2025年5月3日土曜日

憲法記念日

今日は、空気がサラッとしていて風が気持ちよかったです。
ムギワラトンボを見ると夏がきたのだと思うのですが
まだ海は冷たいだろうなぁ(^。^)

“本州一早い”海開き 一足早く海水浴楽しむ 和歌山 白浜町」(和歌山NHK)
ヘビイチゴ( 蛇苺)の赤い色は、なんか毒々しい感じがします(^_-)

 【第一五七段】
 訳 
名前が、恐ろしい物。

…中略…

蛇苺(くちなはいちご)。生霊(いきすだま)。鬼野老(おのところ)。鬼蕨(おにわらび)。茨(うばら)。枳殻(からたち)。蛇とか鬼とか霊などといった言葉が付くと怖い。

…後略…

  三十近くも怖い名前を書き連ねて、清少納言は怖くてならなかったのだろうか。
『枕草子 下』清少納言著、島内裕子校訂・訳 ちくま学芸文庫 2017年)

山を歩いていた頃、草むらを歩くときは、ストックを左右に振っていました。
一度、ヘビと出くわした瞬間、ヘビも私も同時に飛び上がった(°0°)
愛宕山を登っていたとき、大きなカエルをヘビが咥えていて睨まれました( ・_・;)
二日続けて取り上げられたのが

 折々のことば 鷲田清一 3392

 せっかく作ったもの、せっかく買ってくれたもの、どうぞ最後の最後まで使ってほしい
    花森安治

 雑誌「暮しの手帖」を創刊した編集者は、インクが最後の一滴まで使えるよう工夫を凝らしたインク瓶を愛用してきた。
使っていると、使う人への思いやりと自社商品への誇りとが直(じか)に伝わってくるという。
昨今は逆に、自社の商品が札束にしか見えないような商売が伸(の)していると、半世紀以上も前に書いていた。
『花森安治選集3』から。
 2025・5・1
 折々のことば 鷲田清一 3393

 政党や政治に、けじめがなくなったときが、独裁者のいちばん生まれやすいときである。
      花森安治

 編集者は1969年、今の政治家は政治が誰のためにあるかを忘れ、目先の票や利害しか眼中にないと嘆いた。
戦前、政治が腐敗と堕落の体(てい)を晒(さら)すばかりの時、憤った一部の青年将校の決起をどこかよしとするところが庶民にはあった。
次に軍部独裁が現れたのも「国民に歓呼されて」のことだったと。
『花森安治選集3』から。
  202・5・2
  朝ドラ「あんぱん」を見ていて蘭子は、朝ドラ「花子とアン」の葉山蓮子(白蓮がモデル?)のような運命をたどるのかと心配しました(両方とも中園ミホさんの脚本)。
一安心したと思ったのだけど、来週の予告を見ると豪に赤紙が届きました…
無事に帰ってきますように!

今日は、「憲法記念日」。
今の日本国憲法は、国の無謀な動きを止めようとするものだと思っています。
それだけに権力者は、手枷足枷になる日本国憲法になにかと理屈をこねて
自分たちに都合のいい憲法に改悪したがるのだと思います。
来週、午後に朝ドラ「とと姉ちゃん」の再放送が始まります。

小橋常子(こはしつねこ)のモデルは、大橋鎭子(おおはししずこ)

花山伊左次(はなやまいさじ)は、花森安治(はなもりやすじ)がモデルのようです。

  無名戦士の墓
    『朝日新聞』日曜版「東京だより」(朝日新聞社・1960年8月)
    底本:2世紀7号(1970年8月)

 もう町中どこでも、朝から夜中まで、年中ぶつかりあい、ひしめきあい、ごったがえしているこの東京に、しかも、そのまっただなかに、ポカッとこんなところがあるというのは、なんだかウソみたいな気がする。
(『花森安治選集 3  ぼくらは二度とだまされない』花森安治 暮しの手帖社 2020年)
 一万五千平方メートル(四千七百坪)のだだっぴろい敷地は、ざっと見わたしたところ、人っ子ひとり見えない。
敷きつめた砂利の一つ一つまでが、きちんと真夏の午後の太陽の下でしいんとしずまりかえっていて、いちめんのセミしぐれである。
どこもかしこも、やけに明るいのである。
そして、涼しい風が吹いていた。
無名戦士の墓地である。
 ……兵隊たちは、ひとりのこらず、小判形のシンチュウの小さい札を持たされていた。
両はしの穴にヒモを通して、肩からじかにはだかにかけていた。
札には部隊記号とその兵隊の番号が乱暴にうちこんであった。
 フロに入るときも、どんなときでも、はずしてはならぬと命令されていた。
野戦ではフロなどめったに入れぬから、白いもめんのヒモはすぐにどすぐろくよれよれになり、うちこまれた数字にはアカとアブラがこびりついていた。
 戦死したとき、身元を確認するもので、「認識票」というのが正しい呼び名だったが、兵隊たちは「靖国神社のキップ」と言っていた。
 ……この墓地は、皇居のお堀に向きあっていて、英国大使館のまえの青葉通り、都電なら三番町の停留所から、だらだらと千鳥ヶ淵の方へ下ったところにある。
小さな札が出ているが、無名戦士の墓とは書いていない。
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」である。
ふらっとやってきた高校生が、事務所で「おじさん、ここはなんの古戦場ですか」と聞いたという。
 歩きにくい砂利道を上ってゆくと、横に長い前屋があり、その柱のあいだから向こうに六角堂がみえる。
美しいつり合いである。
六角堂の中央に、アジアの各地から集めた石で焼いた陶棺がすえてある。
そばの台に小さな草花の束がいくつかおかれて、「一束十円」という文字が添えられている。
 ここへくる人は、一日に百人をこえることはあまりない。
しかも、この六角堂におまいりするのは、そのうちの一割あるかなしかだという。
 ……兵隊たちは、歩きつかれてくると、食べものの話と、家に帰る話をした。
ここから日本へ帰るにはどうしたらよいかを、大まじめで研究した。
いつもぶつかるのは海であった。
陸地はなんとかたどってゆくことにしたが、朝鮮海峡までくると、それまで活気のあった会話が、いつでもポツンと切れた。
だまりこんで疲れた足をひきずりながら、ああ帰りたいなあ、とおもった。
 そんなとき、ひょっとハダの認識票が気になることがあった。
「靖国神社直行」、日本へ帰るいちばんの早道にはちがいなかった。
 ……この無名戦士の墓を作ることは、昭和二十八年の閣議できまっていた。
しかし、工事がはじまったのはおととしの三十三年、そして去年の春、やっとのおもいで出来上がった。
工費五千七百万円、建物は谷口吉郎氏、庭は田村剛氏の設計である。
 出来上がった日には、天皇と皇后がおまいりになった。
大臣も参列したろう。
しかし、それっきりであった。
 外国には大てい無名戦士の墓があって、各国の元首や首相級の人物がその国を訪れると、必ずおまいりするのが儀礼である。
まえの首相岸信介氏が外遊したときも、もちろんそうしてきたが、出かけるまえ、日本の無名戦士の墓にまいってくれとたのんだら、忙しいからと花束だけをとどけてよこした。
 きまったお祭りの日があるわけでもない。
憲法記念日とおなじで、作ることは作ったが、作りっぱなしである。
 ……古風なことを言うようだが、人間には、やはり、その人そのひとに持って生まれた星というものがあるのだろうか。
 兵隊は、みんな家に帰りたかった。
そして帰ってきた者もある。
帰ってこなかった者もある。
 五年ほどまえの、押しつまった年の暮れ、千葉の稲毛にあった復員局の分室を訪れたことがある。
荒れはてた構内の枯れ草のなかに、もとの部隊の弾薬庫があって、うすぐらい中に、天井までぎっしり遺骨がつまっていた。
灯明に火が入ると、どの箱にも「無名」と書いてあった。
全部で二千五百柱だと聞かされた。
 みんな名前があったにちがいない。
それが役所の戸籍も焼け、連隊区の兵籍簿もなくなってしまったのだろう。
そして一目でいいから会いたかった家族も、死んでしまったのかもしれない。
 シンチュウの認識票など、なんの役にも立ちはしなかったのだ。
この兵隊たちは、靖国神社にさえ入れてもらえないのだ。
名ナシノミコトでは、まつることができないのだそうだ。
 ……そのために、この無名戦士の墓を作ることになったのだが、そうときまってからも、なかなかできなかったのには、いろいろ裏があったということである。
 一つは靖国神社の反対だったという。
戦後、ここも単なる一「宗教法人」になって、国から一銭も出してはならぬことになった。
それなのに、無名戦士の墓に何千万という金を出すとは何事であるか、ということだったらしい。
 無名戦士の墓ができ上がると、外国の例のように、国賓がそちらへおまいりするようになるだろう、それではこっちはどうなるんだということもあったのかもしれない。
 政府がそれで弱腰になって、作ることは作ったが、あとは知らぬ顔をしていることになっているのかもしれない。
 ……名前がわからないから、生きていたとき、どんな暮らしをしていたひとたちか、わかるはずはない。
 わかることは、大部分が、たった一枚の赤紙で、家族と引きさかれてしまって、それっきり死んでしまった兵隊たちだということである。
おなじ兵隊でも、えらい将校なら、死んでも名前がわからぬことはあるまい。
(くず)ラシャの黄色い星が、ひとつかふたつか三つ、つまりただの兵隊だったにちがいない。
ひまさえあると、家に帰ることばかり考えていた兵隊たちのうちのだれかなのだ。
 ……その人たちは帰らなかった。
おなじ兵隊のひとり、ぼくは帰ってきて、それから十五年も生きて、いまこの人っ子ひとりいない妙に明るい墓地に立っている。
 そして、人には持って生まれた星があるのかと古風なことを考えている。
こうして生きて帰った者もあるし、死んだ者もある。
死んで靖国神社にまつられているものもあれば、名もわからず弾薬庫のすみにおかれ、やっと墓が出来ても、国も知らぬ顔、だれもかえりみようとしない者もある。
(こんな国ってあるものか)
 この墓には、どういうわけか一字も文字が書かれていない。
しかし「祖国のために勇敢に戦って死んだ無名の人たちここに眠る」といったふうの言葉だったら、むしろ、なんにもない、このままの方がよい。
 どんなに帰りたかったろう。
ぼくならそう書いてあげたい。
あすは、十五年目の八月十五日である。
(『花森安治選集 3  ぼくらは二度とだまされない』花森安治 暮しの手帖社 2020年)

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

靖国神社は不思議なところですね。
祀ってもらえると信じ、お国のために戦って戦死した兵士は、
名前が分からないと拒否され、
合祀を止めて欲しいという遺族の願いを拒否する。
今朝の父は、ストック二本で歩きました。
公園では、催しなどもあって大勢の人が来園していました。
人混みの中を歩くには、ストックの方が歩きやすいと言っていました。
今日は、3000歩以上歩いたそうです。
10時半頃に駐車場を出ましたが
空き待ちの車が長いながい列をつくっていて、駐車場に入るのは無理と違うかな…?