2021年7月25日日曜日

風がほとんど吹かない…

今朝も青空が広がり、風がほとんど吹いていないので暑い…
日本に生れて、生活している私でさえ暑さにまいりそうなのですから
鍛えられているからと言って…

高温多湿の東京、ジョコビッチ選手らは時間帯の変更を主張」(CNN)

ロシア選手、猛暑と湿気で倒れる アーチェリー女子」(BBC 7月24日)
7月25日
 天平3年(731.8.31) 〔忌〕大伴旅人(おおとものたびと<67、歌人、公卿>)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

大伴旅人について、品田悦一氏の論考が興味深いです。
東大教授が解説!「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ〟(現代ビジネス 2019.04.20)
『万葉集』と天平の天然痘大流行 品田悦一
 四、事件を想起させる『万葉集』の仕掛け――巻六以外の諸例――


 実は『万葉集』には、読者に長屋王事件を想起させる仕掛けがあちこちに施されている。
「令和(れいわ)」の典拠とされた「梅花歌卅二首幷序」などもその一つだが(巻五・815~52)、これについて、昨年私の書いた文章がSNS上に拡散して評判になったし、本書と前後して刊行される拙著にもその文章は掲載されるから(『万葉ポピュリズムを斬る』短歌研究所発行・講談社発売、2020年10月刊行)、ここでは割愛しよう。
 ほかにも、巻三と巻八にそれぞれ二箇所、巻四・五・六にそれぞれ一箇所を指摘することができる。
歌自体ではなく、歌どうしの配列に情報が潜められているのであり、しかもそれぞれの仕掛けは、大伴旅人または旅人周辺の人物の立場に沿って組み立てられている。
……
(『日本古典と感染症』ロバートキャンベル編著 角川ソフィア文庫 令和3年)
太宰治の短編『燈籠』について堤重久氏の『恋と革命 評伝・太宰治』(絶版?)より一部転記しますφ(..)
なお『正義と微笑』は堤重久氏の弟前進座俳優の堤康久が16歳から17歳のころに書いた日記をもとに書かれた作品です。

「正義と微笑」のころ―芸術家・太宰治の使命―〟(太宰治文学サロン この展示は終了しています)
 1――幸福な結婚
 小市民生活を鋭く見つめた作品


……(『姥捨』『満願』)これより半年以上も前にかかれた『燈籠』は、原稿十五、六枚の小品でありながら、そうして今までほとんど問題にされなかったにもかかわらず、その内容において、その構成において、その含むところの倫理観において、初期と中期を劃する小傑作でもあるのである。……

 優しさに満ちあふれた小品

……幼少年期の諸不幸も、青年期の無数の失態も、その一切が太宰にとっては、文学の栄養となっていると思えるほどである。
そうしてさらにみごとな末尾の数行は、太宰自身の生活のあり方も含めて、中期の全作品の根本の態様をを示唆したものである。……
(『恋と革命 評伝・太宰治』堤重久 講談社現代新書 昭和48年)
 燈 籠

 言へば言ふほど、人は私を信じて呉れません。
逢ふひと、逢ふひと、みんな私を警戒いたします。
ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていつても、なにしに来たといふやうな目つきでもつて迎へて呉れます。
たまらない思ひでございます。
(『太宰治全集第二巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)
 もう、どこへも行きたくなくなりました。
すぐちかくのお湯やへ行くのにも、きつと日暮をえらんでまゐります。
誰にも顔を見られたくないのです。
ま夏にじぶんには、それでも、夕闇の中に私のゆかたが白く浮んで、おそろしく目立つやうな気がして、死ぬるほど当惑いたしました。
きのふ、けふ、めつきり涼しくなつて、そろそろセルの季節にはひりましたから、早速、黒地の単衣に着換へるつもりでございます。
こんな身の上にのままに秋も過ぎ、冬も過ぎ、春も過ぎ、またぞろ夏がやつて来て、ふたたび白地のゆかたを着て歩かなければならないとしたら、それは、あんまりのことでございます。
せめて来年の夏までには、この朝顔の模様のゆかたを臆することなく着て歩ける身分になつてゐたい、縁日の人ごみの中を薄化粧して歩いてみたい、そのときのよろこびを思ふと、いまから、もう胸がときめきいたします。
 盗みをいたしました。
それにちがいひはございませぬ。
いいことをしたとは思ひませぬ。
けれども、――いいえ、はじめから申しあげます。
私は、神様にむかつて申しあげるのだ、私は、人を頼らない、私の話を信じられる人は、信じるがいい。
  私は、まづしい下駄屋の、それも一人娘でございます。
ゆうべ、お台所に坐つて、ねぎを切つてゐたら、うらの原つぱで、ねえちやん! と泣きかけて呼ぶ子供の声があはれに聞えて来ましたが、私は、ふつと手を休めて考へました。
私にも、あんなに慕つて泣いて呼びかけて呉れる弟か妹があつたならば、こんな侘しい身の上にならなくてよかつたのかも知れない、と思はれて、ねぎの匂ひの沁みる眼に、熱い涙が湧いて出て、手の甲で涙を拭いたら、いつそうねぎの匂ひに刺され、あとからあとから涙が出て来て、どうしていいかわからなくなつてしまひました。
  あの、わがまま娘が、たうとう男狂ひをはじめた、と髪結さんのところから噂が立ちはじめたのは、ことしの葉桜のころで、なでしこの花や、あやめの花が縁日の夜店に出はじめて、けれども、あのころは、ほんたうに楽しゆうございました。
水野さんは、日が暮れると、私を迎へに来て呉れて、私は、日の暮れぬさきから、もう、ちやんと着物を着かへて、お化粧もすませ、何度も何度も、家の門口を出たりはひつたりいたします。
近所の人たちは、そのやうな私の姿を見つけて、それ、下駄屋のさき子の男狂ひがはじまつたなど、そつとそつと指さし囁き交して笑つてゐたのが、あとになつて私にも判つてまゐりました。
父も母も、うすうす感づいてゐたのでせうが、それでも、なんにも言へないのです。
私は、ことし二十四になりますけれども、それでもお嫁に行かず、おむこさんも取れずにゐるのは、うちの貧しいゆゑもございますが、母は、この町内での顔ききの地主さんのおめかけだつたのを、私の父と話合つてしまつて、地主さんの恩を忘れて父の家へ駈けこんで来て間もなく私を産み落し、私の目鼻立ちが、地主さんにも、また私の父にも似てゐないとやらで、いよいよ世間を狭くし、一時はほとんど日陰者あつかひを受けてゐたらしく、そんな家庭の娘ゆゑ、縁遠いのもあたりまへでございませう。
もつとも、こんな器量では、お金持の華族さんの家に生れてみても、やつぱり、縁遠いさだめなのかも知れませんけれど。
それでも、私は、私の父をうらんでゐません。
母をもうらんで居りませぬ。
私は、父の実の子です。
誰がなんと言はうと、私は、それを信じて居ります。
父も母も、私を大事にして呉れます。
私もずゐぶん両親を、いたはります。
父も母も、弱い人です。
実の子の私にさへ、何かと遠慮をいたします。
弱いおどおどした人を、みんなでやさしく、いたはらなければならないと存じます。
私は、両親のためには、どんな苦し淋しことにでも、堪へ忍んでゆかうと思つてゐました。
けれども、水野さんと知り合ひになつてからは、やつぱり、すこし親孝行を怠つてしまひました。
(『太宰治全集第二巻』太宰治 筑摩書房 昭和50年)

つづく…