その雨が日差しに温められたためか蒸し暑かったです。
春に咲くスモモの花
午後から買い物に出かけると予報通り激しい雨が降りました。
熱低(台風に発達)から前線に向って湿った空気が流れているみたい。
「里山などの鳥類 スズメなど16種が“絶滅危惧種”相当の減少」(NHK 10月6日)
「環境省によりますと、温暖化によって生息に適した地域が減少したり、里山やその周辺の管理が行われず環境が変化したりしたことが影響しているとみられるということです。」昨日の画像ですが、メジロがクスノキの実を啄もうとしていました。
「野鳥により種子散布される樹25種」(日本野鳥の会)まだ熟していないのかな?
クスノキ クスノキ科
キジバト、ヒヨドリ、ムクドリなど
主に暖地の林に生育する。
庭木や公園樹、街路樹などによく栽培されているほか、昔から神社などにも植えられていて、天然記念物に指定されている巨樹や老樹が各地にある。
10月頃に実は熟すが、鳥が好んで食べるということはない。
それでも12月頃になるとメジロ、場所によってはカケスなども採食する。
ほのかに樟脳のような風味がある。
(『野鳥と木の実』叶内拓哉 文一総合出版 2006年)「ガザ地区戦闘1年 死者は4万1000人超に いまも終結は見通せず」(NHK)
NHKスペシャル「“正義”はどこに ~ガザ攻撃1年 先鋭化するイスラエル~」
ナチスがユダヤ人をゲットーに閉じ込め、弾圧してきたように
パレスチナの人々から自由や生命、土地、財産を奪うなど弾圧することで
身近な鳥や虫たちですが、毎日のように歩いている公園でも
少なくなってきているような気がしていました。「里山などの鳥類 スズメなど16種が“絶滅危惧種”相当の減少」(NHK 10月6日)
「環境省によりますと、温暖化によって生息に適した地域が減少したり、里山やその周辺の管理が行われず環境が変化したりしたことが影響しているとみられるということです。」昨日の画像ですが、メジロがクスノキの実を啄もうとしていました。
「野鳥により種子散布される樹25種」(日本野鳥の会)まだ熟していないのかな?
クスノキ クスノキ科
キジバト、ヒヨドリ、ムクドリなど
主に暖地の林に生育する。
庭木や公園樹、街路樹などによく栽培されているほか、昔から神社などにも植えられていて、天然記念物に指定されている巨樹や老樹が各地にある。
10月頃に実は熟すが、鳥が好んで食べるということはない。
それでも12月頃になるとメジロ、場所によってはカケスなども採食する。
ほのかに樟脳のような風味がある。
(『野鳥と木の実』叶内拓哉 文一総合出版 2006年)「ガザ地区戦闘1年 死者は4万1000人超に いまも終結は見通せず」(NHK)
NHKスペシャル「“正義”はどこに ~ガザ攻撃1年 先鋭化するイスラエル~」
ナチスがユダヤ人をゲットーに閉じ込め、弾圧してきたように
パレスチナの人々から自由や生命、土地、財産を奪うなど弾圧することで
武力で抵抗するようにけしかけておきながら正義は自分達にあると主張する。
これを機会にパレスチナの人々を皆殺しにしないと安心できないのだろう。
イスラエル国内の停戦を求める声もロシアのように弾圧されている。
戦前・戦中の日本のようだ。
NNNドキュメント’24「キティちゃんと王さまの約束~鉛筆1本から描く平和~」
辻信太郎さんが体験した甲府空襲の悲惨な状況が、
イスラエル国内の停戦を求める声もロシアのように弾圧されている。
戦前・戦中の日本のようだ。
NNNドキュメント’24「キティちゃんと王さまの約束~鉛筆1本から描く平和~」
辻信太郎さんが体験した甲府空襲の悲惨な状況が、
ガザやウクライナで今も繰り返されている。
96歳の辻信太郎さんがどうしても許せない言葉「戦争だから仕方がない」
「いちご新聞8月号|いちごの王さまからのメッセージ」やっとスーパーなどでお米が積まれるようになりました。
私たちが誤解していること…
第1章 鶏のついばみ
◎主食は米にあらず
●昔もいまも米不足?
従来、日本人の主食は、米のめしであるといわれてきた。
それは、もちろん一面の真理である。
しかし、歴史を通じてどの時代も、すべての日本人が米のめしを主食として食べてきたわけではない。
のちにくわしくのべるが、むしろ、少し乱暴ないい方をすると、それぞれの土地で四季折々にとれた動植物を手あたりしだいに食べつないできた。
と同時に、主食とか副食とかの区別すらないような食生活もみられていた。
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年) 周知のように、現在は、稲作の減反政策がすすめられており、米が過剰であるということになっている。
しかし、それは、われわれがパンや麵(めん)など諸外国から輸入する穀物原料をもって粉食の形態をとり入れたこと(これも日本人の雑食性をものがたるものである)、ことに戦後、異常なまでのとり入れ方をしてきたことによって米の消費量が減ったからにほかならない。
もし、現在、不幸にして何らかの事情で諸外国からの輸入路が閉鎖された場合、現状の日本では、米が国民の三食をまかなう絶対的な食料にはなりえないのである。 たとえば、農林水産省の「作物統計」によれば、1985年(昭和60年)度の国内における米の収穫量は、水稲1161万3000トン、陸稲4万8500トン、水陸稲の合計では1166万2000トンである。
ただし、このうち約30万トンは加工原材料用に向けられるので、主食用としての供給量は、1136万トン程度となる。
それを1986年(昭和61年)10月現在の総人口1億2167万人(総務庁統計局の発表による)で除して得た国民一人あたりの米の平均供給数量は、1年あたり約93.3キログラム、1日あたり255.6グラムである。 もちろん、これはあくまでも換算数値であって実際の供給量ではないが、ひとつの目安にはなる。
そして、そうしてみた場合、われわれの米の自給率は不十分であることが明らかになる(近年、若者はそれで十分というかもしれないが、米を主食とした場合、それで足りるはずがない)。
ちなみに、一日あたりの255.6グラムといえば、約二合たらずの分量にすぎないのである。 時代をさかのぼって、年配の方には苦い想い出であろう第二次世界大戦時の配給米制度をふりかえってみよう。
食糧統制と管理を目的として「食糧管理法」が制定され、配給米制度がしかれたのは、1942年(昭和17年)のことである。
その制度下における国民一人あたりの配給米は、当初は1日2合1勺であった。
それが戦況の悪化にともなって2合となり、やがては1合8勺に減っている。
つまり、現在とは比較にならないほど深刻な状況下で国家的規模で食糧増産を目指していた当時でも、全国民に均等に米を消費させた場合、いずれにしても量的に不足をきたす状態にあった。
ちなみに、全国隅々まで米がゆきわたり、日本人全体が米を食べるようになったのは、第二次世界大戦中のこの配給米制度からのこと、といわれている。
少なくとも、山間の村むらなどではそうであった。 もちろん、それまでも日本では、古くさかのぼれば弥生時代(紀元前2、3世紀)から以後、稲作をさかんにおこなってきた。
いちいち例をあげるまでもなく、どの時代においても、水田を開拓し稲作を量産することが、為政者の中心的な政策となっている。
しかし結局、どの時代をとってみても、日本の国土における稲作は、全国民の全食をまかなえるだけの生産量をあげることができなかった。
そして、最後まで米を食べることに縁遠かったのが、じつはその生産者である農民だったのである。 農民はいつの時代も、そのときどきの政治的な奨励や圧力もあって稲作を積極的にすすめていたのであるが、収穫した米を口にすることはほとんどなかった。
それは、日本に古くから六公四民、五公五民という言葉があることからもわかるように、農村においては、収穫した米の半分は非農民、非食料生産者に供出する責務をおわされていたからである。
それが、日本という国家のひとつのシステムであった。
非農民、非生産者とは、都市住民といいかえられる。
それには役人、商人がふくまれ、時代によっては多数の軍人もふくまれた。
そういう人たちに米を供給するために、農民はいつも稲作の増産をはかってきたのである。 もっとも、それは、需要と供給の必然的な関係にあって、ひとつ日本にかぎったことではないが、日本の国土はあまりに狭すぎる。
事あるたびに、どちらかといえば、他に食料生産の道をもたない都市住民への米の供給量を確保するために、農民の自家消費量は減量されることにもなった。
かつて、幕藩体制下でのそうした傾向は、体制側の搾取、と敵意をもってきめつけられがちである。
しかし、ある意味では、日本の国土における米の生産量の眼界からすると、それもいたしかたないこと、ともいえる。
農民は、米の保有量が減ったとしても、ほかに畑作物や採取物でしのぐことが可能だからである。
…つづく…
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年)今朝の父の一枚です(^^)/
曇り空で画面が暗くなりましたが、エゾビタキを写しています。
エゾビタキ ヒタキ科
形 14.5cm。スズメ大の灰褐色の鳥。
背面の色は灰色味がつよく、こげ茶色の感じがつよい。
胸のあたりの灰褐色がコサメビタキより濃く、いく分暗褐色縦斑状になる。
三列風切羽のへりが色淡く、よく見える。
コサメビタキよりすこし大きい。
(『検索入門 野鳥の図鑑 陸の鳥②』中村登流 保育社 1986年)
96歳の辻信太郎さんがどうしても許せない言葉「戦争だから仕方がない」
「いちご新聞8月号|いちごの王さまからのメッセージ」やっとスーパーなどでお米が積まれるようになりました。
私たちが誤解していること…
第1章 鶏のついばみ
◎主食は米にあらず
●昔もいまも米不足?
従来、日本人の主食は、米のめしであるといわれてきた。
それは、もちろん一面の真理である。
しかし、歴史を通じてどの時代も、すべての日本人が米のめしを主食として食べてきたわけではない。
のちにくわしくのべるが、むしろ、少し乱暴ないい方をすると、それぞれの土地で四季折々にとれた動植物を手あたりしだいに食べつないできた。
と同時に、主食とか副食とかの区別すらないような食生活もみられていた。
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年) 周知のように、現在は、稲作の減反政策がすすめられており、米が過剰であるということになっている。
しかし、それは、われわれがパンや麵(めん)など諸外国から輸入する穀物原料をもって粉食の形態をとり入れたこと(これも日本人の雑食性をものがたるものである)、ことに戦後、異常なまでのとり入れ方をしてきたことによって米の消費量が減ったからにほかならない。
もし、現在、不幸にして何らかの事情で諸外国からの輸入路が閉鎖された場合、現状の日本では、米が国民の三食をまかなう絶対的な食料にはなりえないのである。 たとえば、農林水産省の「作物統計」によれば、1985年(昭和60年)度の国内における米の収穫量は、水稲1161万3000トン、陸稲4万8500トン、水陸稲の合計では1166万2000トンである。
ただし、このうち約30万トンは加工原材料用に向けられるので、主食用としての供給量は、1136万トン程度となる。
それを1986年(昭和61年)10月現在の総人口1億2167万人(総務庁統計局の発表による)で除して得た国民一人あたりの米の平均供給数量は、1年あたり約93.3キログラム、1日あたり255.6グラムである。 もちろん、これはあくまでも換算数値であって実際の供給量ではないが、ひとつの目安にはなる。
そして、そうしてみた場合、われわれの米の自給率は不十分であることが明らかになる(近年、若者はそれで十分というかもしれないが、米を主食とした場合、それで足りるはずがない)。
ちなみに、一日あたりの255.6グラムといえば、約二合たらずの分量にすぎないのである。 時代をさかのぼって、年配の方には苦い想い出であろう第二次世界大戦時の配給米制度をふりかえってみよう。
食糧統制と管理を目的として「食糧管理法」が制定され、配給米制度がしかれたのは、1942年(昭和17年)のことである。
その制度下における国民一人あたりの配給米は、当初は1日2合1勺であった。
それが戦況の悪化にともなって2合となり、やがては1合8勺に減っている。
つまり、現在とは比較にならないほど深刻な状況下で国家的規模で食糧増産を目指していた当時でも、全国民に均等に米を消費させた場合、いずれにしても量的に不足をきたす状態にあった。
ちなみに、全国隅々まで米がゆきわたり、日本人全体が米を食べるようになったのは、第二次世界大戦中のこの配給米制度からのこと、といわれている。
少なくとも、山間の村むらなどではそうであった。 もちろん、それまでも日本では、古くさかのぼれば弥生時代(紀元前2、3世紀)から以後、稲作をさかんにおこなってきた。
いちいち例をあげるまでもなく、どの時代においても、水田を開拓し稲作を量産することが、為政者の中心的な政策となっている。
しかし結局、どの時代をとってみても、日本の国土における稲作は、全国民の全食をまかなえるだけの生産量をあげることができなかった。
そして、最後まで米を食べることに縁遠かったのが、じつはその生産者である農民だったのである。 農民はいつの時代も、そのときどきの政治的な奨励や圧力もあって稲作を積極的にすすめていたのであるが、収穫した米を口にすることはほとんどなかった。
それは、日本に古くから六公四民、五公五民という言葉があることからもわかるように、農村においては、収穫した米の半分は非農民、非食料生産者に供出する責務をおわされていたからである。
それが、日本という国家のひとつのシステムであった。
非農民、非生産者とは、都市住民といいかえられる。
それには役人、商人がふくまれ、時代によっては多数の軍人もふくまれた。
そういう人たちに米を供給するために、農民はいつも稲作の増産をはかってきたのである。 もっとも、それは、需要と供給の必然的な関係にあって、ひとつ日本にかぎったことではないが、日本の国土はあまりに狭すぎる。
事あるたびに、どちらかといえば、他に食料生産の道をもたない都市住民への米の供給量を確保するために、農民の自家消費量は減量されることにもなった。
かつて、幕藩体制下でのそうした傾向は、体制側の搾取、と敵意をもってきめつけられがちである。
しかし、ある意味では、日本の国土における米の生産量の眼界からすると、それもいたしかたないこと、ともいえる。
農民は、米の保有量が減ったとしても、ほかに畑作物や採取物でしのぐことが可能だからである。
…つづく…
(『日本人は何を食べてきたか 食の民俗学』神崎宣武 大月書店 1987年)今朝の父の一枚です(^^)/
曇り空で画面が暗くなりましたが、エゾビタキを写しています。
エゾビタキ ヒタキ科
形 14.5cm。スズメ大の灰褐色の鳥。
背面の色は灰色味がつよく、こげ茶色の感じがつよい。
胸のあたりの灰褐色がコサメビタキより濃く、いく分暗褐色縦斑状になる。
三列風切羽のへりが色淡く、よく見える。
コサメビタキよりすこし大きい。
(『検索入門 野鳥の図鑑 陸の鳥②』中村登流 保育社 1986年)