2019年11月15日金曜日

雲一つない青空なんだけど

青空が広がっていて雲もない…
日向はポカポカしていましたが、今季、一番の寒さだとか…
気になるのは
インフルエンザ流行期に 2番目の早さ 統計開始以降」(NHK)
来週、循環器科の受診のときに予防注射をしようと思っています。
今日は七五三なのですが
(七五三については11月4日の記事を参照してください)
坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われた日でもありす。
そして龍馬の誕生日でもあるんですね…

これまで二回ほど龍馬と中岡慎太郎の墓を訪ねています。
2015年5月14日の記事
前のブログはプロバイダのサービス終了でなくなっています)

幕末歴史散歩 京阪神篇』より
坂本龍馬・中岡慎太郎の葬儀」を転記しますφ(..)
坂本龍馬・中岡慎太郎の葬儀
 坂本龍馬(変名才谷梅太郎)と中岡慎太郎(変名石川誠之助)が、京都河原町通蛸薬師下ル西側の醤油商近江屋の母屋2階で刺客の襲撃を受けたのは、慶応3年(1867)11月15日夜のことである。
(『幕末歴史散歩 京阪神篇』一坂太郎 中公新書 2005年)
 龍馬も慎太郎も土佐藩の郷士の家に生まれ、武市半平太の土佐勤王党に参加した。
その後、土佐を脱藩し、浪人という立場で薩摩・長州間を奔走するなど活躍していた。
この年2月、土佐藩は二人の功績を認め、脱藩の罪を赦免(しゃめん)
さらに龍馬を海援隊長に、慎太郎を陸援隊長にそれぞれ任命している。
公武合体路線を進めてきた土佐藩としては、時流に取り残されないため、討幕派の薩長に人脈を持つ二人を取り込んでおこうという魂胆(こんたん)だろう。
アオジ♀)

 龍馬と慎太郎、そして従僕藤吉の遺骸はともに東山霊山に埋葬された。
土佐出身の維新史家岩崎鏡川(いわさききょうせん)は、慎太郎の下宿先の息子菊屋峰吉(きくやみねきち)と、当時陸援隊幹部だった田中光顕(昭和14年3月、97歳で没)の談話をもとに、「坂本・中岡の死」(『坂本龍馬関係文書撲』第二、昭和元年)のなかで葬儀の様子を記している。
 それによれば、龍馬らの葬儀は11月18日八ツ時(午後二時)から行われた。
棺は海援隊・陸援隊士らに護衛され、霊山を目指した。
沿道には数千もの群衆が葬列を見守る。
なかには数珠を片手に涙ながらに題目を唱える者もいた。
だが、そのなかには必ずや刺客も潜んで、会心の笑みをなしているだろうと思うと、隊士たちの胸は張り裂けんばかりであったという。
 この、白昼堂々の葬儀の話は、平尾道雄『坂本龍馬 海援隊始末』(昭和4年)など、古典的な龍馬伝記にも紹介され、一般化してゆく。
さらに平尾は、「(葬儀の)沿道、幕吏の来襲を慮(おもんばか)つて、何(いずれ)も戒心し、中にはピストルを用意して居たものもあつた」とも加える。

 ところが当事者の証言がもとになっているとはいえ、これらの話は信憑性に乏しい。
大体、幕府にとってお尋ね者だった龍馬の葬儀を、このような盛大な形で行なえるものだろうか。
だが、史料からうかがえば、葬儀は17日夜ひそかに進められたようなのだ。
 たとえば18日朝、海援隊士宮地彦三郎が兄に書いた手紙で「両隊長葬儀昨夜相済ませ申し候」と知らせる。
また、同じく海援隊士の高松太郎も「十七日朝入京。其夜、邸(土佐藩邸)ノ命ヲ受ケ隊ノ式ヲ東山鷲尾(わしお)ニ葬ル」とある。
 あるいは薩摩藩士中村半次郎(桐野利秋 <としあき> )の日記18日の条には、龍馬らの墓参をした記述があり、前夜に埋葬されていたのであれば納得がゆく。
 これに気づいたと思われるのが、宮内省蔵板『殉難録稿(じゅんなんろくこう)』の編者だ。
同書は幕末、国事に倒れた「志士」たちの列伝。
明治26年(1893)3月から40年にかけて最初の『殉難録稿』が編纂され、出版された。
これに2年の歳月を費やして改訂の筆を加えたのが『修補殉難録稿』で、こちらの出版は昭和8年(1933)である。
 まず、明治40年に出た『殉難録稿』「坂本直柔(なおなり)」の項における龍馬らの葬儀は、白昼、海援隊・陸援隊士に護衛されながら、数千もの群衆に見送られて市街を抜け、東山霊山に埋葬されたという記述になっている。
岩崎の「坂本・中岡の死」と同じ筋書きだ。
もっとも『殉難録稿』の方が、時間的には先である。
 ところが『修補殉難録稿』では同じ部分が、
「十七日夜、藩命に依(よ)り、海援・陸援の両隊及び諸藩の志士等、遺骸を護(まも)って之を東山鷲尾にかくし葬りぬ」
に変わっている。
夜中にひっそりと葬儀が行われたのだという。
『殉難録稿』とはずいぶん印象が異なる。
もっとも夜に葬儀を行うのは、神式の場合は普通だから、必ずしも人目を盗んでというわけではないかもしれない。
 岩崎鏡川を信じるなら、峰吉や田中といった龍馬・慎太郎の身近にいた者が、後世故意に事実を曲げ、盛大な葬儀に変えようとした可能性が出てくる。
維新後、英雄として祭り上げてゆく龍馬の葬儀が惨めなものでは、都合が悪かったのだろうか。
 龍馬と慎太郎の墓はいまも東山霊山の京都護国神社(京都市東山区清閑寺霊山町1)にある。
鳥居が付属する神道墓だ。
墓碑は最初木標だったが、明治元年7月に高知(土佐)藩が現在の角材型の石碑に改めた。
 また、龍馬らが暗殺された近江屋跡は、四条から三条に至る河原町通に面した、繁華街の真ん中である。
河原町通は大正13年(1924)に拡張工事が始まるまでは、道幅三間半の古い町並みだったという。
この工事で近江屋の建物は大半が取り壊され、当時の面影は失われた。
現在は旅行社前(中京区河原町蛸薬師下ル西側)に「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」と刻む石碑を見るのみだ。
 近くに大政奉還時に龍馬が寓居としていた酢屋(すや)という材木屋の二階建ての建物が残る(中京区河原町通三条下ル一筋目東入ル北側)。
前の通りは「龍馬通り」と名付けられている。
龍馬は自らも関わった大政奉還建白を慶喜が受け入れたとの知らせをここで受け、その英断を称え、涙をこぼしたという。
(『幕末歴史散歩 京阪神篇』一坂太郎 中公新書 2005年)

2016年11月19日の記事で酢屋などを訪ねています。
酢屋の2階のギャラリーを見学しましたこともありますが、そのブログは消えました(T_T)
今朝の父の一枚です。
カルガモが田んぼで水草を食べていたそうです。
お腹が空いていたのか近づいても逃げなかったそうです(*´▽`*)