2024年10月14日月曜日

スポーツの日

今朝も平年に比べて気温が高いのですが
これまでの酷暑を耐え忍んだ身には涼しく感じました。
あちらこちらに植えられているヒマラヤスギに貼り紙がはられている…
貼り紙に書かれていたのが

[お知らせ]
 この木(ヒマラヤスギ)は根が浅く、台風など災害時に倒木しやすい樹種であり、公園を利用する人に影響を与えるおそれがあるため、撤去を予定しています。
 ご理解・ご協力くださいますよ、よろしくお願いいたします。
 撤去作業は、10月下旬から11月上旬の予定です。
   大阪市建設局鶴見緑地公園事務所

    ☎

ゴミ山を埋め立てたので根が浅いのだろうと思う。
中学生の頃、夜にゴミ山から燃えている赤い火が見えていました。
所々に煙突のような物が立っているのですが、
メタンガスを排出するために設置されていると思います。

鶴見区 思い出のこし」(大阪市立図書館)

これから冬鳥に会えると思っていたら
工事に伴う山のエリア閉鎖について」(「お知らせ」9月24日)
今日は「スポーツの日」なんですが、昨日、すごい記録がでていますね…

女子マラソン ケニア選手が2時間9分56秒の驚異的な世界新記録」(NHK)

1936年のベルリンオリンピック、マラソンで金メダル・銅メダルを獲得した「日本」代表選手がいます。
1936年ベルリン(TEAM JAPAN オリンピック競技大会 入賞者一覧)
金メダリストはベルリンオリンピック後、1937(昭和12)年に明治大学に入学しています。

三淵嘉子は、明治大学専門部女子部法科を1935(昭和10)年3月に卒業後、
明治大学法学部に編入、1938(昭和13)年3月に卒業しています。
二人は、どこかですれ違っているかもしれませんね…。
三淵嘉子……女子部出身の裁判官」(明治大学史資料センター所長 村上一博)
第4章 帝国日本による翻弄―1936~45年
 明治大学への入学


 1937年の秋、孫基禎は明治大学法科専門部へ入学する。
孫は自伝で、普専(普成専門学校:現高麗大学校)の学生時代にいつも警察からの監視が付いていたことを述べたうえで、明治大学の入学経緯について以下のように記している。
(『孫基禎(ソン・ギジョン)―帝国日本の朝鮮人メダリスト』金誠 中公新書 2020年)
  二学期、誰に知らせるでもなく普専を退学した私は、再び渡日することにした。しかし、四方八方手を尽くしてみても、要注意人物としての私を気軽に受け入れてくれるところはなかった。
  困っていると、朝鮮総督府学務局に勤めていた鄭商煕と満鉄にいた権泰夏先輩が、
 「私たちが保証人になってやろう」
  ということで明治大学への入学を図ってくれた。
  マラソン王・孫基禎の入学条件は、再び陸上をやらないということであった。学校の方で孫基禎の名前を借りることもしないかわり、人の集まりなどにも顔を出さず、できる限り静かにしていろ、という条件であった。 (『ああ月桂冠に涙―孫基禎自伝』)
 朝鮮で監視の目が付きまとうなか、その監視のストレスから「それならばいっそのこと、日本人のなかに身を沈め、彼らと生活した方が監視の目を振り払う上で良策」と考えて日本の大学への入学を考えたと記している。
ただこの入学の理由とその後の孫の行動とを整合的に考えると、孫は生活環境もさることながら、競技環境を変えたかったのではないだろうか。
 朝鮮では1936年8月に就任した朝鮮総督南次郎の下で「内鮮一体」を模索する政策が進んでいた。
南はいわゆる皇民化政策を進めるために、1937年7月に大幅な人事の刷新を図る。
このとき学務局長心得(のちに学務局長)に塩原時三郎(しおばらときさぶろう)が任命された。
塩原は教育とスポーツの面で朝鮮人の同化を強制的に進めていく。
孫の渡日後だが、一部の有能な選手らの競技のためのスポーツを重視せず、戦力のための「体育」を強調する政策を植民地朝鮮で展開していった。
こうした政策下のスポーツ選手にとっては朝鮮よりも日本の方が断然環境がよかったはずである。
孫の普専退学と明大入学は塩原が学務局長心得に就任し塩原の政策が強く推進されようとする時期である。
警戒・監視されていた孫には朝鮮でマラソンや陸上競技といったスポーツを行っていくにはかなり窮屈になり、朝鮮総督府の圧力が強まってくることは容易に想像できたはずだ。
 他方でベルリン五輪でマラソン三位となった南昇龍(ナム・スンニョン)は明大競走部で活躍し、箱根駅伝にも出場していた。
明治大学への入学を勧めた先輩権泰夏も箱根駅伝を5回も走り、1932年のロサンゼルス五輪に出場していた。
総督府の鄭商煕も養正高普の先輩であると同時に明大競走部で活躍した選手の一人であった。
朝鮮でのスポーツ環境の悪化が危惧されるなか、権と鄭が孫に日本で競技に集中させてやりたかったのではないだろうか。
彼らは監督やコーチにも話が通じただろう。
権や鄭からすると多くの人々が孫の明治大学入りを歓迎してくれると信じていたのではないか。
 これまで孫基禎はベルリン五輪後からマラソンを走らなくなったと指摘されてきている。
たしかにマラソンを走った記録は残されていない。
だが、1940年に開催が予定されていた東京五輪の出場に後ろ向きだったわけではない。
1937年1月にベルリン五輪三段跳で金メダルを獲得した田島直人とともに朝日体育賞を受賞したが、そのときの授賞式では「この賞を持って国に帰り先生達に早く見せ度(た)いと思います、四年の後には東京で必ずもう一度やってみます」(『東京朝日新聞』1937年1月26日)と述べている。
もちろんリップサービスの一つだっただろうが、この後、走る意欲を失わず、普専へと進学して普専陸上部に貢献したことは先に述べた。
 しかし孫基禎は日本で走ることをやめる。
ではこのとき孫と「入学条件」を交わした相手は誰だったのだろうか。
「再び陸上をやらない」「学校の方で孫基禎の名前を借りることもしない」という条件を提示したのは文脈から明治大学であった。
日本政府や内務省あるいは朝鮮総督府が間接的であれ関わっていたならばわざわざそうした交換条件を提示したうえで、大学側に孫を走らせないと指導したとは考えにくいからである。
帝国日本としては1940年の東京五輪に実績のある有能なスポーツ選手がいてくれる方がよかっただろう。
明治大学側は孫を大学に受け入れる替わりに、競走部に入部しないように促したのだ。
それは孫が当局の厳しい監視下にあったからだと言えまいか。
 寺島善一の著書『評伝孫基禎』では、このときの事情を「日本政府は孫基禎の入学に条件を付けた」と記しているがにわかには肯定しがたい。
日本の他の私立大学は警戒される孫の入学を認めなかった。
明治大学だけは監視の厳しい孫基禎を迎え入れた。
まずその事実が重要であり、孫がそのことに対して深く感謝していたのではないかと考える。
 当時の明治大学総長鵜沢総明(うざわふさあき)は右翼、左翼を問わず大逆事件、血盟団事件、相沢事件などを担当した人権派弁護士であり、明治大学は多くの朝鮮人や中国人留学生を受け入れていた。
そうした校風が監視に苛まれる孫でさえも学生として受け入れたともいえよう。
 のちの話となるが、入学後に孫は明大競走部から箱根駅伝を走ってほしいと依頼を受けたのだが、それを断ったのは「再び陸上をやらない」という入学条件を孫がかたくなに守り続けたからだと思われる。
自分を大学に受け入れてくれたことに対する感謝と自重であった。
(『孫基禎(ソン・ギジョン)―帝国日本の朝鮮人メダリスト』金誠 中公新書 2020年)

孫基禎が難しい立場になった「日章旗抹消事件」の経緯は
金メダリストの留学生・孫基禎」(山下達也 明治大学史資料センター)
に書かれています。