2022年10月10日月曜日

体育の日

昨日の午後から降り出した雨も小雨になり
歩いている途中で傘を閉じることもできましたが…

北日本から東日本で大気不安定 北海道中心に大雨のおそれ」(NHK)
今週のEテレ0655「たぬくじ3(スリー)」
めったに揃わないのに揃った!(^^)!
おえかき運 アップ!

番組の始まりで

今日は祝日ですよ~!

今日はスポーツの日。
去年のスポーツの日は7月に移動したため10月は祝日がありませんでした。
今年は連休を楽しんでいる方も多いのではないでしょうか。
連休中の
0655もよろしくお願いしまーす。
10月10日は「体育の日」だったのが、
「スポーツの日」になり「10月の第2月曜日」と腰が据わらないなぁ(^_-)
祝日の中で今のところ唯一のカタカナ。
外来語と日本語が一緒になっても違和感を感じないのは、慣れっこになっているからかな?

1964年10月1日に東海道新幹線が開通
東京オリンピックが10月10日開催。

1964年東京五輪の最終走者、ヒロシマ背負い……」(東京新聞 2020年6月2日)

あの時は小学生だった。
新幹線開通や日本選手の活躍にワクワクドキドキしながらテレビを見ていた。
それにしても、今回の東京オリンピックは、次々と不祥事が起きるなぁ…
選手が気の毒だ。
第14章 嵐のごとき高度経済成長
 ●オリンピックと新幹線


 さて昭和39年(1964)です。
この年は問題なく、オリンピックと新幹線なのですが、その前に4月1日、日本人の海外旅行の自由化が実施されます。
先ほど申しました、IMFとOECDへの加盟で国際社会に仲間入りしたことから実現しました。
かくてこの後「猫も杓子(しゃくし)も海外へ」となるわけですが、この年の旅行者でいえば約12万8千人、それも公務員や商社マンが仕事で渡航したのがほとんどで、わざわざ観光旅行をした人は1万9千人でした。
自由化されたとはいえ、日本人にはまだ海外へ準備はできていなかったのですね。
でも、このあたりから海外へ目を開こうという日本人の意欲は高まっていき、さっそく翌年には、目ざといJALが「ジャルパック」という団体旅行パックをつくって海外への旅を推進しました。
(『昭和史 戦後編1945-1989』半藤一利 平凡社ライブラリー 2009年)
  この前後はふつう「昭和元禄(げんろく)」と呼ばれます。
はじめて言ったのは福田赳夫(たけお)さんで、ただしほめた意味ではなく、「池田内閣のやっている所得倍増、高度成長政策の結果、社会の動きは物質至上主義が国民の全面を覆い、レジャー、バカンス、その日暮らしの無責任さ、無気力が充満し、〝元禄調〟の世相が日本を支配している」と6月14日、京都の都ホテルでの記者会見で語ったので、つまりこんなに浮ついた時代であってはいかん、という、よく考えると池田政策批判なんですね。
早くおれに政権をよこせ、というわけなんでしょうかね。
池田さんが「お前が次だ」とひとこと言えばよかったのに、知らん顔して自策を押し付けているために福田さんや佐藤栄作さんから批判が出てくる、そうこうして揉めているうち池田さんはお亡くなりになってしまうのです。

(「所得倍増計画で高度成長」NHKアーカイブス 1961年)
 いよいよ新幹線と東京オリンピックです。
 新幹線の認可は昭和34年(1959)、予算は初年度30億円でした。
その年の夏、十河信二(そごうしんじ)国鉄総裁に世界銀行への借款(しゃっかん)を勧めたのが佐藤栄作だったことははっきりしています。
「こんな大工事は一内閣の期間では完成するはずはない。内閣によって方針がどう変わるかわからん。世銀からどかんと融資(ゆうし)を得ておけば、その時の内閣もやらざるを得なくなる。外から縛(しば)ることができる」というわけです。
そこで全工事費3千8百億円のうち2百88億円を世銀から借款し、工事期間は5年かかるところ、3年半の突貫(とっかん)工事でオリンピックに間に合わせたのです。
 いまも時々、東京駅で東海道新幹線に乗るとき、18・19番線階段下の突き当りの壁にはめ込まれている銅板の文句を読むことがあるんです。
これがこよなくいい文句なんです。
英文もついているのですが略します。

 「東海道新幹線
  この鉄道は日本国民の叡智(えいち)と努力によって完成された。
  東京・新大阪間 515km
  起工 1959年4月20日
  営業開始 1964年10月1日」

 どうです。
(おご)りも高慢さも思い上がりもなく、さわやかさいっぱいの文章ですよね。
運輸大臣や国鉄総裁の名前なんかない。
日本国民みんなして造ったんだと。
これがとにかく5年を3年半に縮めた最大の理由であったんです。
 そして東京オリンピックです。
オリンピックといえば「東京五輪音頭(おんど)」です。
〽はあーあ、それ、あの日ローマで眺めた月が 今日の都(みやこ)の空照らす……というものですが、この歌詞はNHKが公募して島根県庁の職員、宮田隆(たかし)さんの作品が選ばれたそうです。
すでに亡くなりましたが、戦時中にフィリッピンでの捕虜生活で餓死寸前のたいへんな苦労をされた経験から、もうそんなことがないように「世界平和を願って書いた」とか。
作曲は古賀政男(こがまさお)さん、たくさんの人が歌いましたが、三波春夫(みなみはるお)さんが一番知られています。
 オリンピックについて中身は詳しくお話しませんが、少なくとも世界じゅうが集まって競技をする大きな祭典で、日本人が心から感じたのは、これでやっと敗戦国から抜け出して国際社会の一員になった、先進国の仲間入りができた、というたしかな思いだったでしょう。
そういう意味でオリンピックは、日本人の気持ちをひとつにまとめる大きな役割を果たしました。
昭和35年の安保闘争後、浮ついたり無責任になったりしてはいましたが、ここで改めて「国家」を再認識して喜びを分かち合ったのです。
 開会式を見た作家、三島由紀夫さんのエッセイ「東洋と西洋を結ぶ火」(『文学者が語る東京オリンピック』)を読み上げてみます。

 「彼(坂井義則<よしのり>=最後の聖火ランナー)が右手に聖火を高くかかげたとき、その白煙に巻かれた胸の日の丸は、おそらくだれに目にもしみたと思うが、こいう感情は誇張せずに、そのままそっとしておけばいいことだ。日の丸のその色と形が、なにかある特別な瞬間に、われわれの心になにかを呼びさましても、それについて叫びだしたり、演説したりする必要はなにもない」

 日の丸を見ても、それは静かに一人ひとりが胸におさめておけばいい、ことさらにナショナリズムを喚起(かんき)し叫ぶことはない、と書いているのですが、その後ご本人はどうなったのかということにやがてお話は進んでいくわけでもあります。
 いずれにしろ、オリンピックは戦後の国家建設の過程での中間点の大いなる達成でした。
日本は敗戦後、占領で一度転換があり、さらに安保騒動の収束で気持ちのなかの大転換があった。
それがさらにオリンピックで一区切りして、ここからもう一つ〝違う戦後〟がはじまっていくことになります。 
その違う戦後がどうのように発展していったのか、次回のおたのしみというわけです。
(『昭和史 戦後編1945-1989』半藤一利 平凡社ライブラリー 2009年)
今朝の父の一枚です(^^)/
エゾビタキに出会っていました。

エゾビタキ〔蝦夷鶲〕

 スズメ目ヒタキ科。
全長14.5センチ、体重22グラム位。
ウスリー、アムール、中国北部、サハリン(樺太)、カムチャッカ、千島列島などで繁殖し、フィリピン、セレベス、モルッカなどへ渡って越冬する。
日本では春秋の渡りの季節に立ち寄っていく旅鳥であるが、秋期(9、10月)には低山地、平地、都市の公園や住宅地でもよく見られるので、ほぼ全国から観察記録がある。
止まっている枝から舞い上がって虫を捕え、元の枝に戻ってくる動作をよく行う。
小群でいることが多い。
(『野鳥の歳時記4 秋の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)