2019年11月1日金曜日

今朝も秋晴れでした

早いものですね!
今日から11月。
カレンダーも後二枚を残すのみになりました(^^;
これからは「pm2.5」など黄砂が気になる季節になりました。
ジョウビタキ♂が叫んでいるように見えましたが…
口から出したのは木の実の種かな?
鳥は歯がないので丸呑みをします。

消化器官:
 食べたものをすぐに消化し、不要物を早く外に出すようになっています。
歯があると重くなるので、食べ物を丸飲みし、砂のうという器官でくだくのです。
 また、腸はとても短くつくられています。
このため、鳥はあまり食いだめができず、ひんぱんにエサを採らなければなりません。

(『野鳥ブックス1 BIRD WATCHING―野鳥と出会うために』
  日本野鳥の会 1981年)
閣僚辞任 安倍首相 看板政策で信頼回復を 野党 首相に説明責任」(NHK)
なんか「ぼやき漫才」の人生幸朗さんがご存命ならぼやきの種は尽きなかったでしょうね…
先日紹介した高橋源一郎さんの
一億三千万人のための『論語』教室」より
転記したいと思いますφ(..)
首相は元号が中国の典籍からでなく万葉集から選ばれたので喜んでおられたから
中国の名著『論語』は読まれていないのかなと…
(万葉集も読んでおられないなと思うのですが…)
学而 5 
子曰く、千乗(せんじょう)の国を道(おさ)むるには、事を敬(つつし)みて信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以(もっ)てす。

「政治のやり方の基本はですね、まず大きな事業はしないこと! 公約は守ること! それから税金を使ってるんですから無駄遣いしないこと! もちろん、税金は安くすること! あと、農民のみなさんに手伝ってもらう時はもちろん農閑期にすること! これは世界の常識」
(いまも昔も変わらないみたいです。いろいろと)
(「一億三千万人のための『論語』教室」高橋源一郎 河出新書 2019年)
スーッと心に届いてくる名訳だと思います。
この本には「教育勅語」の現代語訳も載っています。
現代語訳は、本を読むか
作家、高橋源一郎氏の現代語訳「教育勅語」が話題!!」(AERAdot. 2017.04.20)
などを参照してください。
その現代語訳の解説を転記しますφ(..)
 さて、どう思われたでしょう。
お断りしておきますが、これも「超訳」でも、恣意的な翻訳でもありません。
語り口はともかく(これは、明治天皇が、元老・山県有朋が作らせた「教育勅語」を、イヤイヤラジオで朗読している、というSF的シチュエーションで考えたものなので)、意味はほぼ厳密に訳しています。
そのために、たくさんの本を参考にしました。
いちばん参考になったのは『昭和天皇の学ばれた「教育勅語」』(杉浦重剛著)で、これは昭和天皇のために作られた学校で、昭和天皇を教える専門講師であった杉浦重剛が天皇に「教育勅語」の意味を教えたものです。
これを読むと「教育勅語」が「教育論」ではなく「臣下の道」を説くものであったことがよくわかります。
 センセイが、これを読んだらどう思ったでしょうか。
興味は尽きませんね。
センセイはレッスン8(202)で、「巍巍(ぎぎ)たるかな、舜(しゅん)、禹(う)の天下を有(たも)つや、而(しこう)してこれに与からず」(『統治』という点に関しては、誰も、あの舜や禹にはかなわないでしょう。なぜなら、彼らのやり方は、『天下を治めている』という、無理な感じがまるでない、なんというかものすごく自然なんです」)とおっしゃっていて、露骨なやり方で「天下を治める」ような政治にダメ出しをしています。
なので、「教育勅語」なんて、センセイ的にはアウトじゃないかと思います。
舜や禹は絶対、「教育勅語」みたいなことはいわないでしょうし。
 というか、現在の天皇陛下も上皇陛下も「教育勅語」ってお嫌いだと思いますよ。
なんとなくね。
(「一億三千万人のための『論語』教室」高橋源一郎 河出新書 2019年)

「センセイ」は孔子のことです。
高橋さんが孔子のことを「センセイ」と呼んでいる理由は、本に書かれています(^_-)-☆
高橋源一郎さんは、こんなことも呟いておられます(2017年3月15日)。

たとえば、「朕惟フ」と言うと、ふつう「私は思う」と訳す。
もちろん間違っていない。
でも、なんか違う。
「朕」を使えるのは、天皇ただひとり。
同時代で、「朕惟フ」を読んだ人は、「私は思う」とは受けとらなかったんじゃないかな。
正確だけれど「正しくない」訳、そんな気がする。

手元にある漢字辞典を見ると

【朕】チン・ジン
②{代}天子だけが用いた一人称代名詞。
▽秦の始皇帝からのち、皇帝が朕(チン)と自称することときめ、その習慣が後世に及んで天子に限って、用いるようになった。
(『新版 漢字源(改訂新版)』藤堂明保他編 学習研究社 1984年)
元号選定で時の人となった中西進さんの万葉集の解説から
万葉集四千五百十六首中でこの歌だけだという一首

上野(かみつけの) 
安蘇(あそ)のま麻群(そむら) 
かき抱(むだ) 
(ぬ)れど飽(あ)かぬを 
あどか我(あ)がせむ 
  巻十四・3404 東歌・上野国歌
(『NHK日めくり万葉集vol.8』中村勝行編 講談社 2009年)
上野の
安蘇の麻束を
抱きかかえて
寝るのに満足しない
私はどうしたらよい
    (選者 中西進 訳)
選者 中西進(国文学者)】
 収穫時に高く伸びた麻を、刈って束ねたものを抱きかかえるようにして集積地に持ってくる。
そのように異性を抱き合って寝ているけれど、私はどうも不満だ、じゃあどうしたらいんだろうという歌です。
 万葉集にたくさん恋歌がありますが、果せるかな、口を揃えて「あの人と一緒にいたい」「あの人と寝床を共にしたい」ということばかり詠う。
大半の歌はそれが最終目的なんです。
ところがこの歌は、その次を聞いている。
もう共寝は成就した。
それで満足するのが普通なのに、この作者だけが、さてどうしたらいんだろうと詠う。
そこにこの歌の凄さがある。
万葉集四千五百十六首中、共寝の次に愛の成就を求めたのはこれだけです。
――作者未詳の東歌です。
歌に詠まれた上野安蘇とは、現在の群馬・栃木あたりにあった地名。
この歌は、麻を収穫するときに農民が詠った労働歌だとも言われています。
当時の人たちはどのような気持ちでこの歌を詠っていたのでしょう。
中西
「世の中は感じる者にとって悲劇であり、考える者にとって喜劇である」という名言がヨーロッパにあります。
考え方、感じ方ひとつで変わるのです。
もしもバーなどで酒を飲みながらこの歌を詠ったら、これは喜劇になる。
一方、ベッドに横たわって苦しいと煩悶(はんもん)している女性にとっては、もう極限だというふうになる。
その幅が普遍性というものです。
――人間にとって、愛とは永遠の謎かもしれません。
中西
 愛はすぐに色あせるもので、時間には勝てない。
永遠の愛を求めるなら時間を停止させる、つまり死ぬしかない。
しかし、それはしたくない。
愛や恋は生きる喜びですから。
 結局、千三百年前の問いに、誰も応えていないんです。
おそらくこれらかも永遠に、答えは出ないでしょう。
万葉集以後の恋愛小説や恋の歌を、非常にたくさん読み、探してみましたけれど、残念ながらいまだにこの歌の問いに対して、「こうすればいいですよ」と答えた作品を知りません。
それくらい素晴らしい歌です。
比喩的な序詞
「上野 安蘇のま麻群」という二句は、安蘇郡(栃木県佐野市一帯)で取れる麻の束のこと。
「かき抱き」を導き出す序詞である。
序詞とは一般に、ある景物を提示し、それに寄せて心情を表出する心物融合の修辞表現で、機能的には枕詞と変わらないが、二句以上に及び、常に具体的な内容を伴って自由に創作しうる点に違いがある、と説明される。
 恋歌の場合、何を伝えようとする歌かということは、自明のことに属する。
聞くだけ野暮で、異性に対する好意を伝え、叶うことならば、その異性を我がものとしたいという願望にほかならない。
したがって、恋歌の心情表現は類型的にならざるを得ない。
 ところが、序詞は個性的である。
長い麻を抜き取るには、それを抱き抱えたまま体を後ろに倒すようにするが、その姿が「かき抱き寝」る格好に似ているのだと言う。
すなわち、この歌は恋の成就した男がその喜びを謳歌したものだが、ここに見られる比喩的な序詞は、自身の生業の中から生み出された生々しい感覚に基づく表現なのだ。
 異性に対して思いを伝えようとするならば、手紙を書いてもよいし、贈り物をしてもよい。
ところが、この男はあえて歌という方法を選んだ。
 そして、自分の心情をより具体的に伝えるために、右のような序詞を使用したのだ。
換言すれば、この男にとってそれは、ほかの言葉には代え難い比喩だった、ということであろう。
 このように、どんな景物を選択するかということにこそ、個性が表れる。
歌の解釈と言うと、心情の理解のほうに目が向きがちだが、序詞をきちんと押さえなければ、決してその醍醐味は味わえない。
 (梶川信行)
(『NHK日めくり万葉集vol.8』中村勝行編 講談社 2009年)
駐車場に向かおうと信号待ちしていると目の前を小さな鳥が飛んで行くなと思って見ていると
低く飛び過ぎて走行中のトラックのフロントガラスに衝突しました。
信号が変わって見に行くと内臓が飛び出していて即死でした。
そのままでは車にひかれてしまうので分離帯の草の中に葬ってあげました。
持つとまだあたたかくて
可哀そうなのでじっと見ることができなかったのですがムシクイの仲間だと思います。
今朝の父の一枚です(^^)v
先週の金曜日から喉の調子を悪くしていて
昨日、久しぶりに歩きました。
まだ咳が出ているので無理かなと思ったのですが
歩いたほうが気分転換になると言って公園に来ています。
父が言うように歩いている時の方が咳が出ていません。
明日は、休憩してもらうつもりですが…