朝の涼しさの後、この暑さは堪えるなぁ(^^;
公園では、しばらく雨が降らないのでスプリンクラーでの散水が行われていました。
いつも挨拶するTさんがスプリンクラーの前で手を振っておられた。
こちらも手を振って挨拶したのだけど、なにか身振りをされている?
スプリンクラーが回ってくると両手を合わせた。
なんと、Tさんの頭上に水が降り注ぎました。
回ってくるのを待っていたんだ!
ミストにしたら粒が大きいと思うけどなぁ
一瞬だけなのでびしょ濡れになっていないようでした(離れているので???)。
σ(^^;)ならヒェ~となる!「漫画家100人余 ウクライナ支援 描き下ろし色紙をオークション」(NHK)
〝「ゴルゴ13」さいとう・たかをさん お別れの会 去年9月に死去〟(NHK 9月29日)
「さいとうさん お別れの会 ちばてつやさんらが弔辞」(NHK 9月29日)
里中満智子さん弔辞 全文
秋本治さん弔辞全文今週のEテレ0655「たなくじ」は
「30秒以上 手を洗うと 吉」
確か新型コロナの感染が拡大しはじめた頃に
「20秒以上」手を洗うことが推奨されていました。
20秒は意外と長い時間だと思ったので、帰宅してから
液体石鹸を一度にたくさんつけずに少量ずつで2回洗い、顔を固形石鹸で洗っています。
だいたい3回洗うので30秒以上になっています。
うがいは、お茶でやっています。
断水だとできないよね…
「静岡市清水区 断水は大部分で解消も 飲み水の利用できず」(NHK)
10月2日 朱鳥元年(686.10.24) 大津皇子(おおつのみこ)の謀反発覚。皇子と加担者30余人を逮捕(紀)。10月3日 朱鳥元年(686.10.25) 大津皇子を訳語田(おさだ)の舎で自害させる。妃山辺(やまのべ)皇女殉死(紀)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
逮捕された翌日に自害をさせられています。
謀反人ですが、万葉集や懐風藻(かいふうそう)に歌が載っています。
懐風藻には四首載っていますが、最後の「臨終」の訓読文などを転記します( ..)φ 三 大津皇子 四首
7 臨終
金烏(きんう) 西舎(せいしゃ)に臨み
鼓声(こせい) 短命を催(うなが)す
泉路(せんろ) 賓主なし
この夕 誰が家にか向ふ
<現代語訳>
太陽は西に傾き
夕べの鐘に短い命が身にしみる
泉途(よみじ)を行くは一人の旅
夕暮れどこへ宿ろうとするのか
(『懐風藻』江口孝夫 講談社学術文庫 2000年) <語釈>
〇臨終 死に臨んだ時に歌った詩。辞世の歌。
〇金烏 太陽。
〇西舎 西の建物。西方。
〇鼓声 夕べを告げる鐘の音。
〇短命を催す 短い命をいよいよ短く意識させる。~の思いを催促させる。
〇泉路 死地、黄泉、冥土。
〇賓主 主人と客人。主も客もなく自分一人という意に用いた。 <解説>
韻字は命と向であるが韻をふんでいない。
皇子24歳の10月3日、死を賜った時の詩である。
同じく万葉集に、
百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ (万葉集巻三―416)
というのがある。
詩も和歌もともに第一級の作品である。
和歌では死を悟った心境に映ったものは、日常卑近な景であり、平素は見過ごしがちにしているもので、天下国家を論ずるものではない。
自然の中に生活する一人の人間の姿が浮かびあがってくる。
また詩の方は、他人の死については見ることがあっても、自分の死には観念的にしか考えられなかったもお、その死が今、目前にきている。
恐れというか不安というか、そういうものを超越しなければならない境地であるのに、なお払拭しきれない影が読みとれる。
悟ったもの、知りきったものには表現しえない人間性が読みとれる。
…後略…
(『懐風藻』江口孝夫 講談社学術文庫 2000年)(「断水の日」つづき)
水道の断水とスイッチの故障との偶然の合致から、私はいろいろの日本でできる日用品について平生から不満に思っていた事を一度に思い出させられるような心持ちになって来た。
第一に思い出したのが呼び鈴の事であった。
今の住居に移った際に近所の電気屋さんに頼んで、玄関や客間の呼び鈴を取り付けてもらった。
ところが、それがどうも故障が多くて鳴らぬ勝ちである。
電池が悪いかと悪いかと思って取り換えてもすぐいけなくなる。
よく調べてみると銅線の接合した所はハンダ付けもしないでテープも巻かずにちょっとねじり合わせてあるのだが、それが台所の戸棚(とだな)の中などにあるからまっ黒くさびてしまっている。
それをみがいて継ぎ直したらいくらかよくなったが、またすぐにいけなくなる。
だんだんに吟味してみると電鈴自身のこしらえ方がどうしてもほんとうでないらしい。
ほんとうなら白金か何か酸化しない金属を付けておくべき接触点がニッケルぐらいでできているので、少し火花が出るとすぐに電気を通さなくなるらしい。
時々そこをゴリゴリすり合わせるとうまく鳴るが、毎日忘れずにそれをやるのはやっかいである。
これはいったいコイルの巻き数や銅線の大きさなどが全くいいかげんにできていて、むやみに強い電流が流れるからと思われる。
それだからちょっとやってみる試験には通過しても、長い使用には堪えないように初めからできている。
それを二年も三年も使おうというほうが無理だということがわかった。
そしてずいぶん不愉快な気がした。
こういうものが平気に市場に出ていて、だれでもがそれを甘んじて使っているかと思うのが不愉快であった。
しかしまさかこんなにせ物ばかりもあるまいと思って、試みに銀座(ぎんざ)にある信用ある店でよく聞きただした上で買って来たのを付け換えたら、今度はまずいいようである。
ついでに導線の接合をすっかりハンダで付けさせようと思ったが前の電気屋はとうの昔どこかへ引っ越ししていなくなったし、別の頼んでみるとめんどうくさがって、そしてハンダ付けなど必要はないと言ってなかなかやってはくれない。
(『寺田寅彦随筆集 第一巻』小宮豊隆編 岩波文庫 1947年) 少々価は高くとも長い使用に堪えるほんとうのものがほしいと思っても、そんなものは今の市場ではなかなか容易には得られない。
たとえばプラチナを使った呼び鈴などは、高くてだれも買い手はないそうである。
これは実際それほど必要ではないかもしれないが、プラチナを使わないなら使わなくてもいいだけにほかの部分の設計ができていないのはどうも困る。
私の頼んだ電気屋が偶然最悪のものであったかもしれないが、ほうぼうに鳴らない玄関の呼び鈴が珍しくないところを見ると私と同じ場合はかなりに多いかもしれない。
もしこんな電気屋が栄え、こんな呼び鈴がよく売れるとすると、その責任の半分ぐらいは、あまりにおとなしくあきらめのいい使用者の側にもありはしまいか。 呼び鈴に限らず多くの日本製の理化学的器械についてよく似た事に幾度出会ったかわからないくらいである。
たとえばおもちゃのモートルを店屋でちょっとやってみる時はよく回るが買って来て五分もあればブラシの所がやけてもういけなくなる。
蓄音機の中の歯車でもじきにいけなくなるのがある。
これは歯車の面の曲率などがいいかげんなためだか、材料が悪いためだかわからない。
おそらく両方かもしれない。 このような似て非なるものを製する人の中には、西洋でできた品をだいたいの外形だけ見て、ただいいかげんにこしらえればそれでいいものだと思っているのがあるいはありはしまいか。
ある人の話では電気の絶縁のためにエボナイトを使ってある箇所を真鍮(しんちゅう)で作って、黒く色だけをつけておいた器械屋があるという。
これはおそらくただの話かもしれない。
しかしそれと五十歩百歩のいいかげんさは至るところにあるかもしれない。
五十年前に父が買った舶来のペンナイフは、今でも砥石(といし)をあてないでよく切れるのに、私がこのあいだ買った本邦製のはもう刃がつぶれてしまった。
古ぼけた前世紀の八角の安時計が時を保つのに、大正できの光る置時計の中には、年じゅう直しにやらなければならないのがある。 すべてのものがただ外見だけの間に合わせもので、ほんとうに根本の研究を経て来たものでないとすると、実際われわれは心細くなる。
質の研究のできていない鈍刀はいくら光っていても格好がよくできていてもまさかの場合に正宗(まさむね)の代わりにならない。
品物ついて私の今言ったような事が知識や思想についても言われうるというような事にでもなるといよいよ心細くなるわけであるが、そういう心配が全くなちも言われないような気がする。
…つづく…
(『寺田寅彦随筆集 第一巻』小宮豊隆編 岩波文庫 1947年)今朝の父の一枚です(^^)/
鵙(もず)
…前略…
さまざまな鳥の鳴き声を真似て複雑な囀(さえず)りを行うことから、「百舌鳥」の和名がある。
モズの繁殖形態は卵生で、2月から8月、樹上や茂みの中に木の枝などを組み合わせた皿状の巣を雌雄共同で作る。
数個の卵を産み、年に2回繁殖することもある。
雌が抱卵し、抱卵期間は14日から16日で、雛は孵化(ふか)してから約14日で巣立つ。
カッコウに托卵(たくらん)されることがある。
秋から11月頃にかけて、「キーイッ」という激しい鳴き声を出して縄張りを主張する。
鵙の高鳴きという。
縄張りを確保した鵙は縄張り内で単独越冬する。
冬には北日本のものや山地のものは南下し、あるいは山麓へ下る。
秋の高鳴きで縄張りを確保し、越冬したものは、2月頃から越冬した場所で繁殖する。
4月中頃までに雛を育て終わった親鳥は、高原や北へ移動する。
かざす手に血の色透けて鵙日和 片山由美子
(『季語の科学』尾池和夫 淡交社 令和3年)