の隣の「瀧本坊」の住職でしたが、引退したのち泉坊(いずみぼう)に庵を建て、「松花堂」と名付けました。
 明治時代の神仏分離令で、男山からすべての坊が撤去されることとなり、今ではここから約2km南にある「松花堂庭園」に、草庵 松花堂と書院が移築されました。
昭和32年(1957)にはこの地と移築先の2ヵ所が「松花堂およびその跡」として国の史跡指定を受け、昭和57・58年(1982-1983)には整備のための発掘調査が行われました。
 草庵・松花堂の手前で発掘された庭(露地<ろじ>)の遺構は、昭乗亡きあと江戸時代後期に作り直されたものですが、絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています。
  平成29年3月28日 八幡市商工観光課

松花堂(茶室)・中露地主要部
 この説明板の東が松花堂(茶室)の平面表示である。
松花堂(茶室)跡は、後世の削平が著しく、発掘調査ではその痕跡を推定するにすぎなかったが、「八幡泉坊松花堂真図」(東京国立博物館所蔵)をもとに建物の位置、間切りを入れ、内部の色合いの違いで、畳敷、土間、板間の区別を表わしている。
 説明版西の囲いの中が中露地主要部で、発掘調査によって検出された遺構を特殊樹脂加工して露出展示している。
この中露地の切石延段、蹲踞(つくばい)跡、雪隠などは、「八幡泉坊松花堂真図」の記載と非常に良く合致しており、石材の一つ一つにもかなり趣向を凝らし、きわめて珍しい遺構である。
 なお、この中露地から西方の入口部分に延びる霰こぼしの延段は、一部検出遺構をもとに復元したもので、その南のサザンカ列は、「松花堂真図」に記された竹垣を表現したものである。
 樹脂加工地西の建物表示は、発掘調査で検出された三間×四間の建物跡である。
  昭和60年3月  石清水八幡宮
景清塚
宿院と高良神社
 この周辺は、平安時代に始まる放生会(ほうじょうえ〔現在の石清水祭〕)のとき、八幡大神(はちまんおおかみ)が山上から御鳳輦(ごほうれん)で頓宮(とんぐう)に移られ、一晩滞在されることから、「宿院(しゅくいん)」と呼ばれました。
 頓宮の北にも、京阪電車八幡市駅前ロータリー周辺から大乗院(だいじょういん)などの寺院が建ち並び、大層賑わっていました。
鎌倉時代の随筆『徒然草』第52段に、仁和寺(にんなじ)の法師が、かねてから念願であった石清水八幡宮を参拝にきたが、山上に本宮があることを知らず、山下の極楽寺(ごくらくじ)や高良(こうら)神社を拝み得心して帰ってしまったという話がありますが、700年程前の宿院の賑わいを今に伝える逸話です。
 貞観(じょうかん)2年(860)創建と伝わる高良神社は、この周辺の古い地名「カワ(ハ)ラ」に由来すると言われます。
現在の本殿と拝殿はもとあった仏教色が失われていますが、創建当初から位置は大きく変わっていません。
江戸時代中期の郷民が高良大明神を氏神として始めた祭りは「太鼓まつり」として再興され、八幡の夏の風物詩として市民に受け継がれています。
 平成30年12月7日 八幡市商工観光課
石清水八幡宮 頓宮・極楽寺跡
 回廊に囲まれた一画を「頓宮(とんぐう)」といい、毎年9月15日に勅祭(ちょくさい)「石清水祭(いわしみずさい)」が行われます。
石清水祭の起源は、九州・宇佐神宮(うさじんぐう)から八幡・男山への八幡大神(はちまんおおかみ)の遷座により、4年後の貞観(じょうかん)5年(863)、宇佐神宮に倣って始められた仏教的な儀礼「放生会(ほうじょうえ)」に遡ります。
京都の葵祭(あおいまつり)、奈良の春日祭(かすがさい)と並ぶ三大勅祭の一つで、真夜中に山上の本殿から続く行列は、現代によみがえった平安絵巻ともいわれています。
 江戸時代以前は、回廊内の東に頓宮、西には現在の頓宮斎館の位置に、極楽寺(ごくらくじ)がありました。
 極楽寺は元慶(がんぎょう)7年(883)、石清水八幡宮初代別当・安宗(あんじゅ)が建立しました。
男山の麓の中心施設であり、高良(こうら)神社とともに、『徒然草』第52段の、仁和寺(にんなじ)の法師の逸話に登場します。
 鳥羽伏見の戦いの際に周辺の建物は焼失しました。
八幡市の善法律寺(ぜんぽうりつじ)に現存する宝冠阿弥陀如来像(ほうかんあみだにょらいぞう)は、このとき極楽寺から移されたものと伝えられています。
 平成30年12月17日 八幡市商工観光課
空模様がさらに怪しくなりぽつぽつと雨も降ってきたみたいなので
一ノ鳥居の向うに見えるお店で休憩することにしました。
まだお昼のは早いので
抹茶セット(走井餅、栗餅)をいただきました(^^)v
そうそう10月1日から「八幡市駅」から「石清水八幡宮駅」に
「深草駅」が「龍谷大前深草駅」に駅名変更されています。

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    今日は、久しぶりに冬晴れのいいお天気になりました。

    >石清水八幡宮参道ケーブルの山上駅で父と別れて急な石段を上がり

    かなり、きつめの石段ですね。
    お元気でなによりです。(^-^;

    今日の展望台からだと、青空に紅葉が映えたことと思います。
    比叡山や愛宕山も間近に見えたことでしょう!!
    そろそろ、紅葉も散り始めでしょうか?

    >10月1日から「八幡市駅」から「石清水八幡宮駅」
    そうなんですね。
    京阪沿線の駅名がどんどん変わっていますね。
    そのうちに、香里園も成田不動尊前香里園になるかもですね。(^-^;



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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      今朝は、青空を拝むことができました(*´▽`*)

      昔は、この参道を家族四人で登って初詣に行ったこともあります。
      今は、参道を上がることは出来ませんが、下りはなんとか…
      滑ると危ないので杖を突きながら下りました。

      昨日は、今にも雨が降りそうな暗い空でしたが
      晴れた日は遠く比叡山や愛宕山が見えて素晴らしいですよ。
      豊臣秀吉と明智光秀の山崎の決戦場を見おろすことができます。

      >そろそろ、紅葉も散り始めでしょうか?
      男山は少し標高があるので紅葉も終わりだなと思いました。

      >そのうちに、香里園も成田不動尊前香里園になるかもですね。(^-^;
      かもしれませんね(^_-)-☆
      でも、香里園のままがいいな!

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