2024年10月9日水曜日

寒暖差が大きいですね

昨日は、Facebook(非公開)に「今にも降りそうだ」と書き込んだら
ポツポツと降ってきたので、あわててカメラをバッグにしまい帰ることにしました。
今朝は、昨夜からの雨が止んでくれたのですが、寒暖差が大きいですね…
袴田巌さん無罪確定 検察が控訴権利を放棄」(NHK)

朝ドラ「虎に翼」第18週「七人の子は生すとも女に心許すな?」 では、
放火事件で朝鮮人というだけで犯人にされる冤罪事件が描かれていました。

ETV特集「巌とひで子 ~袴田事件 58年後の無罪~

日本プロボクシング協会は、ボクサー崩れという偏見が一因となって袴田さんが犯人とされたと反発。
裁判のやり直しを求めて支援を続けてきた。
昨日、発売された最新号に

 冤罪は、ただ一つの誤りの結果ではない
  袴田事件再審無罪 四つの教訓

    デイビッド・T・ジョンソン(ハワイ大学) 訳=秋元由紀(翻訳家)

 58年間も無罪を主張してきた袴田巌(はかまだいわお)氏が9月26日、静岡で行われていたやり直し裁判(再審)で無罪判決を言い渡された。
88歳になる袴田氏は健康状態が悪く、自身の置かれた状況や過去の体験を含む多くについて認識が混乱している。
むろん、生きていれば悲劇は起きるものだが、袴田氏の身に降りかかったことは人間が体験しうる中でも最悪の内に入る。
それが回避可能だったことが、状況をいっそうひどいものにしている。
(『世界 2024年11月号』岩波書店)
 1966年、味噌製造会社の専務の一家四人が殺された事件で、従業員だった袴田氏が逮捕された。
68年に有罪判決が出され、袴田氏は死刑を宣告された。
佐藤栄作が首相で、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺された年である(その後、1980年に刑が確定)。
袴田氏は、無罪であることを示す証拠があったために2014年に釈放されたが、さらに10年後に無罪判決が出るまで死刑確定者のままだった。
 本稿では、袴田事件で何がまちがっていたのか、要点をおさえておきたい。
冤罪(えんざい)は、ただ一つの誤りの結果として起きるのではない。
むしろ、多くの誤りが組み合わさり、そこの刑事司法制度上の欠点が重なって状況がさらに悪化する。
袴田氏の冤罪事件では、関係者全員(警察、検察官、裁判官、弁護人)にある程度の責任があった。
自らが誤りを犯さなかったとしても、そこにある誤りに気づかなかった。
袴田事件という深刻な悲劇を繰り返さないためには、日本の刑事司法の多くが変わらなければならない。
本稿の結論では、改革されるべき四つの点を明らかにする。
 …後略…
(『世界 2024年11月号』岩波書店)
 「●昔もいまも米不足?」つづき

 「いまわの米粒」(振り米)の話をご存知であろうか。
 各地の農山村に伝わっている話で、死期におよんだ病人の耳もとで米粒を入れた竹筒を振り、いますぐ米を食べさせてやるから元気をだせ、と励ますストーリーである。
ところが、この話が農山村に分布することに意味があるわけで、それは、とりもなおさず、農民はイネはつくるが米は口にしにくい状況をものがたっているのである。
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年)
 かといって、都市の住民も、米を十分に食したわけではない。
 たとえば、江戸時代を例にとると、江戸の町では、文化・文政のころまで職人をのぞいては一日二食であった。
 とくに、江戸の人口が急激に増えていった江戸時代中期になると、江戸市中で食事を二食に厳守するようにとの幕府令が出されたりしている。
そして、実際に江戸の町に集められた米は、一日一人二食分平均しか流通しなくなっている。
その裏には、秘かに闇米を抱えたり、それを横流ししたりする悪徳商人がいたことも事実であろうが、総体的にいってそれだけの供給しかできなかったとみるべきである。
したがって、江戸の町などで一日に三食が一般化するのは、幕末のころからであった(渋沢敬三編『明治文化史・12 生活』などによる)。
 一方、生産量の半分の米を都市部に供出していた農村ではどうであったのだろうか。
 農家とひと口にいっても、時代のちがい(農耕技術の発展のちがい)や地域のちがい(気候のちがい)、それに藩令と地主、小作の立場のちがいなどがあって一様ではない。
それをあえて大ざっぱにならして考えてみると、日本の農家は、一戸平均五反(50アール)の水田と五反の畑を耕作して農家経営を成りたたせてきた、といえるだろう。
 いささか不謹慎ないいわけであるが、だいたいが文化傾向の大筋をみるときは、数値も大ざっぱにとらえた方が適当なのである。
部分的な考証をしていたのでは、間にあわない。
というよりも、部分ごとに疎密がでて、全体像がはかりにくくなり、かえっておかしな結果が生じかねないのである。
ここでは、大ざっぱな傾向を追うことをお許しいただきたい。
 その五反の水田から収穫される米の量であるが、現在は農業技術の急速な発展により生産量も年々あがっているが、江戸時代から戦前まではそれほどの差異がなく、全国的にならした場合一反の平均収穫量は5、6俵(1俵は四斗・一俵は玄米で60キログラム、精白米で56キログラム、したがって、一斗は精白米で14キログラム)といわれてきた。
したがって、五反では30俵ほどになる。
 一農家の米の生産量が30俵、その半分を都市部に供出すれば残りは、15俵、つまり60斗(600升・840キログラム)である。
そこで、6人家族の農家(老夫婦・若夫婦・子供二人)を例にとって考えた場合、一人三食とも米のめしを食べるとすれば1日最低5合(約700グラム)、6人で3升(約4.2キログラム)が必要である。
そうすると600升は200日分、ほぼ1年の半分の量にしかならないのである。

 6人家族でこの程度であるから、8人、10人という大家族もめずらしくなかったかつての農家では、米だけをもってすれば、おそらく1年の三分の一ぐらいの主食量しかまかなえかった、と想定できよう。
 そうしたことからも、日本民族は古来米のめしを主食にしてきた、という通念を、ここで一度あらためておきたいのである。
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年)