2019年11月25日月曜日

晴れていると思ったら…

昨日からの天気予報では雨でしたが、青空が見ていました。
でも、歩いているうちに空が暗くなり出した…

香港区議選 民主派が8割超え圧勝 香港メディア」(NHK)
中国本土の人々には、どんな情報が伝わっているのかな?
そして日本では、不正を正そうというする意識が薄いと思います。
今の政府は、中国を手本にしているとさえ思う。
首相に限らず、官房長官も嘘と言い逃れを平気で言えるし
自分の発言を忘れて逆切れさえする。
ガガイモの袋果(たいか)から飛び出ていた綿毛(種髪<しゅはつ>)がどうなっているかなと見に行くと
アレチヌスビトハギに引き止められている綿毛が幾つもありました(*´▽`*)
綿毛を見ると「種」がなくなって「髪」だけになっているのもあります。
以前、ケサランパサランかなと思ったのはこれかな?
NNNドキュメント
ローマ教皇へのメッセージ 被爆地の高校生が託す思い
録画して見ました。
高校生の姿に、ローマ教皇の微笑みと祈りの姿に目がかすみました。
若松英輔さんが私の思いを代弁してくださっている。

教皇が長崎と広島で黙祷する姿を見て、本当に祈るとはこういうことだ、と感じた人も少なくないだろう。
市井の人はいつも同質のことを行っているから、心ない祈りを鋭敏に感じ分ける。
黙祷は言葉の入る余地がないから、ごまかせない。
誰とは言わない。
心ない祈りなど「祈り」と呼ぶことすらできない。


そして今日、
ローマ教皇 原発事故に触れ「未来世代への責任に気付かねば」〟(NHK)
ローマ教皇は昨日のスピーチの中で

わたしはへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。
(「ローマ教皇 長崎 広島でのスピーチ(全文)」NHK)
と語っておられます。
世界には貧しく今日の糧さえもない人々が大勢います。
そして日本も…

昨日の記事で秋野不矩(ふく)さんの著書『画文集 バウルの歌』に触れましたが
素敵な本なのに絶版になっているようです。
この『画文集 バルの歌』の中から「牛の糞か絵本か」を転記しますφ(..)
牛の糞か絵本か
 ここ一年ばかりインドを歩きまわって子どもたちの生活を見たが、インドの子どもたちが絵本などを見ている姿をめったに見かけなかった。
 しかしインドに絵本がないわけではない。
本屋にはたくさんの絵本が並んでいた。
外国版の絵本、インド版の絵本も出ている。
ひと昔前にはインド版の絵本は皆無に近いものだった。
この頃はだいぶ出版されているようだが、これらの絵本を見ている子どもたちは金持ちやインテリ階級の子弟である。
(『画文集 バウルの歌』秋野不矩 筑摩書房 1992年)
 その日暮らしの、一日の糧(かて)にも事欠く細民や、農村にあふれる子どもたちはオモチャにも絵本にもまったく程遠い、縁なき生活である。
 一日中泥にまみれ、熱い太陽の下で鳥や牛、犬や羊と一緒くたになって土の上に寝ころんだり走りまわって遊んでいる。
数十頭の羊の群れを追いながら、棒をもって野原を終日歩きまわっている牧童。
また街では乞食商売の子どもたち、彼らはおとな同様に、あるいはヘタなおとな以上の働きでお金をかせいでいる。
盲の父親の手をひいて唄を歌ってかせいでいる子ども、靴磨きの箱を据えて通る人ごとの足下を物色し呼びかけている子ども、タバコ売りの子ども、タクシー拾いの子ども、母親のように弟妹を腰の上に抱いて物乞う子ども、日本であれば学齢期という子どもたちが学校にも行かず、昼日なか街頭にあふれて遊び、また働いていた。
地方によっては、本をかかえブリキのカバンをさげて学校に通っている子どもたちを見かけるが、かえってそれはめずらしい感じさえする。
 破れて網の目のようになったシャツの、着ても着なくても同じようなのを肩にひっかけているのや、大人の古シャツを着せられて膝のあたりまでダブダブたらしているのや、衣服もいろいろである。
 こんなふうに書くとインドの子どもたちは、まことに悲惨の見本というに尽きるかに思われよう。
事実、物乞う子どもたちの目は暗くかげっているし、路上に落ちたパンの小さなかけらを鳥のようにつまんで食べている飢えた子どものしぐさなど日本ではとうてい見ることのできない光景である。
 これはまったく絵本どころではなく食にありつくのが精一杯。
あの子どもたちを幸せだなととは私も思わない。
あの子どもたちは、日々おとなにもまして、真実生きるための生活に直面している。
彼らは酷熱の太陽を浴び、また雨がふれば頭からずぶぬれている。
 鳥や牛同様に陽にさらされ、雨がふれば雨にぬれて当たり前の生き方、むしろ平気で時には嬉々として享受する生活。
 ふと私はすべての人間の上にそれを思いたいほどだ。
 インドの世相の救い難い矛盾、非情を感じながら、その中に親ともどもにうちひしがれて生きている子どもたちが、意外に素朴で純真で素直であることを知る。
 食べるものの切実な不足、すべての物資、必需品の乏しさのなかに生きている身近な者の姿は無心の幼児でも肌で感じている。
零細な金を得るため、おとなの卑しいずるさにならって働く子どもらも、なかなかおとなはだしのかけひきを知っている。
けれども一歩彼らに入ってふれうとき、その心の底に愛らしい情をもっていることを知る。
私は、そういうインドの子どもをいとおしく思うこと再々であった。
オモチャや絵本など夢にも知らず、路上の石ころに牛糞に、棄てられた果実に、道端の草に花に深い愛をもってふれている彼らを見て、精神的に乏しいということはさらにないのである。
 土や水、風や太陽、雨、草木そして咲く花々、自然はきびしく苛酷である一方、やさしい恵みをたれていることを身をもって知っている。
彼らは共有する互いの貧しさから自ずと抵抗力をもっている。
 文明は末葉に繁り過ぎたうらなりの洒落(しゃれ)くさった花ではないか。
 土中に埋もれて見えない根の生命力、生きる尊さをもって身近に思いおこし感じる生活が必要ではないか。
 私は牛糞と土をこねてまぜて自らの手で壁を塗っている女の姿をきたないと感じる文明人の感覚をはずかしく思う。
 インドはとても一朝一夕で理解できな深い歴史的因習、土俗的宗教、カースト制の救い難い疎外、長い植民地政策のあとの貧困と無為、飢餓、現代の政治の矛盾、知れば知るほど不可解でむずかしく悲痛な国である。
しかしそのただなかの、最底辺に生きる人々の赤裸々な人間の心の奥深く、失われることなく息づいているやさしさがあるのは何の故であろう。
 私はあのなつかしげな瞳を向けているインドの子どもたちに別れを告げて日本に帰って来た。
そして私は、自分の絵本が並んでいる本屋の店頭を思わずさけて通った。
今日もインドでは強く耐えしのんで生きているであろう子どもたち。
もし絵本を作るなら、あの泥だらけの子どもたちの遊んでいる小石や牛の糞に勝るものでなければ意味がない。
 いま日本の子どもたちはおびただしい絵本に埋まっている。
しかし絵本を一冊ももたず、ましてテレビなぞ一度も見たこともないインドの子どもたち以上に心の豊かさをもっていかどうか。
 せめて絵本はあの石ころや牛の糞と同じか、それ以上であってほしいと思うのである。
(『画文集 バウルの歌』秋野不矩 筑摩書房 1992年)
「自立」なき国の五輪 元サッカー日本代表監督・岡田武史さん〟(11月22日 朝日新聞朝刊)の中で

たとえば日本って今、貧困なんだよ。
子どもがいる一人親世帯の相対的貧困率は5割と、主要国の中で最悪のレベル。
それなのに、みんな関心ないじゃない。
『日本人は素晴らしい』という本が書店に並んでいるけれど、日本人の多くは自分の生活が来週、どうなるかで頭がいっぱい。
日本だけでなく、世界中で、その場しのぎの経済政策をやれば、文句を言わないという国民が増えている。