今朝は、風がふいていても寒いというよりは涼しく感じるほど
なんか春よりも一気に夏になりそうな気候でした。
先日、キランソウ(別名:ジゴクノカマノフタ)を目をこらして探して見つけたのですが
今日は、すぐに見つけることができるほど……
キランソウに出会ったのは奈良の山を歩いていたとき
おなじく奈良で出会ったシャガも咲いていました。公園では、子どもたちが遊んでいました。
新学期は、明日からかな?
現役の頃、月曜日が、苦手でしたね…
体が重たくて…
新年度がスタートしたばかりですが、
「新年度すぐに新入社員から“退職代行”依頼も 企業の対策は」(NHK 4月2日)
僕らの頃は「五月病」があったんだけど、それとは違うのだろうな…?
出社できないのは若者だけとは限りません。 別れも楽し
知り合いの男性が、「出社拒否」に陥った。
あまりにも典型的な症状で、「そんなのあり? 出来過ぎじゃない?」と、思わず言ってしまったくらい。
これぞ「出社拒否」というような、典型的「出社拒否」であった。
「オオイシさんのまわりには、ずいぶんとヘンな人がいますね」と、このエッセイを読んだ方に、よく言われるのだが、本日のモデルは、わたしのまわりによくいる「ヘンな奴」とは、まったく正反対の、ごく普通のサラリーマンだ。
ごく普通と言っても、彼は、大学も会社も一流(一流って何だろう? ま、そのことは深く考えないことにして)出世も同期のトップをきっており、サラリーマンとしては、選ばれた人の部類である。
(『駿台荘物語』大石静 文藝春秋社 1994年) この彼が、ある朝、いつものように、玄関で靴をはいていたら、いきなり気分が悪くなって、さっき食べたばかりの朝食を、全部吐いてしまったという。
顔は真っ青、動悸激しく、冷汗タラタラ、立っていられなくなって、その場にダウン。
驚いた妻は、救急車を呼んだ。
まだ幼い息子も、父親の異変にショックを受け、「パパ、死んじゃいや~」と泣いたというほどだから、その症状の重さは、推して知るべしである。
しかし、病院についたとたん、彼の症状はケロリと治ってしまった。
この時点で、彼は気づいていたという。
「これは、出社拒否なんだ」と……。 実はそれより、半月前に、異動の辞令があり、彼は社長室に行くように命じられた。
社長室勤務を経験することは、偉くなる条件のひとつで、まわりはうらやんだが、彼はイヤだった。
理由は簡単。社長室には嫌な人がいるからである。
しかも社長室は、窮屈な職場で、今までのように自由がきかない。
彼は優秀な社員であったが、商用で外出したついでに、映画のひとつも見てしまうような、社内恋愛もボロを出さずにサラリとこなせるような、遊び心を持った男である。
が、社長室に行ってしまうと、その手の息抜きは、まったくできなくなってしまうらしい。 倒れた朝は、社長室勤務の初日だった。
一週間近く、入院して検査をしたが、当然のことながら、異常は見つからず、退院。
彼はその足で、会社に出た。
異動早々、このようなご迷惑をかけたことを、謝らなければならない。
社長室に向かうエレベーターの中で、なんと彼はまたもや、激しいめまいと吐き気と動悸に襲われ、ダウンしてしまった。
二度目の方が症状がひどく、ほとんど意識不明の状態で、今度は、会社の手配した病院に、再び救急車で入院。 ついに彼は、元いた部署の上司に、「実は……」と打ち明けた。
元の上司、「君のような男が……」と目をテンにして絶句したというが、それでも「君は会社にとって大事な人材だ、こんなことでつぶれてはならない。そんなにイヤなら、人事と相談して、なんとかしようではないか」と言ってくれたという。
しかし、彼はその言葉を聞いたとたんにふっきれた。
「ここでなんとかしてもらうんじゃ、あんまり情けないじゃないか!」
それから三週間、彼は心療内科だったか、精神科だったかのカウンセリングを受け、職場に復帰した。 復帰の朝、社長室に向かうエレベーターに乗った時は、また症状が出たらどうしよう、という不安に襲われたが、大丈夫だった。
彼は、現在も、大っ嫌いな人とともに働いている。
ちゃんと仕事はこなしているが、時々、その人の方を向きたくないという思いだけで、首が本当に曲がらなくなっちゃったり、トイレで人知れず吐いたり、女性を前にして、不可能な状態に陥ったりしているという。
ダウンして救急車に乗るほどのことはもうないが、あと何年、窮屈な社長室で大っ嫌いな人の顔を見て過ごさなければならないのかと思うと、今でも心臓が不整脈になってしまうらしい。
彼は、こんな話も面白おかしく語ってくれる、なかなか魅力的な男であり、はた目には、そんな悩みを抱えているようには、まったく見えない、一見さわやかなエリートサラリーマンである。
しかし、会社勤めとは、なかなか恐ろしいものだと、思ってしまった。 ちなみに、わたしは、会社勤めの経験はない。
大学を出てから、すぐ女優を志し、その後、脚本書きに転進したが、ずーっとフリー。
ボーナスにも、社会保険にも、厚生年金にも、失業保険にも、有給休暇にも、まったく縁のない、実に不安定な仕事をしてきた。
しかし、わたしの仕事は、本人の意志に関わりなく、あっち行け、こっち行けと命令される人事異動がないだけでも、ありがたい。
さらに何よりいいと思うのは、ドラマは連続ものでも、三ヵ月で終わる、という点である(中には一年という特殊なものもあるが、どんなに長くても一年が限度)。
同じチームの中に、どんなに嫌いな奴がいても、気の合わない奴がいても、とにかく三カ月すれば、お別れできる。
そう思うと、たいていのことはがまんできるものだ。 つまり、わたしの仕事の最大に特徴は、「出会い」と「別れ」を、短期で繰り返しているところにある。
たとえば、三カ月の連続ドラマの場合、第一回の放送の一カ月半くらい前に、「顔合わせ」という行事があって、そのドラマに関わるキャスト、スタッフが一堂に会し、「これから三カ月よろしくね」と、その名の通り、顔を合わせて、挨拶する。
わたしは、顔合わせのさらに二カ月くらい前から、脚本の執筆に入ってるが、番組に関わるすべての人と顔を合わせるのは、この時が初めてである。
毎度、新鮮な気分が味わえ、わたしはこの「顔合わせ」が、好きだ。
そして、この日から、収録が開始されるのだが、ドラマの収録中は、九時から二十四時間なんてことはざらで、毎日、早朝から深夜まで、キャストとスタッフは、顔を突き合わせて仕事をし、三カ月間は、家族よりも、ドラマのチームと、長い時間を過ごすことになる。 どんなドラマも、トラブルがまったくないということはなく、二カ月も過ぎる頃になると、スタッフは全員頬がこけてくる。
また、このこけた頬を見るのが、わたしは好きだ。
大変なのは、わたしだけじゃない、と実感できるからである。
そして三カ月後、「打ち上げパーティ」で、すべては終わる。
恨みも、憎しみも、愛着も、時には恋も、よほど根が深くない限り、この日で終わる。
そして朝まで飲んで、翌日から、それぞれみんな違う仕事に散っていくわけだ。 いろいろ思い出してみるに、これまでも仕事の上で頭にくることは、さまざまあった。
「何だと思ってんのよ!」と、スタジオで怒鳴ったこともある。
このわたしが、この腰の低いわたしがである。
その時は、その俳優に対して、一生許さないぞ! と思ったが、打ち上げが終われば、その怒りも終わってしまった。
しかしあのまま、何年も、その俳優と顔を突き合わせ、同じ職場で働くとなると、わたしも心身症になってしまったかも知れない。
気の合った仲間と別れるのは淋しい。
が、しかし、お別れできるというのは、実は幸せなことなんだろう。
人生だって、終わりがなきゃ、かえって恐いもの。
不安定だけど、出会ったり、別れたりできる、この点こそ、わたしの仕事のいいところだ。
と思って、頑張ろう!
(『駿台荘物語』大石静 文藝春秋社 1994年)
『駿台荘物語』は、文庫本が出たのですが、品切れになっているようです。
復刊したらいいのに…午後から父の心臓リハビリ。
今日は理学療法室前の廊下を歩きました。
15分間も歩き続けることができました。
肩にかけているのはワイヤレスで測定できる心電図です。
理学療法士さんが室内にある測定器をチェックしながら指導してくれています。
帰宅後、父が「お腹がすいた」と呟いていました(^_-)