昨夜の雨で空気が澄んでいるようで気持ちがいい(^_^)b
公園の桜はほぼ満開になっていて散り始めているのも…
心筋梗塞を発症する前は、奈良方面をよく歩いていました。
「石舞台古墳の桜見頃 奈良 明日香村」(奈良NHK 4月2日)朝、ニュースを見るのが嫌になっています。
横溝正史の「悪魔が来りて笛を吹く」を思い出してしまう。
ハメルンの笛吹きのように彼は何処へ連れて行こうとしているのだろう
日本の議員に比べてアメリカは凄いと思うのは
「米議会上院 25時間超の演説でトランプ政権に抗議 最長記録か」(NHK 4月2日)
第一期の時は共和党にも良識派がいると思っていた。
共和党は崇拝者ばかりだと思っていたら今回もいるんだ!
「カナダへのトランプ関税停止、共和党の4人も賛成 米上院が決議可決、不満浮き彫り」(産経新聞)鶴見新山の標高が39mと表示されています。
もともとは40mでした。
それが1mも低くなっているのは、ゴミを埋め立ててできた公園なので次第に低くなったと思います。
〝昭和58年(1983) 鶴見緑地の山の名称「鶴見新山(標高約40m)」と決定〟(鶴見区の歴史年表)
万博の会場の工事が遅れているのは、埋め立てによる地盤の軟弱性にもあるようですね。
「夢洲開発のリスク―南海トラフ巨大地震と粘土層の圧密沈下―」(田結庄良昭 神戸大学名誉教授)
万博は、半年で終わるけどIR(カジノ)は関空の二の舞になるのだろう…
「どんどん上がるコンセント?関西空港の目立たない大工事」(NHK 1月29日)大石静さんの養母とビルマ(現・ミャンマー)との間には、深いかかわりがあります。。
駿台荘物語
…前略…
養母(犬塚雪代)の死亡記事には、どの新聞にも、学者や文士に愛された宿の女将ということの他に、ビルマ建国の父、アウン・サン将軍の日本潜伏を救(たす)けた人、という意味の見出しがついていた。
読売新聞(1988年11月7日、夕刊)から抜粋すると、養母は、「昭和十五年には、ビルマの独立を目指したアウン・サン将軍の同旅館での潜伏生活を特高警察の監視から守り通した。独立したビルマ政府から勲章授与の申し出があったが、『晴れがましいことはいや』と固辞。一昨年、同将軍の娘で、現在ビルマ民主化運動を進めているスーチー女史が面会を申し入れてきたときも、同じ理由で断った」とある。
(『駿台荘物語』大石静 文藝春秋社 1994年)
アウン・サン将軍は、昭和22年に暗殺されてしまうが、当時、アウン・サン氏とともに、駿台荘にかくまわれていた独立の志士で、後にビルマ政府の要人となった人(正確な名前は思い出せないが、たしか、養母は、その人をオンタンと呼んでいたと思う)が、駿台荘を訪れた。
昭和30年頃のことだと思う。
見たこともない民族衣裳に身を包んだその人は、養母を「オバサ~ン、オバサ~ン」と、妙なアクセントで親しげに呼び、涙をためて養母と抱き合い、再会を喜んだ。
しかし、幼いわたしは、民族衣裳と、不思議な日本語と、その人の再会を喜ぶテンションの高さに、すっかり怯(おび)えてしまい、ワーワー泣いた。
が、わたしが泣いても、後ずさりしても、養母の背中に隠れても、その人は、始終ニコニコと笑っていたのを覚えている。
しかし、この人も、何年かの後、暗殺されたと聞く。 新聞や雑誌には、「晴れがましいことはいやだから」という理由で、養母が、ビルマ政府からの勲章授与を断ったと書かれているが、本当の理由は、それだけではないと、わたしは思っている。
昭和15年頃、ビルマには、英国の弾圧と戦う反政府グループがあり、独立運動を続けていた。
一方、日本は自ら仕掛けたこととはいえ、中国戦線の拡大に手を焼き、英国領ビルマからの中国援助の遮断を狙って、ビルマ独立を支援した。
養母は、この時、ビルマ工作機関である「南機関」に頼まれて、亡命して来たアウン・サン将軍等を、駿台荘にかくまった。
「南機関」は、独立支援と、日本軍占領という、まったく矛盾する行為を同時に進め、結局、ビルマに日本の傀儡(かいらい)政権を作ってしまう。 養母は、その矛盾を早い時期から、知っていたと思われる。
だから、本当の意味での独立を勝ち取った後のビルマ政府から、勲章を授与されるという話に、立場上、矛盾を感じたのではなかっただろうか?
養母は余計なことは一切しゃべらない人だったので、そんな断り方をしたのかも知れないが……。
「シズカちゃんが行きたければ、ビルマに一緒に遊びに行きましょう。でも、勲章はもらえないわ」と、養母は言い、「遊びに行く行く!」と、当時小学生になっていたわたしは、すっかりその気になったこともあったが、結局、それも実現はしなかった。 だが、それから何回かの政変を経てきた国であったにもかかわらず、ビルマは、養母のことを忘れていなかったようだ。
わたしは、気がつかなかったのだが、養母の葬儀の折り、焼香に並ぶ人の列の中に、ビルマ大使の姿があったという。
…後略…
(『駿台荘物語』大石静 文藝春秋社 1994年)観光客で賑わう京都には、いくつもの都市伝説があるのですが…
春 28『甲子夜話』に残る京都大地震
…前略…
どうやら京都という街は、なまじ歴史の衣を厚くまとっている分、分かりやすい感動や物語を求められる傾向があるらしい。
それをつくづく感じるのが、「京都は災害が少ない」という都市伝説だ。
「平安京が都に選ばれたのは、この地の災害の少なさが古くから理解されていたから」などといったまことしやかな説明まで追加されることもある。
だが地震に限定しても、残念ながら京都府南部近辺は活断層が日本の中でも(ということは世界的にも)集中している地域。
近年が珍しく平穏なだけで、京都市内は有史以来幾度も大きな揺れに見舞われている。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年) 宇治橋崩落
たとえば京都を流れる鴨川の東側には、平安中期以降、天皇の発願による寺や離宮があいついで建てられ、白河天皇御願の法勝寺(ほっしょうじ)には高さ約82メートルに及ぶ九重塔までそびえていた。
しかし平家が壇ノ浦に滅亡した数か月後の元暦(げんりゃく)2年(1185)7月、京都を襲った推定マグニチュード7・4の地震は一帯の寺の堂宇を多数倒壊させ、法勝寺も九重塔も倒壊こそ免れたものの、瓦や屋根板がことごとく落ちる被害に遭った。
洛中各地でも地割れが起き、いわゆる液状化現象も発生。
公家・中山忠親(ただちか)は日記『山槐記(さんかいき)』の中で、「宇治橋皆以顚倒、于時渡之人十餘人乗橋入水、其中一人溺死」と、平等院近くにかかる宇治橋が崩落し、橋から落ちた十数人の中に死者が出たと書き記している。 この地震は京都府・滋賀県の県境付近が震源と推測されているが、それから約五百年後の寛文2年(1662)にもやはりこの近辺が震源地らしき地震が発生した。
この時は天皇・上皇が住まう禁裏(きんり)・仙洞(せんとう)御所の築地塀(ついじべい)や二条城の石垣が崩落。
史料によってバラつきがあるが、洛中だけでも死者数は百名を超えたという。
僧侶にして仮名草子作家・浅井了意(りょうい)は『かなめいし』という随想の中で、神社の石灯籠が倒壊して子どもが下敷きになった話や、豊国神社一帯は揺れなかったとの噂が広まったことから、それにあやかろうとした人々が押し寄せ、境内の草木を折り取ってお守り代わりに持ち帰ったとの逸話を記している。
なお歴史上、最後の京都大地震は江戸後期の文政13年(1830)7月。
京都府西部、前章に書いた老ノ坂西の亀岡市が震源と考えられる推定マグニチュード6・5の地震で、一説に死者は約千人。
平戸藩主松浦静山(まつうらせいざん)の随想『甲子夜話(かっしやわ)』によれば、この時、北野天満宮の石灯籠がすべて南東に向かって倒れたという。
それから二百年が経とうとしている今、京都をいつ地震が襲っても不思議ではない。
多くの観光客が訪れる地であればこそ、分かりやすさや感動の色眼鏡を用いずにこの街を見ていただくべきではなかろうか。
(『京都の歩き方─歴史小説家50の視点─』澤田瞳子 新潮選書 2025年)秀吉の伏見城も地震(慶長伏見地震 1596年9月5日)で天守が崩れました。
京都は、名水が多くありますが、それは京都の地下が水瓶になっていることをしめしています。
ですから地震はすぐに収まらず余震が続くことが多いです。
4月5日(土)から「ブラタモリ」が再開されますが、これまでの回でタモリさんが京都の断層について紹介していました。
「京都府の地震活動の特徴」(地震調査研究推進本部)今朝も父と一緒に歩きました。
昨日は、2500歩ほど、今朝は3000歩以上歩いたそうです。
ヤマガラは、昨日、撮したのですが
ヤマガラ [山雀]
スズメ目シジュウカラ科
誰とでも仲良くできる平和主義
ヤマガラは見た目の通り、温和な鳥。
種を越えて、一つの木の中で棲み分けができる。
また人懐っこいことでも有名。
人間でいえば、誰よりも情報が早い、クチコミ力の高い女子のよう。
エサを見つけるスピードもとても早い。
ツーツーピー、ツーツーピーとお喋りで、誰とでも楽しく過ごせるタイプだ。
(『子どもと一緒に覚えたい 野鳥の名前』山崎宏監修 momobook 2018年)