2021年7月16日金曜日

今朝も雨だったけど…

起きたら今朝も雨…
しばらくすると止んでくれました。
歩いているときは、そんなに暑くなかったけど、これから一気に気温が上がりそう…

関東甲信と東北が梅雨明け いずれも平年より早く 熱中症注意」(NHK)
梅雨の末期は大雨になりがちです。
明日17日は、 
紀州大水害から68年 小学校で慰霊祭 和歌山 有田」(関西NHK)

有田川氾濫 失った夏」(朝日新聞和歌山 2018年1月5日)
 1953(昭和28)年、7月17日から18日にかけて梅雨前線による豪雨が県内を襲った。
1046人の死者・行方不明者を出した紀州大水害(7・18水害)だ。


梅雨の終わりに大雨が降るのはなぜ?」(ニッケイ 子どもの学び 2016年7月12日)
祇園祭にかかせないヒオウギが咲いていました。

第2章 「花の都」の光と影
 祇園社と祇園御霊会


 祇園祭の前身は、平安中期にはじまる御霊会の一つである(以下祇園御霊会、また祇園会<ぎおんえ>という)。
八坂(やさか)神社の名は明治元年(1868)の神仏分離に際してつけられたもので、この地がかつて愛宕郡八坂郷に属していたことにちなむ。
それ以前は祇園社、神社に付属する寺を祇園感神院(かんしんいん)と称していた。
感神院は10世紀中ごろまでは、清水寺とともに、奈良興福寺の末寺だったが、天徳3年(959)、清水寺との間に紛争を生じ、そのことがきっかけで延暦寺の末寺化した。
以後それが長く続く興福寺と延暦寺の確執・抗争の一因となってゆく。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
  本来の祭神は疫神であり、かつ疫神を除く神でもある牛頭天王(ごずてんのう)
草創の時期は9世紀後半ごろらしいが、延喜20年(920)に、右大臣藤原忠平が流行の「咳病(がいびょう<せきの出る病気>)」を除去すべく、祇園社に幣帛(へいはく<神に供える麻の布>)と走馬(はしりうま<競馬(くらべうま)に用いる馬>)を奉納したことが知られる。
当時はまだ、八坂郷の鎮守程度の存在だったらしい。
それが御霊信仰の広まりにつれて、人びとの期待を集め、祇園社での祭礼も盛んになった。
  祇園祭といえば、豪華絢爛な山鉾(やまほこ)巡幸やその前夜祭である宵山(よいやま)に関心が集まりがちだが、神社の内外で、7月いっぱいかけておこなわれる一連の行事・風習全体が祭である。
関西の梅雨明け日の平均は7月21日であるが、それまでの蒸し暑さや長雨による水害は、疫病の原因になる。
祇園御霊会の中心は、神霊の乗物たる神輿が京内を巡行する行事である。
これを神輿渡御(とぎょ)といい(図2-5<略>)、平安期には山鉾巡行はまだなかった。
 祭礼区域(氏子地区)を巡るため、神社を出た神輿が、一時安置される場所のことを御旅所(おたびしょ)という。
現在の御旅所は四条寺町の一つだけだが、かつては旧暦の六月四日(現7月17日)の夕方、祇園社を出た三基の神輿のうち二基が大政所(おおまんどころ)御旅所(高辻東洞院)、一基が少将井(しょうしょうのい)御旅所(冷泉東洞院)に渡る(図1-1参照<略>)。
これを神輿迎え(現神幸祭)といい、七日の間御旅所にとどまった神輿が、六月十四日(現7月24日)の夕刻、祇園社に還ることを還幸(かんこう<現還幸祭>)といった。
還幸はまた祇園御霊会・祇園会ともいった。
  祇園社側の史料によれば、大政所御旅所の敷地は天延(てんえん)2年(974)、少将井御旅所の敷地は保延(ほうえん)2年(1136)、祇園社に寄付されたという。
だが御旅所は、南北朝期までは祇園社のものではなく、祇園の祭神を平安京の住人が主体となって迎え祭るための場であり、神主も祇園社のたんなる出先機関ではなかった。
右のような神輿渡御の形式は、遅くとも12世紀前半には成立していたのだろう。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
 「昭和二十一年九月 貞恵三回忌に」と記された「吾亦紅」を転記しますφ(..)
なお、先日紹介した「葡萄の朝」もこの「吾亦紅」の中の一編です。
 吾亦紅
  マル


 マルが私の家に居ついたのは、昭和十一年のはじめであつた。
死にさうな、犬が庭に迷ひ込んで来たから追出して下さいと妻はある寒い晩云つた。
死にはすまいと私はそのままにしておいた。
犬は二三日枯芝の日だまりに身をすくめ人の顔をみると脅えた目つきをしてゐたが、そのうちに元気になつた。
鼻や尻尾に白いところを残し、全体が褐色の毛並をしてゐる、この雌犬は人の顔色をうかがふことに敏感であつた。
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)
 その春、私たちは半月あまり家をあけて、帰郷してゐたが、千葉の家に戻つて来たのは夜更であつた。
木戸の方から、生ひ繁つた雑草を踏んで戸袋のところの南京錠をあけようとしてゐると、何か私たちの足もとに触はつたものがある。
「マル」と妻は感動のこもつた声を放つた。
烈しい呼吸をつきながらマルは走り廻るのであつた。
  秋になると、マルはもう母親になつてゐた。
芙蓉の花の咲誇る下で仔犬と戯れ合つてゐる姿は、いかにも満ち足りたものの姿であつた。
ところが間もなく、マルは犬獲りに攫はれて行つた。
燐家の細君と私の妻とは、蘇我といふ所の犬獲りの家を捜しあて、漸く無事に連れ戻つた。
すると、その燐家の子供は、戻つて来たうれしさに、いきなりマルの乳を吸つてみたのである。
うそ寒い夕方、台所の露次で、他所の犬が来て、マルの乳を吸つてゐることもあつた。
「をかしな犬」と妻はあきれた。
 翌年の寒中のことであつた。
マルは他所の家の床下に潜り込んだ儘、なかなか出て来ようとしなかつた。
その暗い床下からは、既に産みおとされた仔犬の啼声がきこえてゐた。
四五日して現はれたマルの姿は、ひどく変りはててゐた。
子宮が外部に脱出してしまひ、見るも痛々しげであつた。
マルは苦しさうに眠りつづけた。
今度はもう死ぬるかと思はれたが、そのうちにまた歩きだすやうになつた。
胯間に無気味なものをぶらつかせて、のこのこ歩く姿は見る人の目を欹だたせたが、マルの目つきも哀れげであつた。
 その年の秋、私の家の前に小林先生が移転して来た。
その新婚の細君と私の妻は、すぐに親しく往来するやうになつた。
マルの姿は先生の注意をひいた。
「いつか手術してやる」先生はその細君に漏らしてゐたのである。
 マルが手術されたのは、翌年の春であつた。
恰度、旅から帰つて来た私は、玄関先に筵を敷かれて寝そべつてゐる姿を認めた。
留守の間に、小林先生の細君と私の妻は、マルを医大に連れて行つたのであつた。
「それは大変でしたよ」と妻は浮々した調子でその時のことを語つた。
自動車に乗せて、大学の玄関まで運ぶと、そこに看護婦が待伏せてゐて、板に縛りつける。
無事に手術を了へると、マルは、牛乳やらビスケツトやらで歓待されたのである。
(もつと細かに、面白げに、妻は私に話してくれたのだが、今はもう細かな部分を忘れてしまつた。今になつて思ふと、妻は私にそのことを面白く書かせようと考へてゐたに違ひない。)
  手術後のマルはあの醜いものを除かれて、再び元気さうになつた。
だが、歳月とともに、この犬の顔は陰気くさくなつて行つた。
自転車に乗つた人を見るたびに火のついたやうに吠え猛つた。
ある日、妻がお茶の稽古から帰つて、派手なコートの儘、台所の七輪を弄つてゐると、ふとマルが鼻を鳴らしながら近づいて来る。
珍しく甘えるやうな仕草で、終にはのそのそと板の間に這ひ上つて来るのであつた。
どうしたのだらうと私たちは不審がつたが、妻はお茶の師匠の処でそこの小犬を一寸撫でてやつたことを思ひ出した。
  マルは翌年の秋、死んだ。
あまり吠えつくので、誰かが鉄片を投げつけたらしく、その疵がもとで、犬はぽつくり死んだ。
恰度、私の妻は最初の発病で、入院中であつた。
茫とした国道の裏にある、小さな病院の離れで、妻は顔を火照らしながら、ひどく苦しさうであつた。
その病院から、ほど遠からぬ荒れはてた墓地の片隅に、マルは埋められた。
(小林先生はマルを手術した翌年、本町の方へ転宅した。だが、その後も私の妻と先生の細君とは仲よく往来してゐたし、妻が病気してから他界する日まで絶えず私たちは先生のお世話になつてゐた。)
(『定本原民喜全集Ⅱ』編集委員 山本健吉・長光太・佐々木基一 青土社 1978年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v
アオノリュウゼツランを写していました(公園の花情報)。
検索していると父の故郷の新聞に記事があったので印刷してあげました。
別の場所ですが、母と来ていた時にも咲いてました。

創立60周年を前にアオノリュウゼツラン開花」(奄美新聞 7月6日)

アオノリュウゼツラン開花」(奄美新聞 4月13日)