蒸し暑かったです(^_^;
「きょう日中は30度近くまで上がるところも 体調管理を」(NHK)今日の朝ドラ「あんぱん」第3週「なんのために生まれて」 (15)の冒頭に
千尋が本を読んでいると父の柳井寛に何を読んでいるのかと尋ねられて
『法窓夜話』と答えていました。
寛も本の題名を聞いただけで「穂積陳重(ほづみのぶしげ)かえ」と声をかけていました。
(朝ドラ「虎に翼」の穂高重親のモデル・穂積重遠の父親)
やなせたかしさんの弟、千尋さんは京都帝国大学の法学部に進学しています。
やなせたかしさんの伝記などには「京都帝国時代の千尋と母」の写真が掲載されています。
ドラマと史実では、当然、違いがあります。
モデルがあるドラマには史実探偵団のような方がいますが、
私は、ドラマはドラマとして楽しんでいますし
自分に合わないものは、どんなに名作といわれても見ません(^_-)
【あんぱん】中園ミホさん やなせたかしさんとの不思議な縁【NHK朝ドラ公式】
を読むと脚本を書いている中園ミホさんのやなせたかしさんへの思いが伝わってきます。以前、2024年10月3日の記事で「36 女子の弁護士」を転記しましたが、
二四 妻をもって母となす
神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾(なんじ)らの実の母となすことなし。
これは「コーラン」の一節である。
何の事か、一寸意味を解し兼ねる文句であるが、セールの研究は、この難解の一句を解き得て、面白きアラビアの古俗を吾人に示している( Sales,The Koran,ch.XXXⅢ.The Confederates. P.321.)。
(『法窓夜話』穂積陳重 岩波文庫 1980年) 結ぶということがあれば、解くということもあるのは、数の免れざるところであって、結婚がある以上、離婚なる不祥事もしばしば生ずるのは古今易(かわ)りなき現象である。
しかるに、妻を去るも、その妻の帰るべき家が無いことがある。
また男の中には、夫婦の縁は絶ちたいが、その妻が家を出て他家に再醮(さいしょう<再嫁>)するのは面白くないという、未練至極な考えを持っている者もあって、折々新聞の三面に材料を供することであるが、古代のアラビア人にも、この類(たぐい)の男が多かったと見え、実に奇抜な離婚方法を発明した。即ち妻に向って「あなたは今日より私の御母さんで御座います」という宣言をするのである。
夫妻の関係はこの宣言とともに全く絶えて、昨日の妻は今日の母となり、爾後は一切の関係皆実母としてこれに奉事せねばならぬのであるが、実際は御隠居様として敬して遠ざけて置くのである。
かくの如き慣習は、余りに自分勝手な、婦人を馬鹿にし過ぎたもので、その弊害に堪えぬからして、さすがはモハメット、右の一句をもって断然この奇習を廃したのである。
(『法窓夜話』穂積陳重 岩波文庫 1980年)
モハメット(ムハンマド)は女性差別者ではありません。
イスラム教は、本来、女性差別の宗教ではないのです。
この本を読んで千尋が法学部を目指したことがドラマの最後に描かれていました。「木村屋のあゆみ」(木村屋總本店)に「あんぱん」のことや「乾パン」「ジャムパン」の開発が書かれていますので参照してください。
あんぱん
和洋折衷の奇跡の産物、その名は「あんパン」
饅頭の進化形として誕生、明治天皇もとりこに
もちっとした甘い生地に、びっちりと詰まったこし餡。
かじるとふんわり甘酒の匂いが広がる。
真ん中のくぼみにのっている桜の塩漬けが、餡の甘さを引き立てる。
パンというより、もはや和菓子の域。
一つ食べると、決まってもう一つ食べたいという気にさせられるところが心憎い。
(『ニッポン定番メニュー事始め』澁川祐子 彩流社 2013年)
コウジ種にホップ種、高度な技だったパンづくり
…中略…
「パンを好む日本人」は〝馬鹿の大関〟
西洋のパンが日本に初めてもたらされたのは意外に古く、1543(天文12)年、ポルトガルの商船が種子島に漂着した時だと言われている。
以後、キリスト教の布教にともなって、パンも人々に知られるようになる。
儀式にパンと葡萄酒は欠かせないものだったからだ。
一説には、織田信長はパンを食べたとされている。
普及するかに思えたパンだったが、徳川家光による鎖国令とキリスト教禁止強化によって、一般に普及するよりも前にその歴史はいったん途絶える。
出島で細々と焼かれていたものの、再び表舞台に登場するのは幕末。
兵糧として注目される時を待たねばならない。
<波牟(パン)とは、蒸餅すなわち饅頭の餡なきものなり。オランダ人つねに一個を用ひて一食分とす>と、『和漢三才図会』には書かれている。
同書は、1713(正徳3)年頃に出版された挿絵入り百科事典である。 それから150年以上経った明治の人々にとっても、その印象はあまり変わらなかっただろう。
1873(明治6)年の「開化なぞ合わせ」という風刺画には、<パンの弁当とかけて仕立ての着物ととく、心はいつかしのぎだ>とある。
仕立て屋の着物は、見た目はいいが、すぐに着崩れる。
パンもそれと同じで、すぐにお腹が空くという意味だ。
また、僧侶の佐田介石が著した1874(明治7)年の『馬鹿の番附』という番付表には、大関として「米穀を食わずしてパンを好む日本人」がランクインしている。
パンは「あんのない饅頭みたいな」頼りない食べものと思われていたようだ。 木村屋が創業した1869(明治2)年は、パン屋といえば横浜に外国人が経営するベーカリーが4軒、それに1860(万延元)年創業の日本人初のパン屋と言われる内海兵吉の「富田屋」だけだったということが記録に残っている。
つまり、外国人向けに、かろうじて成り立っている商売だった。
そんななか、「なんとかして日本人の口に合うパンができないか」と木村親子が考えた末にたどり着いたのが、日本人になじみのある「あんこ」と「酒種を使ったパン生地」を組み合わせた「あんパン」だったのである。 あんパン発明のヒントになったものとは?
震災や戦災で多くの資料が焼失しているため、木村親子が当時どのようにあんパンを考案、製造したかはわかっていない。
だが、かねて日本で親しまれてきた「酒饅頭」にヒントを得たことは間違いないだろう。
ここで思い出してもらいたいのは、安兵衛が最初に雇い入れたパン職人は、長崎出身だったことだ。
当然、木村親子は彼からコウジ種を使ったパンの作り方を教わったはずだ。
そして、出来上がったパンの香りを嗅ぎ、酒饅頭を連想する。
酒饅頭は、独特の風味とふかふかの食感を併せ持つ、庶民に人気のおやつである。
これをパンに応用し、主食としてではなく、菓子として売り出したらウケるのではないか。
そう考えたとしても、不思議はない。 饅頭は、もともと中国から伝来したものだ。
日本にやってきた経路は、今のところ2系統があるとされている。
一つは南北朝時代の1341(暦応4)年、中国から林浄因(りんじょういん)が持ち込んだというもの。
林が伝えたのは小麦粉の生地に餡を包んだ点心のようなもので、餡には羊肉が使われていた。
当時、肉食が禁じられていた日本では、羊肉に色が似た小豆を用いた饅頭が作られるようになったという。 もう一つは、これより100年ほど前の鎌倉中期、宋に留学していた臨済宗の僧、聖一国師(しょういちこくし)が帰国し、福岡の博多で伝えというもの。
甘酒を使って発酵させた生地をふかした、いわゆる「酒饅頭」の原型のようなものだったとされている。
だが、当時はまだ砂糖が普及していなかった。
砂糖が使われるようになった江戸時代になって、我々が現在食べているような甘いあんこの入った「酒饅頭」が出回るようになった。
それが、ひいてはあんパンにつながっていくのである。 吉野の桜をのせて明治天皇に献上
酒饅頭に倣ったとはいえ、蒸すのと焼くのとでは大違いだ。
酒種では生地はあまり膨らまない。
ふっくらとやわらかいパンを生み出すまでには、相当な回数の実験が繰り返されたことだろう。
数年の試行錯誤を経て、あんぱんが完成の域に達したのは、明治天皇が口にするその前年、1874年頃のことだと推測される。
…中略… あんパン、ジャムパン、クリームパン。日本の3大菓子パンが揃い踏み
木村屋のあんぱんがブレイクしたのは、天皇献上から7年ほど経った1882(明治15)年のことである。
その年の6月25日、東京馬車鉄道会社によって新橋~日本橋間の鉄道が開通した。
銀座のにぎわいとともに、木村屋のあんパンは一躍「銀座名物」としてもてはやされる。
さらに木村屋は、当時としては斬新な宣伝を取り入れ、その名を広めていった。
のちに3代目となる英三郎の弟・儀四郎(ぎしろう)は、広告会社「広目屋(ひろめや)」の秋田柳吉と知り合い、楽隊を使った宣伝のアイデアを耳にする。
この案をさっそく実行に移し、それが今のチンドン屋宣伝の始まりになっている。
こうして、カネ、ラッパ、太鼓による木村屋のコマーシャルソング(作詞は仮名垣魯文)が東京の町々に響き渡った。
1887(明治20)年には、当時人気だった蛎殻町の歌舞伎の芝居小屋「中島座」がこの木村屋のチンドン屋宣伝の風景を取り入れた芝居を上演し、大評判となった。
そして、明治30年代ともなると、木村屋のあんぱんは全国に知れ渡るようになっていた。 1900(明治33)年、ビスケットの事業を手がけていた儀四郎は、さらにあんではなく、ジャムをパンにはさむことを思いつく。
こうして杏(あんず)ジャムの入った画期的なパン、ジャムパンが登場。
また、1904(明治37)年には「中村屋」が、シュークリームをヒントにクリームパン発売する。
今ではインドカレー屋の老舗として知られる中村屋だが、1901(明治34)年の創業時はパン屋だったのである。 こうして日本のパン食文化は、一気に花開いていく。
また、1890(明治23)年、1897(明治30)年に起きた米騒動は、食パンが米の代替食として注目されるきっかけになった。
もはやパンは珍奇な食べものではなく、人々にとって身近なものへと変わっていた。
あんパンは、文明開化を象徴する一つの食べものというだけにとどまらず、パンになじみのなかった日本人に、そのおいしさを広めて立役者でもあったのだ。 木村屋の桜あんパンは、原点にして、今なお多くの人々から愛されている一品だ。
そのルーツは、文明開化の高揚感に沸き立つ明治、激動の幕末、パンが初めて入ってきた戦国時代、そしてさらには饅頭が伝来した南北朝時代にまでさかのぼる。
わずか数十秒で食べられてしまう、その小ぶりな丸い食べものに、実は800年以上ものはてしない歴史が潜んでいる。
(『ニッポン定番メニュー事始め』澁川祐子 彩流社 2013年)
「近代のパン発祥の地 記念碑の設置」(横浜パン屋めぐり)
『銀座木村屋あんパン物語』(大山真人 平凡社新書 2001年)
枝垂れ桜も花が散りだして淋しくなってきました。
〝神前に薬を供え無病息災願う「鎮花祭」 奈良 桜井 大神神社〟(NHK奈良)
花の話
三
平安朝の初めから著しくなって来るものに、花鎮(はなしず)めの祭りがある。
鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響を及ぼしている。
鎮花祭の歌詞は今も残っているが、田歌であって、こういう語で終わっている。
やすらへ。花や。やすらへ。花や。
普通は「やすらひ花や」としている。
「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であって、ぐずぐずすることである。
ぐずぐずして、ちょっと待っていてくれ、という意味である。
だから、この鎮花祭を「やすらい祭り」と言うのである。
この祭りの対象になる神は三輪の狭井(さい)の神であって、少なくとも、大和から持ち越した神に相違ない。
田の稲の花が散ると困るという歌を謡って、踊ったのである。
それがだんだんと芸術化し、宗教化して来た。
最初は花の咲いている時に行のうたのであるが、後には、花の散ってしもうてから行なわれるようになった。
これでは何の役にもたたない。
…つづく…
(『古代研究Ⅱ 民俗学篇2』折口信夫 角川ソフィア文庫 2017年)
この本を読んで千尋が法学部を目指したことがドラマの最後に描かれていました。「木村屋のあゆみ」(木村屋總本店)に「あんぱん」のことや「乾パン」「ジャムパン」の開発が書かれていますので参照してください。
あんぱん
和洋折衷の奇跡の産物、その名は「あんパン」
饅頭の進化形として誕生、明治天皇もとりこに
もちっとした甘い生地に、びっちりと詰まったこし餡。
かじるとふんわり甘酒の匂いが広がる。
真ん中のくぼみにのっている桜の塩漬けが、餡の甘さを引き立てる。
パンというより、もはや和菓子の域。
一つ食べると、決まってもう一つ食べたいという気にさせられるところが心憎い。
(『ニッポン定番メニュー事始め』澁川祐子 彩流社 2013年)
…中略…
…中略…
「パンを好む日本人」は〝馬鹿の大関〟
西洋のパンが日本に初めてもたらされたのは意外に古く、1543(天文12)年、ポルトガルの商船が種子島に漂着した時だと言われている。
以後、キリスト教の布教にともなって、パンも人々に知られるようになる。
儀式にパンと葡萄酒は欠かせないものだったからだ。
一説には、織田信長はパンを食べたとされている。
普及するかに思えたパンだったが、徳川家光による鎖国令とキリスト教禁止強化によって、一般に普及するよりも前にその歴史はいったん途絶える。
出島で細々と焼かれていたものの、再び表舞台に登場するのは幕末。
兵糧として注目される時を待たねばならない。
<波牟(パン)とは、蒸餅すなわち饅頭の餡なきものなり。オランダ人つねに一個を用ひて一食分とす>と、『和漢三才図会』には書かれている。
同書は、1713(正徳3)年頃に出版された挿絵入り百科事典である。 それから150年以上経った明治の人々にとっても、その印象はあまり変わらなかっただろう。
1873(明治6)年の「開化なぞ合わせ」という風刺画には、<パンの弁当とかけて仕立ての着物ととく、心はいつかしのぎだ>とある。
仕立て屋の着物は、見た目はいいが、すぐに着崩れる。
パンもそれと同じで、すぐにお腹が空くという意味だ。
また、僧侶の佐田介石が著した1874(明治7)年の『馬鹿の番附』という番付表には、大関として「米穀を食わずしてパンを好む日本人」がランクインしている。
パンは「あんのない饅頭みたいな」頼りない食べものと思われていたようだ。 木村屋が創業した1869(明治2)年は、パン屋といえば横浜に外国人が経営するベーカリーが4軒、それに1860(万延元)年創業の日本人初のパン屋と言われる内海兵吉の「富田屋」だけだったということが記録に残っている。
つまり、外国人向けに、かろうじて成り立っている商売だった。
そんななか、「なんとかして日本人の口に合うパンができないか」と木村親子が考えた末にたどり着いたのが、日本人になじみのある「あんこ」と「酒種を使ったパン生地」を組み合わせた「あんパン」だったのである。 あんパン発明のヒントになったものとは?
震災や戦災で多くの資料が焼失しているため、木村親子が当時どのようにあんパンを考案、製造したかはわかっていない。
だが、かねて日本で親しまれてきた「酒饅頭」にヒントを得たことは間違いないだろう。
ここで思い出してもらいたいのは、安兵衛が最初に雇い入れたパン職人は、長崎出身だったことだ。
当然、木村親子は彼からコウジ種を使ったパンの作り方を教わったはずだ。
そして、出来上がったパンの香りを嗅ぎ、酒饅頭を連想する。
酒饅頭は、独特の風味とふかふかの食感を併せ持つ、庶民に人気のおやつである。
これをパンに応用し、主食としてではなく、菓子として売り出したらウケるのではないか。
そう考えたとしても、不思議はない。 饅頭は、もともと中国から伝来したものだ。
日本にやってきた経路は、今のところ2系統があるとされている。
一つは南北朝時代の1341(暦応4)年、中国から林浄因(りんじょういん)が持ち込んだというもの。
林が伝えたのは小麦粉の生地に餡を包んだ点心のようなもので、餡には羊肉が使われていた。
当時、肉食が禁じられていた日本では、羊肉に色が似た小豆を用いた饅頭が作られるようになったという。 もう一つは、これより100年ほど前の鎌倉中期、宋に留学していた臨済宗の僧、聖一国師(しょういちこくし)が帰国し、福岡の博多で伝えというもの。
甘酒を使って発酵させた生地をふかした、いわゆる「酒饅頭」の原型のようなものだったとされている。
だが、当時はまだ砂糖が普及していなかった。
砂糖が使われるようになった江戸時代になって、我々が現在食べているような甘いあんこの入った「酒饅頭」が出回るようになった。
それが、ひいてはあんパンにつながっていくのである。 吉野の桜をのせて明治天皇に献上
酒饅頭に倣ったとはいえ、蒸すのと焼くのとでは大違いだ。
酒種では生地はあまり膨らまない。
ふっくらとやわらかいパンを生み出すまでには、相当な回数の実験が繰り返されたことだろう。
数年の試行錯誤を経て、あんぱんが完成の域に達したのは、明治天皇が口にするその前年、1874年頃のことだと推測される。
…中略… あんパン、ジャムパン、クリームパン。日本の3大菓子パンが揃い踏み
木村屋のあんぱんがブレイクしたのは、天皇献上から7年ほど経った1882(明治15)年のことである。
その年の6月25日、東京馬車鉄道会社によって新橋~日本橋間の鉄道が開通した。
銀座のにぎわいとともに、木村屋のあんパンは一躍「銀座名物」としてもてはやされる。
さらに木村屋は、当時としては斬新な宣伝を取り入れ、その名を広めていった。
のちに3代目となる英三郎の弟・儀四郎(ぎしろう)は、広告会社「広目屋(ひろめや)」の秋田柳吉と知り合い、楽隊を使った宣伝のアイデアを耳にする。
この案をさっそく実行に移し、それが今のチンドン屋宣伝の始まりになっている。
こうして、カネ、ラッパ、太鼓による木村屋のコマーシャルソング(作詞は仮名垣魯文)が東京の町々に響き渡った。
1887(明治20)年には、当時人気だった蛎殻町の歌舞伎の芝居小屋「中島座」がこの木村屋のチンドン屋宣伝の風景を取り入れた芝居を上演し、大評判となった。
そして、明治30年代ともなると、木村屋のあんぱんは全国に知れ渡るようになっていた。 1900(明治33)年、ビスケットの事業を手がけていた儀四郎は、さらにあんではなく、ジャムをパンにはさむことを思いつく。
こうして杏(あんず)ジャムの入った画期的なパン、ジャムパンが登場。
また、1904(明治37)年には「中村屋」が、シュークリームをヒントにクリームパン発売する。
今ではインドカレー屋の老舗として知られる中村屋だが、1901(明治34)年の創業時はパン屋だったのである。 こうして日本のパン食文化は、一気に花開いていく。
また、1890(明治23)年、1897(明治30)年に起きた米騒動は、食パンが米の代替食として注目されるきっかけになった。
もはやパンは珍奇な食べものではなく、人々にとって身近なものへと変わっていた。
あんパンは、文明開化を象徴する一つの食べものというだけにとどまらず、パンになじみのなかった日本人に、そのおいしさを広めて立役者でもあったのだ。 木村屋の桜あんパンは、原点にして、今なお多くの人々から愛されている一品だ。
そのルーツは、文明開化の高揚感に沸き立つ明治、激動の幕末、パンが初めて入ってきた戦国時代、そしてさらには饅頭が伝来した南北朝時代にまでさかのぼる。
わずか数十秒で食べられてしまう、その小ぶりな丸い食べものに、実は800年以上ものはてしない歴史が潜んでいる。
(『ニッポン定番メニュー事始め』澁川祐子 彩流社 2013年)
「近代のパン発祥の地 記念碑の設置」(横浜パン屋めぐり)
『銀座木村屋あんパン物語』(大山真人 平凡社新書 2001年)
「中村屋の歴史」(新宿中村屋)
今朝の父の一枚です(^^)/枝垂れ桜も花が散りだして淋しくなってきました。
〝神前に薬を供え無病息災願う「鎮花祭」 奈良 桜井 大神神社〟(NHK奈良)
花の話
三
平安朝の初めから著しくなって来るものに、花鎮(はなしず)めの祭りがある。
鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響を及ぼしている。
鎮花祭の歌詞は今も残っているが、田歌であって、こういう語で終わっている。
やすらへ。花や。やすらへ。花や。
普通は「やすらひ花や」としている。
「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であって、ぐずぐずすることである。
ぐずぐずして、ちょっと待っていてくれ、という意味である。
だから、この鎮花祭を「やすらい祭り」と言うのである。
この祭りの対象になる神は三輪の狭井(さい)の神であって、少なくとも、大和から持ち越した神に相違ない。
田の稲の花が散ると困るという歌を謡って、踊ったのである。
それがだんだんと芸術化し、宗教化して来た。
最初は花の咲いている時に行のうたのであるが、後には、花の散ってしもうてから行なわれるようになった。
これでは何の役にもたたない。
…つづく…
(『古代研究Ⅱ 民俗学篇2』折口信夫 角川ソフィア文庫 2017年)