2025年4月16日水曜日

寒いくらいだったけど

最近は、冬に逆戻りしたような寒さで
今朝も冷たい風が吹いて寒いくらいでした。
予報を見ていると明日は、25度!
いきなりの気温の変化は、気分が悪くなりそうです。
何処かの国の大統領の朝令暮改みたいだ……
昨夜の「しあわせは食べて寝て待て 第3話

原作とちょっと違っているけど原作のよさを損なっていない。
来週の予告を見ていると涼子様とよねさんが再会するね(^_-)

5階の部屋からみると小鳥が子育てをしていました。
チラッと見えたのはオナガかな?
シジュウカラの幼鳥がかわいかったなぁ
シジュウカラは、意外なところに巣を作ったりするんですよ

この郵便受け、手紙は入れないで 小さな命が育ってます」(朝日新聞 2020年6月8日)
録画しているけどまだ見終わっていないのが
土曜ドラマ「地震のあとで AFTER THE QUAKE
第1話に出演されている橋本愛さんがインタビューの中で
原作(『神の子どもたちはみな踊る』)と『辺境・近境』(「神戸まで歩く」)を読んで役作りの参考にしたと話していました。

『辺境・近境』を読むと村上春樹さんが食レポをするんだと楽しく読んだのが……
 讃岐・超ディープうどん紀行 

90年10月。「ハイファッション」の若くて美人で知的な編集者(当時)、マツオが僕に会うたびに故郷の讃岐うどんの自慢話をするので(ほかに自慢するものないのか?)、「じゃあ食べに行こうじゃないか」というところで話がまとまり、取材旅行することになった。
同行者は安西水丸(あんざいみずまる)さん。
三人でうどんをずるずると食べまくった。
でもおいしかった。
もう一回「中村うどん」行ってみたいなと、ふと考えてしまうこの頃である。
取材の合間に金刀比羅宮(ことひらぐう)の階段を走って登ったのもよい思い出である。
(『辺境・近境』村上春樹 新潮文庫 2016年)
 あるいは、香川県という土地には他にもいろいろと驚くべきことがあるのかもしれない。
しかし僕が香川県に行ってみて何よりも驚いたのは、うどん屋さんの数が圧倒的に多いことであった。
うどん屋さん以外に何もないんじゃないかという気がしてくるくらい見事にうどん屋さんが多いのだ。
寿司(すし)屋とかラーメン屋とか蕎麦(そば)屋とか、そういうものはほとんど見当たらない。
どこを向いても、まるでメーデーの日の代々木公園に翻(ひるがえ)る旗みたいにぎっしりと、うどん屋またうどん屋である。
旅行中朝から晩までずっとうどん屋の看板を見ていたような気さえする。
…中略…

 それはまあそれとして、なにしろ香川県にはうどん屋の数が多い。
統計をとって人口一人あたりのうどん屋の数というのを出したら、香川県はまずまちがいなくぶっちぎりの全国一位になることだろう。
 僕は正直に言って、「ハイファッション」という雑誌でこういう「四国うどんの旅」なんていうあまりファッショナブルとはいえない取材をしたことに対して、いささか申しわけなく思っている。
どうしてかというと、讃岐うどんとファッションのあいだには、ほとんど何も関連性がないからである。
本来からいえば、こういう企画は「太陽」だとか、「四季の味」だとか、あるいは十五歩くらい譲って「ミセス」だとかでやるべきものである。
なのにどうして「ハイファッション」でやるかというと、担当のマツオ(マツオさん、女のヒト、敬称略)が香川県出身で、僕と顔をあわせるといつも(あるいは香川県出身者の話題は一般的にかなり限られているのかもしれない)うどんの話をしていたからである。
僕ももともとうどんが好きなうえに、マツオがうどんの話をすると、とても美味(おい)しそうに聞こえる。
話しているうちになんだかひどくうどんが食べたくなってくる。
マツオなんてほとんどよだれと鼻水を一緒にずるずる垂らしながらうどんの話をする。
じゃあどうせなら四国までうどん食べに行って、それを取材記事にしちゃおうじゃないかということになってしまったのである。
実を言うと最初はコム・デ・ギャルソンのショーの記事を書いてくれないかという依頼だったのだが、そういうの俺はよくわかんないからなあ、うどんのことだったら書いてもいいけどさ、なんて軽い冗談で言っているうちに、本当にうどんの取材になってしまったのだ。
こういうのはもはや成り行き以外の何ものでもない。
 それで安西水丸さんに「一緒に四国までうどんを食べに行きませんか」と声をかけたら、「ああ、いいですよ、行きましょう」ということになって、三人でぶらぶらと四国まで二泊三日の旅行に出かけた。
時は秋、季候もいいし、のんびりと四国見物をしながら讃岐うどんを心ゆくまでたっぷり食べようという趣向である。
十月も末だというのに、四国はTシャツ一枚でも汗ばむくらい暖かだった。
 あるいは中には、うどん屋なんて全国どこに行ってもだいたい同じだろうと思われる読者もいらっしゃるかもしれない。
しかしはっきり言って、その見方は間違っている。
香川県のうどん屋のありかたは他の地方のうどん屋のありかたとは根本的に異なっている。
ひとことで言えばかなりディープなのである。
ちょうどアメリカの深南部に行って、小さな町でなまずのフライを食べているようなそんな趣さえある。
 小懸家(おがたや)
 四国に着いて最初に入ったうどん屋では、店に入るとまずおろし金と長さ二十センチくらいの大根がテーブルに運ばれてきた。
…中略…(以下、本を参照してください)

 中村うどん
 さて次に行ったのが丸亀(まるがめ)の近くにある「中村うどん」だが、ここは文句なしに凄かった。
…中略…

 山下うどん 
 この店は綾(あや)川という川のほとりにあって、店の前には昔粉を碾くのに使っていた水車が残っている。
…中略…

 がもううどん
 うどんに次ぐうどんで、さすがにだんだんおなかが苦しくなってくるが、次の「がもううどん」に移る。
…中略…

 久保うどん
 この店も製麺所が直接経営するうどん屋だが、高松市内にあるだけあって、他の同種の店に比べるとうどん屋としての体裁はいちおうちゃんと整っている。
…中略…
 他にもまだいろいろとうどん屋さんをまわったのだが、いちいち全部書いているときりがないので割愛。
なんだか一年分のうどんを三日で食べてしまったような気分がしたくらいいっぱいうどんを食べた。
「私なんかもう鼻からうどんが出てきちゃいそうだわ」とマツオは言う。
マツオは取材中ひどい風邪をひいてずっと鼻をかんでいたから、本当に一、二本は出たのかもしれない。
 しかしそれはそれとして、香川県のうどんはあらゆる疑いや留保を超越して美味しかったし、この旅行を終えたあとでは、うどんというものに対する僕の考え方もがらっと変わってしまったような気がする。
僕のうどん観にとっての「革命的転換があった」と言っても過言ではない。
僕は以前イタリアに住んでいたころ、トスカナのキャンティ地方を何度となく旅行し、ワイナリーを訪ねてまわって、その結果ワインというものに対する考え方ががらっと変わってしまった経験があるけれど、このうどん体験はそれに匹敵するものであったと思う。
 香川県のディープサイドで食べたうどんにはしっかりと腰の座った生活の匂いがした。
ああ、ここの人たちはこういうものをこういう風に食べて暮らしているんだなあというしみじみとした実感があった。
香川県の人々がうどんについて話をするときには、まるで家族の一員について話しているときのような温(ぬく)もりがあった。
誰もがうどんについての思い出を持っていて、それを懐(なつ)かしそうに話してくれた。
そういうのってなかなかいいものだし、またそういう温もりが美味(うま)みを生むのだと僕は思う。
 しかし「中村うどん」は凄(すご)かったよな。
(『辺境・近境』村上春樹 新潮文庫 2016年)

ちなみに「中村うどん」の店主は、村上春樹さんのことを知らなかったそうです(^_-)
なかむら(丸亀市飯山町) 第三話】(さぬきうどん未来遺産 プロジェクト 2016.12.30)
今朝の父の一枚です(^^)/

 花の話
      五


 椿の花は疑いもなく、山茶花のことである。
海石榴と書いているのが、ほんとうである。
椿には意味がある。
大和にも豊後にも、海石榴市(つばいち)があった。
市は、山人が出て来て鎮魂して行く所である。
この時、山人が持って来た杖によって、市の名ができたものである。
椿の杖を持って来て、魂(たま)ふりをしたために、海石榴市と称せられたのであろうと思う。
豊後風土記を見ると、海石榴市の説明はよくわかる。
 椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があって、八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の持ち物とせられている。
八百比丘尼はよくわからないものであるが、室町時代には出て来ており、その形から見ると、山姥が仏教的に説明せられたものに違いない。
いつまでも若くまたは、死なぬ長寿者であって、熊野の念仏比丘尼が諸国を廻ったものと、山姥の考えとが結合したものである。
山姥は、椿の枝を山から持って来て、春の言触(ことふ)れをするのである。
春の報(しら)せには、山茶花は早く咲くから、都合のよい木である。
すなわち、山姥が、椿でうらを示したのである。
 …後略…
(『古代研究Ⅱ 民俗学篇2』折口信夫 角川ソフィア文庫 2017年)