2019年11月5日火曜日

津波防災の日

日向は暖かいのですが、日陰で風があると寒く感じました。
防災速報メールが届いたのでどこでと思って見ると
今日は「津波防災の日」(内閣府)
津波防災の日の由来」(内閣府)にある
小泉八雲の「A LIVING GOD」が載っているのが「稲むらの火
気象庁の「稲むらの火」には実話との相違などを載せていて参考になります。
叢書 震災と社会 南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会』より
1854年安政南海地震」を転記しますφ(..)
なお、図や脚注などは省略しています。
1854年安政南海地震
 安政東海地震の約30時間後の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)申刻(さるのこく 16時頃)、別の巨大地震が四国を中心とする西日本を襲った。
激甚被災地にちなんで安政南海地震と呼ばれている。
通説では2つの地震の時間差を32時間とするが、不定時法(日の出と日の入りで昼夜を分け、昼夜を別々に等分する時法)をふまえて史料をよく読むと、それほどではないだろう。
(『叢書 震災と社会 南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会
  石橋克彦 岩波書店 2014年)
 図1-9(省略)のように、三重県中南部から西、中国・四国全域、南部と西部を除く九州までが震度5以上の揺れとなった。
熊野灘沿岸や近畿地方では前日と区別しにくいところもあるが、紀伊半島の古座(こざ)・田辺、徳島・高知・愛媛県の平野部、大阪府東部、瀬戸内海の南北両岸の平野部、大分県東部などは震度6で、多数の倒壊家屋や城郭の損壊があった。
出雲平野も昭和南海地震のときと同様に激しく揺れ(震度6~7)、200軒以上が倒れ、液状化が著しかった。
 京都は前日よりもやや弱い揺れで震度4~5弱、奈良も同様と推定される。
大坂は震度5~6で新たな被害が生じたが、揺れは前日よりわずかに強い程度だろうという。
江戸では前日の半分くらいの強さだったが、人々はまた外へ飛び出した。
京都での有感余震は、前日の東海地震のものも含むが、かなり記録されている。
土佐(高知県)はぼぼ全域が震度6以上で、後述のように津波も激しかったのだが、土佐藩が幕府に報告した死者は372人で意外に少ない。
 遠方ではゆっくりした振動が長く続いた(長周期地震動)。
約1300km離れた中国の江蘇(チャンスー)省丹徒(タンツー)県(現在、鎮江(チェンチャン)市内)では、揺れは感じなかったが揚子江(ヤンツーチャン)や池・井戸・溝の水が動揺し、もう少し近い上海(シャンハイ)付近では揺れも感じられて水が溢れた。
これらを紹介した宇津徳治は、セイシュ(長周期地震波による水面の動揺)が生じたのだろうとしている。
水の動揺が津波とされたことがあったが、津波の数値計算によると上海付近の津波は20cm前後以下である。

セイシュについては「副振動とは何ですか?」気象庁)
 再び大津波が生じ、2m以上の波が廃墟の下田から宮崎県南端付近まで襲った。
最大波高は高知県中土佐町久礼(くれ)で16m、高知県種崎(たねざき)で11m、徳島県牟岐町(むぎちょう)で9m、紀伊半島南端の串本(くしもと)で15m、少し東の古座で9mに達したという(総覧本文)。
これらの地域では震害と津波被害を分けにくいが、多くの家屋が倒れ、流され、多数の死者が出た。
津波は紀伊水道と豊後水道を通って瀬戸内海全域にも侵入した。
山口・広島・岡山・愛媛・香川の各県沿岸で1~2m程度だが、愛媛県伊予市では約2.5m、兵庫県・大阪府では2~3mであった。
 「天下の台所」と称された大坂には、地震の約2時間後に津波が押し寄せた。
安治川(あじがわ)河口の天保山(てんぽうざん)付近の波高は2m弱で大津波というほどではなかったが、そこに停泊していた数百の大船(数百~1500石積みの樽廻船<たるかいせん>・菱垣廻船<ひがきかいせん>・北前船<きたまえぶね>など)を呑み込んで猛スピードで安治川・木津川(きづがわ)を押し上げた。
折悪しく、多くの堀川には、前日の東海地震による大揺れ以来、多数の町人が小舟に家財道具を積んで避難していた。
遡上した大船は、小舟を押し潰し、はね飛ばし、多くの橋を破壊して突き進んだ。
大坂市中の被害は、死者300人近く、大小廻船の破損600~1100艘、川舟の破損600~700程度とされている。
ただし、経済の中心である堂島・中之島・北船場(きたせんば)や大坂城方面はほとんど被害を受けなかった。
 じつは、大坂では同様の災害は、1707年宝永地震の際にもっと大規模に生じていた。
その経験を忘れて同じ被害に遭ったことを悔やんだ人々は、死者の慰霊と後世への警鐘のために石碑の類をあちこちで建てた。
その1つと、大阪市浪速区幸町(さいわいちょう)の木津川・大正橋の東詰(当時は渡し場)に「安政南海地震津浪碑」として残っている。
その警鐘を活かさなければならないのは私たちである。
 全般に、本地震による津浪は昭和南海地震よりは高く、宝永地震よりは低かった。
津浪襲来前に大砲を撃つような音(海鉄砲)が聞こえたと記す史料が各地にある。
サンフランシスコとサンディエゴの検潮儀がまた1フィート(約30cm)の津波を記録した。
 この地震によって潮岬付近が約1m、足摺岬付近が最大約1.5m隆起した。
いっぽう、和歌山県北西部の加太(かだ)で1m、高知県東洋町甲浦(かんのうら)で1.2m、同県中土佐町上ノ加江(かみのかえ)で1.2m~1.5mの沈降が生じた。
高知市東部も約10㎢にわたって1mほど沈降して冠水したが、その広がりは1946年昭和南海地震と同じである。
この地殻変動の回復過程も昭和地震と非常によく似ているという。
また、道後温泉や湯峯温泉が翌年2、3月頃まで湧出停止した。
ただし、後者は前日の東海地震によるのかもしれない。
白浜温泉も止まり完全に復旧するまで1年近くかかった。
 本地震は、震度と津波高の分布、地殻変動、温泉異常から、震源域は大まかには昭和南海地震と同じで、規模はそれより大きかったと考えられている。
総覧のMは8.4である。
 本震直後から大小無数の余震が続発したが、7日の午前9~10時頃には豊後水道北部付近でM7.3~7.5の地震が発生し、四国西部と九州北東部に新たな被害を生じた。
豊後水道付近では、地下に沈み込んだフィリピン海プレートの内部でスラブ内地震(第2章2節)と呼ばれる大地震が発生することがあるので、この地震もそのタイプだったかもしれない。
注目すべきことは、この地震によってまた上海がかなり揺れたらしいことである。
安政4(1857)年には山口県萩付近(M約6)、安政5年と6年には島根県西部(M6.2とM6.0~6.5、ともに1859年)と被害地震が続き、明治5年2月6日(1872年3月14日)には島根県沿岸で「浜田地震」(M7.1、死者約550人)が起きた。
これらの活動は、第2章4節で述べるようなメカニズムによって本地震と連関しているかもしれない。
(『叢書 震災と社会 南海トラフ巨大地震――歴史・科学・社会
  石橋克彦 岩波書店 2014年)