2019年11月23日土曜日

勤労感謝の日

暖かいのは嬉しいのですが
一気に気温が上がると体がついて行けません(^-^;
今日は「勤労感謝の日」で、11月23日に固定されていますね。
でも、明治以前は固定されていなかったのです。
勤労感謝の日
 国民の祝日の日の一つで、11月23日。
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」として、昭和23(1948)年に「国民の祝日に関する法律」によって定められた。
この日は、第二次大戦終了時までは天皇が新穀を天神地祇にすすめて感謝し、みずからも食される新嘗(にいなめ)祭の日として、国の祭日であった。
新嘗祭は古代から続く宮中の祭りで、十一月第二卯(う)の日を中心としていたが、明治6(1873)年以降11月23日に固定されたのである。
この日は各地で農業祭などが行われるが、今日では農業従事者が少なくなり、すべての勤労と生産に感謝する日となっている。(田中)
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』
  田中宣一、宮田登 編 三省堂 1999年)
フランシスコ教皇が日本到着 空港で歓迎」(NHK)
今朝のニュースで高校生がローマ法王に
被爆地広島・長崎を訪問してくださるように手紙を書いたことを紹介していました。
明日、11月24日(日) 25:05からNNNドキュメントで
ローマ教皇へのメッセージ 被爆地の高校生が託す思い
が放送されます。
11月23日 
 吉野作造(よしのさくぞう)と浪人会(ろうにんかい)との立会演説会が開かれた。 
    1918(大正7)年
 吉野博士と浪人会との立会演説会場である東京神田、南明倶楽部(なんめいくらぶ)は聴衆が場外にあふれ出る大盛況であった。
事のおこりは、大阪朝日新聞の記事に対して浪人会などの右翼団体が不敬罪(ふけいざい)だとさわぎたて、新聞社に暴力的脅迫を加えたことにあった。
この事件を知った東京帝国大学教授吉野作造は、「浪人会は暴力に訴えずに、正々堂々と討論に応ぜよ」との「挑戦状」を雑誌に掲載した。
浪人会がこれに答えてこの日の演説会となったのである。
「どんな思想にせよ暴力で圧迫するのは絶対にいけない。暴力を用いるということは、思想的にすでに敗けているということだ」と吉野は痛烈に浪人会を批判した。
浪人会の4人の弁士はまともに答えることができず、優劣は誰に目にも明らかとなった。
興奮した聴衆は、「吉野博士万歳」「デモクラシー万歳」と叫んで吉野を胴上げした。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11
   永原慶二編著 岩波書店 1979年)
この吉野作造と浪人会の立会演説会の頃の出来事を年表で幾つか拾い上げて見ると

1918(大正7)年
7月31日 米価大暴騰のため期米市場大混乱、東京米穀取引所立会停止。
8月3日 富山県中新川郡西水橋町に米騒動、ついで1道3府38県に波及。
8月14日 内相、米騒動に関する記事の差止めを命令。
8月17日 近畿関西新聞記者大会、内閣弾劾を決議。
8月25日 『大阪朝日新聞』26日付け夕刊、寺内内閣弾劾関西記者大会の記事中に「白虹日を貫けり」で発売禁止。
9月12日 寺内内閣弾劾全国記者大会、東京で開催。
9月12日 寺内首相辞表を提出、西園寺公望に組閣命令(-25辞退)。
9月28日 黒竜会壮士、大阪朝日新聞社長村山竜平を中之島で襲撃。
10月14日 大阪朝日村山社長辞任。
10月19日 編集局長鳥居素川ら退社。
11月11日 ドイツ、休戦協定に調印(第1次世界大戦終結)。
11月23日 吉野作造、浪人会と立会演説。
12月28日 朝鮮人留学生500余人、東京で民族自決問題を討議、弾圧される。
(『新版 日本史年表』歴史学研究会 岩波書店 1984年)
この吉野作造と浪人会の立会演説会を見ていると
現在の状況を見ているような気になります。

南彰さんの11月21日のTwitter

全国の記者からやり場のない怒りの連絡が1日中押し寄せる。
政治部記者からも。悔し涙を流す人もいる。
この懇談は市民とメディアの間をまたもや引き裂いた。
市民に信頼される報道を目指して頑張っている記者の心を折れさせていくメディアの上層部の意識って何なんだ。


と言うのは

 午後6時39分、東京・平河町の都道府県会館着。
同所内の中国料理店「上海大飯店」で内閣記者会加盟報道各社のキャップと懇談。

時事ドットコムニュース 首相動静 11月20日

日本の歴史23 大正デモクラシー』より
白虹日を貫く」と「吉野作造対浪人会」を転記しますφ(..)
「白虹日を貫く」
 しかし、寺内内閣は退陣をまえにして、政府攻撃の先頭に立った『大阪朝日新聞』に弾圧の刃をつきつけた。
政府が目をつけたのは、8月25日の関西記者大会の情況を報じた次の一文であった。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中央公論社 昭和41年)
「金甌無欠(きんおうむけつ)の誇りを持った我大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹(はっこう)日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉の兆(きざし)が、黙々として肉叉(にくさ)を動かしている人々の頭に雷の様に閃(ひらめ)く」
 うの目たかの目の警察はただちに内務省と連絡して、この夕刊を発売禁止とした。
「白虹日を貫く」とは、国に兵乱がおこるしるしである。
しかし日とは天子を意味すという難くせがつけられ、黒竜会・浪人会などの右翼団体は、『大阪朝日』攻撃に気勢をあげた。
9月9日には新聞紙法にいう皇室の尊厳冒瀆(ぼうとく)、政体変改、朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)事項記載のかどで、『大阪朝日』は起訴された。
いわば言論機関の中心拠点に反撃をあびせたのである。
 原内閣組閣最中の9月28日、黒竜会の池田弘寿(いけだひろとし)らが、筆禍事件で攻撃をうけていた大阪朝日新聞社長の村山竜平を白昼、中之島公園で襲撃し、これを燈籠(とうろう)にしばりつけて「国賊村山竜平を天に代って誅(ちゅう)す」という紙旗を立てた。
浪人会では勢いをかって、頭山満・内田良平・佐々木安五郎(ささきやすごろう)らの首領株を加えて「非国民『大阪朝日新聞』膺懲(ようちょう)・国体擁護運動」にのりだした。
『大阪朝日』の公判廷では、検事は発行禁止を要求しておどした。
10月の後半には、村山社長がやめて上野理一(うえのりいち)とかわり、鳥居・長谷川・大山・丸山・花田・櫛田らはあいついで退社し、河上肇や佐々木惣一も客員をやめた。
編集局長に西村天囚が復帰した。
 この事件の判決は12月4日にくだり、新聞紙法の安寧秩序紊乱の罪にあたるとして、編集人兼発行人の山口信雄(やなぐちのぶお)と原稿担当者の大西利夫(おおにしとしお)とがそれぞれ禁固二月の刑を宣告された。
検事の要求した発行停止は認められなかった。
 この判決の三日前に『大阪朝日新聞』は、「本社の本領宣言」と題する宣言をのせていた。
これは、「我社創刊以来茲(ここ)に四十年を閲(けみ)し、常に皇室を尊崇して国民忠愛の精神を鼓励し、言を立て事を議するは、不偏不党穏健の八字を以て信条と為(な)し」と説きおこして、この事件にたいする改悛(かいしゅん)の情をしめした。
 司法当局では、いわばこのわび証文を認めて、検事告訴を取りやめようとしたが、法相を兼ねる原は、たんに紙上の告白をみただけでは不十分だとして、上野新社長を呼び出して真意をたしかめ、さる一日に発表した精神をあくまで貫徹するとの陳述を聞いたうえで控訴を取りやめにした。
「平民宰相」の原は、急進的な言論をおさえる点では寺内内閣の方針をそのままうけついでいたのである。
不吉な前兆であった。
吉野作造対浪人会
 米騒動は民衆に、自分たち自身の力を自覚させた。
民衆は自己の正当な要求を、団結した力によって闘いとる方向へと一歩ふみだした。
社会運動や普選運動も活気づいた。
とりわけ青年・学生の動きは活発になっていた。
すでに友愛会京都支部長になっていた京都帝大の大学院生高山義三(たかやまぎぞう)らは、9月に労働者とともに労学会を結成した。
労学会は、東京でも前年末に友愛会のきもいりで、麻生久(あそうひさし)・野坂参三(のさかさんぞう)らを中心につくられたが、ロシアの労兵会と混同されるのをおそれて社会問題研究会と改めたといういわくつきの名称であった。
米騒動の体験は、ロシア革命にたいする理解をも深めていった。
吉野作造の周囲でも、官僚的・軍国主義的な偏見にみちた日本の現状にあきたりない東京帝大法科の学生たちが、「普選研究会」を開いていた。
その中心となった宮崎竜介(みやざきりゅうすけ)・赤松克麿(あかまつかつまろ)らも労働運動に接近していった。
 地方でも民衆は動いてた。
10月初めに富山県の滑川で普通選挙期成同盟会が結成され、全国の新聞社・雑誌社、政治家・思想家などに長文の宣言書をおくった。
名古屋や松山などでも普選運動が活発になっていた。
 浪人会一派の『大阪朝日』襲撃事件は、こうしたデモクラシーの潮流にたいする反撃であった。
かれらは「国体擁護」を錦の御旗に、民本主義者たちをおどして歩いた。
これにたいして吉野作造は、『中央公論』の大正7年11月号に「言論自由の社会的圧迫を排す」を書いて、浪人会一派の暴力を非難し、あわせてふだん神経過敏な警察官憲の取締りがあまりに寛大なことを批判した。
浪人会が吉野のところにおしかけると、吉野は立会演説で是非を明らかにしようと提案し、『大阪朝日』攻撃の演説会で味をしめた浪人会では、公開の大衆演説会を望んだ。
 吉野対浪人会の演説会は、11月23日の夜に開かれた。
会場の神田南明倶楽部(なんめいくらぶ)は、定刻の午後6時前から、吉野を守れとおしよせた東京帝大・早田の弁論部を中心とする学生、友愛会関係の労働者、神田商店街の店員などでいっぱいとなり、群衆は会場の外にあふれた。
浪人会側は佐々木安五郎・田中舎身(たなかしゃしん)ら4人の弁士を立てて圧倒しようとしたが、吉野は「思想に当るに暴力を以てすることは、それ自体においてすでに暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするものである」と浪人会の言動をするどく批判した。
浪人会の威圧にびくとも屈しない吉野の弁舌に、聴衆は熱狂的な声援をおくった。
民衆の力が逆に浪人会に威圧を与えたのである。
吉野の日記には、「十分論駁(ろんばく)しつくして相手を完膚(かんぷ)なからしめし程なり。十時すぎ凱旋(がいせん)す、屋外同情者千数百、歩行自由ならず、官吏の助けにより辛うじて電車にとびのる。外套と帽子をなくす」とある。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー
  今井清一 中央公論社 昭和41年)