2021年4月5日月曜日

卯の花も咲いたのだけど…

昨夜は、雷が鳴っていました。
今朝は、スッキリと晴れることはなく曇り空。
公園では、卯の花(ウツギ)が咲いていました。
夏の花なんだけど、 今朝は寒かったなぁ…
 キランソウなんだけど数がいっぺんに少なくなった。
そばを見るとポッカリ円く穴が二つあいている。
誰かがごっそり持って行ったようです。
昨夜の情熱大陸「一目千本! 世界に誇る吉野の桜を守る男たち
あの吉野山の桜をたった三人で守っているのに驚きました。
何度か訪れている吉野の桜を守ってくれている桜守に感謝です。
そしていつか桜の時期は無理でも訪ねたいです。

桜は、人の手で守ってあげないとてんぐ巣病や、クビアカツヤカミキリなどの害虫で枯れてしまいます。
第4章 山の桜
 一本だけでは種子ができない


 受粉は、桜のように他家受粉で繁殖するシステムをもつ植物にとって、きわめて重要である。
しかし、植物は他にも様々な繁殖システムをもっており、イネのように自家受粉をおこなうものもある。
タンポポのように無性配殖といって、受粉すらせずに自分とまったく同じ遺伝子をもつ種子をつくる場合もある。
種子だけではなく、イモやムカゴといった栄養価が高い植物体の一部に再生能力をもたせ、新たな株をつくる栄養体繁殖という方法もある。こうした繁殖方法をとることも不可能ではないのに、どうして他家受粉をおこなう植物は、わざわざ別の固体から花粉をもらうのであろうか。
(『 桜 』勝木俊雄 岩波新書 2015年)
  他家受粉のシステムは、多様な遺伝子をもつ集団を維持し、様々な環境への適応性を高める効果が高い。
一方、自家受粉などによって自分と同じ遺伝子をもつ子どもを増殖させるシステムは、生育している環境に適応した個体が急速に増殖することには適しているものの、環境が変化したときに適応できない危険性をもつ。
このため、長期間で見た場合、他家受粉による繁殖方法をもつ種は、絶滅するリスクが低くなると考えられている。
ただし、他家受粉をおこなう個体数が多い集団は多様な遺伝子を保有することになり、その中には生存戦略的には不利な遺伝子も低頻度で混在するようになる。
例えば、八重咲きのような遺伝子は、どちらかといえば不利な遺伝子であり、人が変わった形をしたものを好んで増殖するからこそ、見ることができるのである。
本来の野生集団では、子孫を残す能力が低くなる遺伝子は、遺伝子を次世代に残せず、淘汰される。
 ところで、花粉はどれぐらい遠くまで運ばれるのであろうか。
一般に風媒の花粉を比べると、虫媒の花粉が運ばれる距離は短いと考えられている。
桜の場合でも、多くの交配は数十メートルぐらいの範囲内で起こっていることが確認されている。
ただし、100メートルを超える範囲で運ばれることも同時に確かめられており、歩くことのできない植物にとっては種子散布とともに重要な移動手段となっていると考えられている。
サクラを生き物の集団として見る場合、交配可能な個体がどのような範囲に存在するのかは重要である。
種子散布の距離も関係してくるが、数百メートルぐらいの範囲にいる同種のサクラの個体群は、互いに血縁関係にある集団であると推測される。
したがって、こうした集団の個体は、形態の変異があっても、それはいわゆる個体差となる。
  多くの桜は自家不和合性という性質をもっており、自分と同じ遺伝子をもつ花粉は受粉せず、他家受粉をおこなって結実する。
S遺伝子といわれる遺伝子が、雌しべと花粉にそれぞれ特有のタンパク質を作り、雌しべと同じ遺伝子から作られたタンパク質をもつ花粉が花柱内で伸びようとしても、途中で伸長が停止する。
同じ固体内での受粉、つまり自家受粉を起こさないようにしているのである。
こうした自家不和合性をもつ植物では、近くに花粉をもらう別個体がいないと、受粉せず、結実しないことになる。
バラ科の植物は自家不和合性をもっているものが多いため、リンゴやナシのようなバラ科の果樹では確実に結実させるため、違う種類の花粉を人為的に受粉させる人工授粉をおこなうことも多い。
俗説で‘染井吉野’に果実ができないといわれる現象も、この自家不和合性が関係している。
町中では‘染井吉野’だけが植えられている場所が多いため、結実することができないと誤解されたのであろう。
(『 桜 』勝木俊雄 岩波新書 2015年)
昨日の原武史さんのTwitterに

今日の午後7時からのNHKニュースを見て、NHKがオリンピックに異を唱えてはならない空気を作り出そうとしていると感じた私は非国民?

私も
競泳 池江璃花子が東京五輪代表に内定 メドレーリレーで」(NHK 4月4日)
などを見ていて、
池江璃花子さんが選ばれるまでの努力を見聞きしているので感動しました。
それでも、オリンピックで池江選手が感染するリスクを考えるとオリンピックは中止すべきだと思っています。
以前の記事の中で、小林秀雄、石川淳、林達夫の評論などを転記しました。
三人について加藤周一さんが『日本文学史序説(下)』の中で書かれています。
「非国民」という言葉が人びとを言論を封じていた時代。
第十一章
 三つの座標


 第一次世界戦争後、「大正教養主義」とマルクス主義の流行のなかで、二〇代の青春を送り、軍国主義と太平洋戦争の時代に、壮年期を過ごしながら、流れに抗して、大勢に順応することを拒否し、一貫して自己の立場に徹底したのは、林達夫(1896~1984)と石川淳(1899~1987)と小林秀雄(1902~83)である。
彼らは時代に流されなかったから、かえって深くその時代を代表していた。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
  西洋志向型の「大正教養主義」は、林達夫においてもっとも徹底している。
22歳の青年林は、漠然と流行に従ってではなく、明瞭に意志的な選択として、徳川時代の「美的生活」と感覚的・情緒的な刹那主義、その代表的な表現である歌舞伎劇を捨て、知的・意志的な面を含めての人間の表現へ向って、西洋の芸術と思想の歴史を採った(「歌舞伎劇に関するある考察」、1918)。
歌舞伎とその世界を知らなかったからではなく、「わたくしのうちの歌舞伎劇を愛せむとする心」(同上)にもかかわらず、敢えてその態度を選んだのである。
その選択は生涯を決定した。
彼はその後二度と歌舞伎や徳川時代や日本文化史について語らず、「みやびなる宴」(1927)から「精神史」(1969)に至るまで、ワトオやヴェルレーヌやドゥビュシーの世界を語り、イタリア文芸復興期の象徴体系の精神史的意味について書くだろう。
またたとえば、ベルクソンの『笑 Le Rire』を訳し(1938)、38年後に改訳して新たな註釈を加え(1976)、その「あとがき」にベルクソン以後の「笑」についての仏英独語の文献を要約して、フロイトからレヴィ=ストロース(ベルクソンのトーテミスム解釈への言及)に及ぶ。
「あとがき」は、またベルクソンの『笑』が、モリエールの喜劇を踏まえ、ラブレーの「洪笑」を含まぬことを指摘して、ベルクソンの哲学とラブレーの笑いの関係を論じるが、ベルクソンおよびそれ以後の笑いの理論と徳川時代の川柳・狂歌・滑稽小説における笑との関係については、触れていない。
  アンドレ・ジッド(『背徳者 Immoraliste』、『法王庁の抜け穴 Les Caves du Vatican』の訳者石川淳は、また和漢の古典、殊に徳川時代の文芸に通じていた。
文人画を論じ(「南画大體」1959)、江戸の職人・医者・俳人・詩人などの小伝を作り(『諸国畸人伝』1957)、『雨月物語』を現代語に訳した(『新釈雨月物語』1953~54)。
伝記にはまた『渡辺崋山』(1941)があり、古典の現代語訳は『古事記』にも及ぶ(『新釈古事記』1961)、すなわち必ずしも西洋志向型の教養を背景にしない。
その意味では、同世代および以後の小説家たちによりも、芥川に似て、芥川を抜くというべきだろう。
  小林秀雄は、フランスの19世紀および同時代の文学(ランボー、ヴァレリー、ベルクソンなど)に学ぶことから出発したという点で、西洋志向型の教養主義を背景としていた。
しかし林達夫のように西洋思想そのものの研究に向かうよりも、彼自身の問題を解くのに有効な知的道具をそこに借りようとした。
彼の問題は、思想と人間、表現と人生、あるいは精神と「肉体」の関係の微妙なつり合いであり、フランスの「象徴派」とその周辺の仕事は、そういう問題への洞察を鋭くするために役立ったにちがいない。
小林は文芸批評家として活動したが、根本的には常に同じ問題を同じ立場から論じるのに、対象を文芸に限らず、西洋にも限らなかった。
モーツァルト(「モオツァルト」1946)からゴッホ(『ゴッホの手紙』1949~52)まで、実朝(「実朝」1943)から本居宣長(『本居宣長』1965~77)まで創造的な「天才」を語ることで、小林秀雄は常に自分自身を語っていた。
決して日本の歴史を語らなかった林達夫とは大いに異なり、またその生き方と文章に江戸文化の呼吸を継承した石川淳の場合とも大いに異なる。
江戸文化はそのまま今日の工業社会に生かすことができない。
それを生かす工夫は、石川のフランス文学との接触と無関係ではなかったろう。
「大正教養主義」は、林・石川・林の出発点にあった。
しかしその後の西洋文化に対する態度は、三つの異なる方向に進んだ。
西洋思想史の内側からの理解に徹底して普遍的なるものに到達するか、深く肉体化された日本の文化的伝統を接するかぎりでの西洋文化とつり合せるか、二つの文化の対立を自己内面の問題に還元するか。
――いずれにしても、西洋崇拝は、この三人の場合には、全くなかった。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)

つづく…