今朝は風が心地よくなりました。
ムギワラトンボが現われると夏が来たと思いますね…
ちりて後おもかげにたつぼたん哉ムギワラトンボが現われると夏が来たと思いますね…
[訳]散って後、その姿があらわれる、ぼたんの花よ。
[解]別離した女性を散る牡丹に喩(たと)えた作。咲いているときは何気なく見ていた牡丹だが、散った後に、華やかさとはかなさが心に甦ってくる。
(『蕪村句集 現代語訳付き』玉城 司訳注 角川ソフィア文庫 2011年)
私にはクラウン( clown<道化師> )に見える。
道化師はシェクスピアの劇にも登場するとか(読んだのに忘れている(^^ゞ…)
筑摩書房のTwitterに
本日4/23はウィリアム・シェイクスピア没後405年の命日。
ちくま文庫で1996年から刊行を開始した松岡和子個人全訳『シェイクスピア全集』全33巻が、5/12発売の『終わりよければすべてよし』をもってついに完結します!
日本でのシェイクスピア劇個人全訳は3人目の偉業。
全巻セット予約も受付開始!!
田中均さんのTwitterに
緊急事態宣言が25日から5月11日まで発令されるという。
長い期間を想定すると国民が持たないとか、経済への影響が大きすぎるなどと言うが本末転倒。
100名以下になるまで耐え、その後ワクチン接種で収束させれば経済は急回復する。
専門家は声を大にしてほしい。
五輪ありき、選挙ありきが日本を蝕む。
内田樹さんのTwitterには
ワクチン100人当たりの接種者数で日本は1.7人。
世界116位。ベラルーシよりボツワナよりラオスよりミャンマーより下です。
もちろん先進国最下位。
この不手際について、日本政府は国民に対してまず「段取り悪くてすみません」と一言謝罪があるべきではないでしょうか。
もし「やるべきことを、手順通りにやったらこの結果でした」というのでしたら、日本政府の実務能力は世界100位以下だということになります。
まあ、それくらいなのかも知れないですね。
〝日本へのワクチン供給「協議中」のまま…ファイザーCEOのツイッター 菅首相「めど」と説明〟(東京新聞 4月20日)
(AlbertBourla氏の4月18日のTwitter)
〝「信用できない」「あいまい」ワクチン供給めぐる政治家発言に批判〟(毎日新聞)
坂本史衣さんの4月17日のTwitterに
トイレを素手で掃除するのはやめとけ
と呟いていたのはある会社で「花嫁修業」に素手でトイレ掃除をしているというニュースがあったからだと思います。
そして昨日のニュースに
「下水のウイルス調査で感染把握」(関西NHK 4月22日)
感染した人の便には感染直後からウイルスが含まれているということで、製薬会社などは、
下水のウイルス調査のほうが感染者数の集計よりもより早く正確に感染状況を把握できるとしています。
「新型コロナは世界をどう変えるか 下水道もベランダも感染症で生まれた」(Newsweek日本版)
4月23日緊急事態宣言が25日から5月11日まで発令されるという。
長い期間を想定すると国民が持たないとか、経済への影響が大きすぎるなどと言うが本末転倒。
100名以下になるまで耐え、その後ワクチン接種で収束させれば経済は急回復する。
専門家は声を大にしてほしい。
五輪ありき、選挙ありきが日本を蝕む。
内田樹さんのTwitterには
ワクチン100人当たりの接種者数で日本は1.7人。
世界116位。ベラルーシよりボツワナよりラオスよりミャンマーより下です。
もちろん先進国最下位。
この不手際について、日本政府は国民に対してまず「段取り悪くてすみません」と一言謝罪があるべきではないでしょうか。
もし「やるべきことを、手順通りにやったらこの結果でした」というのでしたら、日本政府の実務能力は世界100位以下だということになります。
まあ、それくらいなのかも知れないですね。
〝日本へのワクチン供給「協議中」のまま…ファイザーCEOのツイッター 菅首相「めど」と説明〟(東京新聞 4月20日)
(AlbertBourla氏の4月18日のTwitter)
〝「信用できない」「あいまい」ワクチン供給めぐる政治家発言に批判〟(毎日新聞)
坂本史衣さんの4月17日のTwitterに
トイレを素手で掃除するのはやめとけ
と呟いていたのはある会社で「花嫁修業」に素手でトイレ掃除をしているというニュースがあったからだと思います。
そして昨日のニュースに
「下水のウイルス調査で感染把握」(関西NHK 4月22日)
感染した人の便には感染直後からウイルスが含まれているということで、製薬会社などは、
下水のウイルス調査のほうが感染者数の集計よりもより早く正確に感染状況を把握できるとしています。
「新型コロナは世界をどう変えるか 下水道もベランダも感染症で生まれた」(Newsweek日本版)
天武11年(682.6.3) 髪型を男女とも結髪とし、婦女を男夫のように乗馬させる事を定める(紀)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)天武天皇下 十一年四月
(前略)
(23日)乙酉(きのととり)に、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、
「今より以後(のち)、男女(をのこめのこ)悉(ことごと)くに髪結(かみあ)げよ。十二月三十日(しはすのみそかのひ)より以前(さき)に、結(あ)げ訖(をは)れ。唯(ただ)し髪結(あ)げむ日は、亦(また)勅旨(おほみことのり)を待(なぞら)へ」
とのたまふ。
婦女(たをやめ)の馬に乗ること男夫(をのこ)の如(ごと)きは、其(そ)れ是(こ)の日に起(おこ)れり。
(後略)
男女悉くに髪結げよ… 中国の制にならい、男子の髻(もとどり)、女子の垂髪を禁じたもの。女子の場合はこの後十三年閏四月四十歳以上の者については任意とし、朱鳥元年七月には全面的に垂髪に復させた。
婦女の馬に乗ること… 婦人が馬に乗ることは今までにもあったが、中国の風習にならって鞍に跨って乗るようになったことを示す。十三年閏四月、女子四十歳以上に限って縦横自由ということに緩和された。
(『日本書紀(五)』坂本太郎他校注 岩波文庫 1955年)
服装その他の改定
(前略)
夏四月二十三日、詔して、「今後、男女ともみな髪を結い上げることとし、十二月三十日までにあげ終わるようにせよ。ただし髪を結い上げる日は、また勅で示すからそれを待て」といわれた。
婦女が男子のように(中国の風習にならって鞍にまたがって)馬に乗るようになったのは、この日からである。
(後略)
(『日本書紀(下)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)4月23日
文久2年(1862.5.21) 伏見寺田屋に集結した尊攘派鹿児島藩士有馬新七(ありましんしち 38)ら、島津久光の命をうけた同藩士に斬殺される(寺田屋騒動)(維新史料綱要)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)第5章 開国から尊王攘夷へ
薩摩藩兵の上京
(前略)
三月中旬、島津久光(ひさみつ)は、小松帯刀(たてわき)、大久保利通(としみち)らと兵一千余を率いて鹿児島から出発した。
久光の上京を機に、関白九条や所司代酒井を襲撃しようとする有馬新七(ありましんしち)ら諸藩の尊王攘夷派が、伏見の寺田屋で蜂起を計画した。
朝廷と雄藩による幕政改革をねらう久光は、入京後の四月二十三日に鎮静のための藩士を送ったが、有馬らが従わなかったため八名が殺害された。
「寺田屋事件」である。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年) 阿部正弘(あべまさひろ)と堀田正睦(ほったまさよし)による幕政改革路線を弾圧した井伊政権に対する反撥(はんぱつ)が、全国に広がっていた。
九州や西日本各地の草莽(そうもう<在野の志士>)、小河一敏(おごうかずとし)や平野国臣(ひらのくにおみ)、真木和泉(まきいずみ)らが同志を糾合(きゅうごう)して運動をはじめていた。
久光や大久保は、藩の運動を妨げるものとしてこれを弾圧したのである。
長州藩の久坂玄瑞(くさかげんず)が、長井雅楽(ながいうた)の航海遠略策の政略に反対するなかで、「諸侯恃(たの)むにたらず、公卿恃むにたらず、草莽志士糾合、義挙の外にとても策これなき事」と、藩主も貴族も乗り越えた草莽蜂起を唱えたのはよく知られている。
安政の大獄が起きた際に、同じ長州藩の吉田松陰が唱えた「草莽崛起(そうもうくつき)」の思想である。
藩の運動は組織の戦いであるから、それに飽きたらない志士が登場するのは当然といえば当然である。
草莽の志士たちは、脱藩した藩士や浪人、豪農豪商出身者など、人も運動もじつに多様であった。 久光が瀬戸内海を上京しているころ、土佐藩の郷士身分の豪商の次男、坂本龍馬(さかもとりょうま)も、多くの草莽のように脱藩していた。
しかし、龍馬は京都の寺田屋蜂起には加わらず、下関から薩摩へと反対方向へ向かう。
やがて京都には寄らずに江戸へ入り、龍馬が「日本第一の人物」と心酔した勝海舟(かつかいしゅう)と運命的な出会いをする。
草莽の、すそ野の広い多様な運動は、実際は、単純には論じられない。 見逃されがちだが、尊王攘夷ではない、龍馬のような開国派の草莽の運動も、じつは無数なのである。
寺田屋事件で血の雨が降り、龍馬が九州をゆっくりまわるころ、長州藩の尊王攘派であった高杉晋作は、欧米列強の居留地で、中国の太平天国(たいへいてんごく)軍が迫る上海へ渡るために長崎にいた。 こうして、入京した久光は、ためらう近衛らに対して、多人数の家来のなかには「偏固短慮の者」もいる、いつ「暴発」するか懸念至極と、自身が弾圧したばかりの尊攘激派の「暴発」を十分に利用した発言をする。
「暴発」する危険の存在が必要であったのである。
(『日本の歴史18 開国と幕末変革』井上勝生 講談社学術文庫 2009年) 今朝の父の一枚です(^_^)v
ナンジャモンジャが咲くのを楽しみにしていました。
なんじゃもんじゃの木
(前略)
鶯宿峠のてっぺんに立っているなんじゃもんじゃの木の下を馬の背にゆられて十九歳の花嫁さんが峠を下りてくる。
美しい花嫁さんは私の母である。
父は左右口村七覚に生まれ小林家の二男坊で山崎龍吉である。
結婚式の当日八ヶ岳方面の開拓地の見分に行くといって出たっきり帰ってこない。
仕方がないので花嫁さんは花婿不在の結婚式だ。
それからおどろくなかれ二月半ぶりに帰って来ての一声が面白い。
今けえったど、と、「ど」に力を入れたそうである。
待つ母もさりながら、待たせる父も何とまあのんびりした良き時代であったことか。
お互いに信じきっていれば一月や二月の音沙汰なしの梨のつぶてでもどこ吹く風のようなものであったらしい。
(後略)
(『青じその花』山崎方代 かまくら春秋社 平成3年)