今朝は、日向は暑いくらいでしたが
木陰は、風が冷たく感じるほどでした。
ニセアカシアの花が咲いていました。
「ニセ」なんて名付けられて可哀相ですね
アカシアといえば、西田佐知子さんの歌を思い出すのですが
雨ではなく雪が降っているそうです……
「北海道 芽吹いたサクラにも雪 30日にかけ平地でも積雪に注意」(NHK)朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の再放送が終わってしまいましたね…
母は朝ドラをかかさず見ていましたが、私は、連続ものは苦手で…(^_^;
そんな私が、見るようになったのは「カムカムエブリバディ」からです。
リハビリ散歩から帰ってきて見逃し配信を見た後に画像の編集をしていました。
目が霞んでしまうことがあって画像の編集をしばらく中断することも
朝ドラ「あんぱん」を見ていると「虎に翼」で取り上げられていた「共亜事件」が出てきていました。
今日、羽多子に尋ねられた蘭子の答えを聞いていると花江さんの生き方やなと思っていました。
寮で洗濯するのぶとうさ子の姿を見ていると「ブギウギ」の場面を思い出していました。
のぶとうさ子の前に現れた黒井先生と橘先輩が重なるなと……(^_-)
ステラnetに
〝“朝ドラ”「あんぱん」脚本家・中園ミホ やなせたかしとの不思議な縁 ヒロインモデルは妻・暢(のぶ)さん〟
〝朝ドラ「あんぱん」 脚本家・中園ミホ インタビュー<前編>〟
〝中園ミホ インタビュー<後編>「正義は逆転する。今回私が一番書きたいことです」〟朝ドラ「あんぱん」の時代背景は「昭和」
以前、紹介した本を読み返していました。
「昭和」を送る
――ひととしての昭和天皇
…前略…
これみてさとれ
以下は私の言いたいことを要約する。
非常に重要なポイントは、明治以後三代の天皇が余裕を以て機能している時は、天皇と皇太子(およびその他の皇族)が連動していたことである。
特に皇太子のいかんが重要である。
大正時代は、天真のイメージがあった大正天皇、やや神経質だが聡明な印象の皇太子迪宮(みちのみや 昭和天皇)、さらに国民の身近な存在であった澄宮(すみのみや)すなわち現三笠宮、けなげな方として同情を集め慈善事業に尽くされた貞明(ていめい)皇后がセットである。
昭和後半においては、昭和天皇と皇太子、皇太子妃がみごとなセットである。
いずれも、天皇を静止的「象徴」とすれば、皇太子は機敏な「機能」である。
(『「昭和」を送る』中井久夫 みすず書房 2013年) 天皇という地位は、あまりに拘束が多い半面、年配でも、大正帝のように病いがちでも非常に困るわけではない。
逆に若くかつ英明でも機敏に活動できない。
親天皇の人に、往々、天皇が意見を持ち、それを表明することを好まない人がいる。
意見を持つなとは、正気であるなというに等しい。
そして、傀儡の天皇を欲する国民は、傀儡国民となるのであろう。 明仁天皇の家庭重視は逃避主義ではない。
砦としての必要性のためにも、家庭を築き、維持することに血のにじむ努力をしてこられたのではないか。
それは精神の健康を求める、ほとんど本能的生命力であったとさえ私は思う。
実際、歴代の天皇が必要としたものも、この砦であった。 十六歳にして、環境と地位の激変を経験した明治天皇が到達された「あるべき天皇像」は、中国皇帝でなかろうか。
実際、漢民族出身の皇帝よりもさらに中国的皇帝であろうとした清朝最盛期の三帝を髣髴とさせる精励ぶり、逸話、髭の立て方である。
しかし、非常な孤独者であって、大量の作歌と「お局」とアルコールが必要であった。
子女の死亡率がきわめて高く、皇太子はおそく生まれ、病弱であった。 大正天皇のカイゼル髭は周囲の勝手な期待像の結果であろう。
明治帝より家庭的には孤独ではなく、貞明皇后との間に一夫一婦が実現した。
昭和帝は、これを継いで局を廃止し、側室を置く進言を斥けて家庭を守った。
明仁天皇が子女との同居を実現したのも、この流れの中で理解すべきである。 明治天皇が日清戦争を「大臣たちの戦争」と呼び、賢所への奉告を渋った事実が明らかにされたが、これは天皇の中国への親近性を示唆する事実であると同時に、すでに『自由党史』にも明らかなように、周囲の重臣たちが天皇を「あやす」ようにして意志を枉(ま)げる、その一端である。
大正天皇が、晩年、手もとの品を片端から「つかわして」おられたのは、できれば御自分の地位をくれてやりたいという思いからの行為であるかもしれない。
いずれにせよ、きわめて黙示的な意志表明である。 昭和天皇も、皇太子と一組を作れなかった昭和前半においては、明治大正帝と同じく、「これみてさとれ」が多い。
たとえば、軍人がゴルフをおやめ下さいと言えば、その代わりゴルフ場に一切手を加えるなと言い、ついに「吹上御苑」という武蔵野を再現し、その一木一草を記載したのはかなり凄い。
「雑草というものはない」とは昭和天皇の明快な哲学であった。
生涯、執務室にリンカーンとダーウィンの像を置いておられたのも「これみてさとれ」であろう。 昭和天皇の思想には、明治天皇と乃木将軍の影響がある。
昭和天皇が戦争責任を感じていたか否かが問題にされているが、その感じ方、表わし方が内外の戦争被害者を満足させるかどうかを別とすれば、感じておられなかったわけがなかろう。
戦時中、大声の独り言が多く、チックが烈しくなり、十キロやせられた昭和天皇である。
責任表明の仕方が、日露戦争後、黙々と戦死者の遺族を見舞って歩いた乃木将軍に倣う形式を取ったのではあるまいか。 もっとも、太平洋戦争は、対中国の戦争における「聖域」である米英を攻撃したことである。
「援蔣ルート」のために中国に勝てないと錯覚しておおごとになった。
その点で、米国が朝鮮とベトナムでいらだったのと同じ事態の危険な解決法にすぎないものである。
上智大学グレゴリー・クラークのいうごとく、帝国主義間の戦争はおたがいさまである。 さて、ジョージ五世との出会いは、昭和天皇に立憲君主として始終する道を選ばせた(五世は若き日、お忍びで日本を訪れておられ入れ墨をなさった)。
「立憲君主」という位置の発見は、昭和天皇独自の大きなインヴェンションだということができる。
昭和天皇戦争責任論に決着がないのは、それは明治憲法の矛盾の体現だからである。
昭和天皇が非常に内的苦悩にさいなまれたのは、天皇がこの矛盾に引き裂かれた存在だからである。
おそらく「天皇機関説」だけが天皇に合理的行動、いな正気の行動を可能にする唯一の整合性をもった妥協点であった。 実際の昭和天皇は、〝距離を置いて客観的にものを眺めること〟detachment のできる知的人物であると私は思う。
戦時中の軍人に「批評家」と陰口され、戦後のマッカーサーを参らせたのは、この知的離脱性である。
新宿御苑の園遊会のテレビに見るように周囲に懸命に応対されつつ、もう一人の陛下は、そういうおのれを微苦笑とともに眺めておられたような気がしてならない。
分類学は、緻密冷静でなければやれない分野である。
最近「側近日誌」に戦後期の昭和天皇の「能吏」ぶりが指摘されているが、馴染みのない生物の些細な相違を厳密に記述していく分類学者であるからには当然であろう。
むしろ、昭和天皇は何ごともいい加減にできないおのれに苦しまれたくらいではないかと私は思う。 リンカーンとダーウィンの二つを併せ、両者の間に一つの仕切りを置いて、無原則的な統合でなく、前者を優先させたところに昭和天皇の公的な思想を見ても、大きくはあやまたないのではないか。
リンカーンとは何の象徴であろうか。
戦後、外国記者団に「王子よりも乞食を選ぶ」「カゴの鳥だった」と言われた昭和天皇である。
リンカーンが丸太小屋生まれであることにも意味があろう。
必ずしも奴隷解放論者ではなかったリンカーンは、数十万のかばねを重ねた南北戦争の中途で使命を自覚し、生々しい戦場のゲッティスバーグで有名な演説をする。
この成長と、昭和天皇の思想的発展を重ね合わせてもよかろう。
あるいは、摂政となってほどなく難波大助の銃声を聞かれたからには、リンカーンの死を思い、日々、死の覚悟をみずからに言い聞かせておられたのかもしれない。 ダーウィンは、何の象徴であろうか。
分類学の大宗ならリンネである。
昭和天皇は「自然は飛躍しない」としばしば側近につぶやかれたから、革命やクーデタの否定に繋がるであろう。
人がサルから進化したことを指摘したダーウィンの像は、天皇が「肉体はおまえたちと変わらぬ」とよく言われたことに繋がり、日々自分がヒトであることを再確認しておられたのかもしれない。 この執務室はすでに一つの砦である。
そとの世界から画然と分かれた世界である。
そして家庭生活は、もう一つの砦である。
和風生活は何らかの階級と思想の表現にならざるを得ず、これから逃れるには洋式生活をかたくなに守るのが一つのよい選択肢であろう。
砦とは単なる修辞ではない。
精神的距離が崩れれば、昭和天皇がもっとも嫌った「傀儡化」すなわち「満州国皇帝化」となったであろう。
昭和天皇が「満州国」皇帝に非常にやさしかった意味を考えてみたい。
昭和天皇が能吏の東条に今までの将軍たちにないものを感じ、東条も「忠臣」たろうとしたのに疎通を欠く面があったとすれば、「満州国」建国に参画した東条の君主体験の最初が「満州国」皇帝であったために食い違いが生じ、昭和天皇は、はしばしにそれを感じて不愉快になられたのではないか。 昭和天皇の戦争体験はきわめて間接的で、矛盾し空白のある情報に頼ったものであったはずである。
たえず、自分は欺かれているのではないかという疑いがぬぐえなかったことは多くの人の証言である。
昭和十八年であったか、大演習の時、落下傘兵軍曹が不開傘のまま陛下の眼前で墜死した。
「救急車を呼べ」と叫ばれたというが、生々しい体験は昭和二十年三月十日の東京大空襲直後の被災地視察までなかったのでは?
(『「昭和」を送る』中井久夫 みすず書房 2013年)
〝「日本の刺青と英国王室」書評 「野蛮」に憧れた、奇妙な交流史〟(評者:平松洋子 好書好日 2018.06.08)