2024年10月11日金曜日

ひんやりしてきました

今朝は、自転車で公園に向いました。
ヒンヤリしていたのでウィンドブレーカーを着ました。
公園に着いてからはウィンドブレーカーを脱いでちょうどいいくらいでした。

早くも冬支度 京都府福知山市の公園で松のこも巻き」(関西NHK)
涼しくなって嬉しいのは私だけではないようです(^_-)
活発に活動する気温に違いがあるようですが
人間と同じく猛暑は苦手のようですね…
メーカーのサイトに

蚊の発生と気温・気候の関係。蚊は冬に本当に出ないの?」(フマキラー)
昔から蚊に悩まされてきたのですが
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の昆虫エッセイ「虫の研究」から

  蚊

 わたしは自分の身を守るために、ハワード博士の本『蚊』(*)を読んでいる。
蚊にさんざんひどい目に遭(あ)わされているのだ。
うちの近所には数種類の蚊がいるが、本当にわたしを苦しめるのは一種類だけである――全身に銀の斑(まだら)が入っている銀の縞目(しまめ)がある、小さい針のような奴だ。こいつに刺されると、まるで電気に焼かれたように痛い。こいつのぶんぶんいう唸(うな)り声にも、やがて来る苦痛の性質を先触れする、つん裂くような音色がある――ちょうど、特定の匂いが特定の味を暗示するような具合だ。
わたしの見たところ、この蚊はハワード博士がステゴミュイア・ファスキアータあるいはクーレクス・ファスキアートゥスと呼ぶ生物によく似ており、その習性はステゴミュイアと同じである。
たとえば、これは夜行性というより昼行性で、午後にもっとも人を悩ます。
わたしはこの蚊がわが家の庭の裏手にある寺の墓地――非常に古い墓地――から来ることを発見した。
(『怪談』ラフカディオ・ハーン著 南條竹則訳 光文社古典新訳文庫 2018年)
 ハワード博士の著書によれば、近所から蚊をいなくするには、かれらが育つ澱(よど)んだ水に、少量の石油あるいは灯油(とうゆ)を注ぐだけで良いそうである。
「15平方フィートの水面に対し1オンス、水面がそれより狭ければ、それに比例した量」の油を、週に一ぺん用いよというのだ。
……しかし、わたしの家の近所の状態を考えていただきたい!
 先に言った通り、わたしを苦しめる連中は寺の墓地から来る。
その古い墓地にあるほとんどすべての墓石の前に、「ミズタメ」と呼ばれる水受け、ないしは水槽がある。
たいていの場合、このミズタメは墓碑を支える幅広い台石に彫った楕円形の凹(くぼ)みにすぎないが、金(かね)のかかった墓石の前には台石の水槽はなく、一枚石から切り出した、もっと大きい、独立した水槽が置いてあって、それには家紋や象徴的な彫刻で装飾がほどこしてある。
もっともつましい種類の墓石の前にはミズタメはなく、茶碗などの器に水が入れてある――死者にはどうしても水が必要だからだ。また、花も供(そな)えなければいけないので、それぞれの墓石の前に一対の竹筒などの花立てがあり、もちろん、これにも水が入っている。墓地には墓に水をやるための井戸がある。親族や友人が墓参りに来るたびに、水槽や茶碗に新しい水が注がれる。しかし、この種の古い墓地には何千というミズタメ、何万という花立てがあるから、その水を全部、毎日取りかえることはできない。水は澱み、孑孑(ぼうふら)がわく。深い水溜めはめったに乾くことはない――東京は雨がよく降るので、十二カ月のうち九カ月、いくぶんか水が溜まっている。
 さて、わたしの敵が生まれるのは、こうした水槽や花立ての中なのだ。
連中は死者の水から何百万とわいて来る――そして仏教の教えによると、かれらのうちのある者は、ほかならぬ死者の生まれ変わりかもしれないのだ――前生の過(あやま)ちによって、食血餓鬼(じきけつがき)、すなわち血を飲む餓鬼の境涯に堕(お)とされたのかもしれないのだ。
……とにかく、クーレクス・ファスキアートゥスの悪質さからすると、あのわんわん泣くちっぽけな身体に悪人の魂が押し込められていると考えるのも、無理のないことであろう。
 さて、灯油の話に戻ると、いかなる場所でも、そこにある澱んだ水の面(おもて)をすべて灯油の膜(まく)で蔽(おお)ってしまえば、蚊は根絶できる。
幼虫は呼吸をしに上がって来ると死ぬし、雌の成虫も卵を浮べようとして水面に近づくと殺(や)られるからだ。
ハワード博士の本を読むと、人口5万人のアメリカの町を蚊から解放するためにかかる費用は三百ドルを超えないそうだ。……
 もし東京市庁が――この市庁は過激なまでに科学的で、進歩的である――寺の墓地の一切の水面を、一定の間隔をおいて、灯油の膜で蔽えという命令を突然出したら、何と言われるだろう!
生き物の命を――たとえ目に見えない命であろうと――奪うことを禁ずる宗教が、そのような布告に従うことが、どうしてできよう?
孝心を持つ者が、そのような命令に同意することを夢にも考えられるだろうか?
それに、東京中の墓場にある何百万ものミズタメと、何千万もの竹の花立てに七日に一ぺん灯油をさす労力と時間の費(つい)えを考えると!……不可能だ!
この街を蚊から解放するには、昔からの墓場を取り壊す必要があろう――それは墓に付随している寺の破滅を意味し――そして、いとも多くの魅力的な庭が、蓮池や、梵語(ぼんご)の刻まれた碑や、反(そ)り橋や、神聖なる木立や、妖しく微笑む仏陀たちもろともに消滅することを意味するだろう!されば、クーレクス・ファスキアートゥスの撲滅(ぼくめつ)は先祖から伝わった信仰の詩情を破壊することになる――たしかに、あまりにも大きな代価である!……
 それに、わたしも自分の番が来たら、どこか古風な寺の墓場に葬ってもらいたいのだ――そうすれば、わたしが幽霊になってつきあうのは、明治の流行や変化や崩壊を好まぬ昔の人たちであろうから。わが家の庭の裏手にある古い墓地など、もってこいの場所だろう。あそこにある物はすべて、この上ない、驚くばかりの風変わりな美しさを持っている。一つひとつの木や石が、もはや生きた人間の脳裡には存在しない、古い、古い理想によって形造られている。物の影ですら、この今の時代と陽光の影ではなく、蒸気も、電気も、磁気も、いや――灯油さえ知らなかった忘れられた世界の影である。
また、大釣鐘がゴーンと鳴る音にはある古雅な響きがあって、わたしの中の十九世紀な部分から不思議なほど遠く離れた感情をよび醒(さ)まし、それが微(かす)かに盲目的に心の底で動きはじめると、わたくしは怖くなる――得もいわれず快くもなり、怖くもなる。あの大波のうねるような鐘声を聞くたびに、わたしの魂の深い底でもがき、うち震えるものを意識する――億万の死と誕生の朦朧(もうろう)とした暗がりを越えて、光に到達しようとあがく記憶のような感覚である。
わたしはあの鐘の音が聞こえるところにいつまでもいたい。
……そして、食血餓鬼の境涯に堕ちる可能性を考えると、竹の花立てかミズタメの中に生まれ変わって、そこからこっそりと、かそけき辛辣(しんらつ)な歌を歌いながら、知っている誰かを刺しに行く機会を持ちたいものだと思う。

(*) アメリカ昆虫学者リーランド・オシアン・ハワード(1857―1950)の著書『 Mosquitoes 』(1901)。

(『怪談』ラフカディオ・ハーン著 南條竹則訳 光文社古典新訳文庫 2018年)
ノーベル文学賞に韓国の作家 ハン・ガン氏 アジア出身女性で初」(NHK 10月10日)

斎藤真理子さんの投稿に

ハン・ガンさんがノーベル賞を受賞されました。
今年受賞されたのは、暴力とジェノサイドが終わらない世界への警鐘の意味が大きいんじゃないかと思います。

菜食主義者少年が来るの功績ですね。
ハン・ガンさんおめとうございます。
これからもよい作品を読みたいです。


崔誠姫さんの投稿(10月10日)に

金大中もハン・ガンも全羅南道出身ということも強調しておきたいです。

10月11日には

嶺南・湖南の地域葛藤、国家権力によるジェノサイドの犠牲になった地ですよね。
遡れば甲午農民戦争の第三次蜂起、1929年の光州学生運動が始まった地でもあります。
このような光州を中心とする全羅南道という地域の歴史と二人のノーベル賞受賞者のつながりを考えていきたいです。


ノーベル文学賞を受賞した韓江氏の本が有害図書? 逆風が吹く京畿教育庁」(中央日報)
京畿道(キョンギド)教育庁が昨年韓江の小説『菜食主義者』を青少年有害性教育図書に指定して学校図書館から廃棄するように勧告し」ていたそうです。
韓国で受賞を喜ばない権力者がいるように
日本政府は、喜ばないでしょうね!
午後から心臓リハビリでした(先週4日が1回目)。
始まるまでの待ち時間に読んでいたのが
灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ著 鴻巣友季子訳 新潮文庫 2024年)
たまたま以下の投稿を目にして書店で購入しました。

葉々社の投稿(10月9日)

夜、小3ぐらいの少年が店に来る。
軽くあいさつを交わす。礼儀正しい。


少年が読みたくなる本は、うちにはあんまりないなーと思っていたら、小上がりにやって来て、魚住陽子の小説をこちらに向けながら「いくらですか?」と聞かれる。

「1980円です」と伝えると、本をもとの場所に戻して、また、探し始める。

「学校の帰り?」と質問すると、「サッカーの練習の帰りです」と答える。

「小説はどのあたりにありますか?」
「小説はこのあたりにあります」
「これはいくらですか?」
「935円です」
「これにします」

少年が手にしたのは、出たばかりのヴァージニア・ウルフの『灯台へ』だった。

「こんなむずかしいの読むの?」
「おかあさんの誕生日プレゼントにしようと思って」
「お母さん、本好きなんやね」
「はい」
「きっと喜んでくれるね」

少年は自分の財布から500円玉を2枚取り出し、袋は有料かと聞いた。

素敵な夜だった。
少年とお母さんに幸あれ。