2021年4月15日木曜日

穏やかな天気になりました

まだ歩き始めは冷たい風が吹いていたけど、途中からポカポカしてきました。
公園の入口にあるメタセコイヤのマツボックリが昨日の強風でいっぱい落ちていました。
火曜日のEテレ2355で「おやすみソング」が流れた後、トビーが

「声の主」、ひとつ物知りになったな。
それにしても、口を開けずに鳴くって…
腹話術みたいなもの?
いっこく堂的なテクニック?


おはよう日本の「世界のメディアザッピング」のコーナー(6時51分頃<21分位>)で
口を閉じて、まるでトランペットのような音を出している女性が紹介されていました!
池田香代子さんのTwitterに

処理水、本当にトリチウムしか含まないのだったら、私は海洋放出許容できる。
常磐ものの魚も喜んでいただく。
でもこの「本当に」が問題で、いくら「本当です」と言ってもおいそれと「そうですか」と応じられないことを東電や政府はしてきたわけで。
科学というより民主主義と、その前提の情報公開の問題



平成15年(2003)4月15日 東京電力、全原発運転停止(トラブル隠し問題を受けた点検・補修による)。
(『日本史「今日は何の日」事典―367日+360日・西暦換算併記―』吉川弘文館 2021年)

福島第一原子力発電所6号機の点検停止について」(東京電力 平成15年4月14日)
今朝のEテレ0655のオープニングで

今日は、「モナ・リザ」や「最後の晩餐(ばんさん)」で有名な、レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生日です。
ちなみに、「モナ・リザ」の「モナ」は夫人という意味で、日本語にすると「リザ夫人」となるんですね。

イタリア盛期ルネサンス

(前略)

 盛期ルネサンス最初の巨匠はレオナルド・ダ・ヴィンチであり、彼は歴史上の誰よりも、いっそう万能の天才に近かった。
彼は自分をまず第一に芸術家と考えていたが、また航空学から動物学に至るすべての分野にわたって、新しい光を投げかけた科学者でもあった。
レオナルドは、芸術を科学的理解の源と考えた。
なぜなら、芸術家とは最もすぐれた観察者であり、自らの見るものの本質的性質を把握し、それによって理解し得たことを他の人々に啓示する人間だからである。
(『美術の歴史』 H.W.ジャンソン著 木村重信、辻 成史訳 創元社 1980年)
レオナルドは、自然界を探査する完璧な道具として、「目」に絶対的な信頼を置いていたので、彼にとって見ることと知ることとは同義であった。
今日の科学者たちは、概してその考えを言語や数学的記号で表わす。
レオナルドの時代にはすぐれた絵が数千の言葉よりさらに価値あるものだった。
レオナルドの素描は、信じがたいほどの勤勉さから生れたものであるが、これが余りにも明快で、生命感に満ちあふれているため、備忘録に描かれたそれを見るとき、たとえ覚え書きが読めなくとも、彼の考えを把握することができるほどである。
 レオナルドは、フィレンツェ郊外のヴィンチの小村の出身で、ヴェロッキオに師事した。
しかし、メディチ家のサークルの持つ、非現実的な観念的な知的領域には、ほとんど関心を示さなかった。
1482年、30歳の時、ミラーノにおもむいて、ミラーノ公のために働いた。
主たる仕事は軍事関係であったが、画家、彫刻家、建築家も兼ねていた。
(後略)
(『美術の歴史』H.W.ジャンソン著 木村重信、辻 成史訳 創元社 1980年)
大田垣蓮月 生方たつゑ

   蓮月尼をめぐる人びと

 蓮月尼は、西賀茂(にしかも)へ移り住んでから庵(いおり)の戸を閉じて、裏側の藪(やぶ)の木戸から出入りしたといわれている。
世間では交際嫌いよ、といわれていたけど、事実はあらゆる階層にわたって「学ぶべきものをもつ人びと」との交際を大切にした。
 学者あり、国士あり、高僧あり、文人、画家、商人、遊女にいたるまでの友があった。
 小沢蘆庵(おざわろあん)には若くして私淑し、上田秋成(うえだあきなり)にも学んだことは前にも記した。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
   橘曙覧(たちばなあけみ)

 曙覧から尼へ送った書簡によれば、
 「みやこの蓮月尼のもとにおくりける文
  よにゆすり聞(きこ)ゆる御名のとどろきは、はやくよりみみつぶるるばかり、うけたまはり侍(はべ)りつるも、いまだ御たいめせし侍らるる事のなきぞくちをしき……お手づくりのきふすひとつはるばるたまはらせたる、ことなる御心よせのほどまことにうれしう
  みるからにまろうどほしくなりにけりひとりゆいれてのむがをしさに」
 とある。
文通のはじめであり、文久(ぶんきゅう)元年九月、伊勢神宮参拝帰途、京都の蓮月尼を訪ねている。
一夜灯をかこんで熱情家である曙覧と、物静かである尼とはどのような文学の交換をしたであろうか。
曙覧五十歳、蓮月尼は七十一歳の秋のことであった。
   税所敦子(さいしょあつこ)

 税所敦子は林左馬大掾篤国(はやしさまだいじょうあつくに)を父として京都鴨川(かもがわ)の東、錦織(にしごり)に生まれた。
十一歳ころから歌道の名家、千種有功卿(ちぐさありこときょう)に和歌を学び、のちに当時歌壇で名の秀でた蓮月尼のもとへ出入りしたといわれている。
薩摩藩士、税所篤之(あつゆき)に嫁し、二十八歳で死別、長男早世。
このさびしさを蓮月尼はよく慰め語り合い、敦子に生きる元気を与えた。
後日、税所敦子が宮中へ出仕したあとも、おりおり蓮月尼を追慕して、人生の奈落(ならく)から救い上げてくれたことへの感謝を語ったといわれている。
   野村望東尼(のむらぼうとうに)

 明治維新の陰に野村望東尼の働きは見逃すことはできない。
望東尼は勤王家であり、文久元年(1861)十一月和宮(かずのみや)御降嫁(こうか)の盛儀を拝すべく、京都へ上ってきている。
その序(ついで)に蓮月尼を訪ねて、その時の模様を門弟にかき送っている。
それによれば、
「此日(このひ)蓮月尼をとひ侍り、たにざく(短冊)三葉ばかりもらひ帰りしかど歌思ひ出(いで)ず、ここになければ書いつけ侍らず、いと面白き歌なり、早よはひ七十五(一の誤りか)なるよしながら、いまだ五十ばかりとも見え侍る、いとうつくしき尼ぞかし、昔いかに花さきし人ならむと思ひやられ侍る」
 とあるから、望東尼は女らしい観察をし、共に尼となっても、かつては美しかった蓮月尼の青春に思いめぐらしたのであろう。
この性格のことなる望東尼と蓮月尼の出会いも興味ふかく、一は勤王の志士とともに血を沸かしついに玄海(げんかい)の孤島の獄舎に幽閉の身となった望東尼と、あくまで表面に出ることなく充実して消極を守った蓮月尼との生のあり方を思わずにはいられない。
一は積極に生きて血を噴(ふ)かす尼と、つつましく優雅にこもって生を終わった尼との対比は、両極のようではあるけれど、純情の一点で結ばれるものの美しさを暗示していないだろうか。
  遊女とのあいだ

 島原(しまばら)の遊女さくら木は和歌をよんだ。
その人が送った手紙に、
「わたしの住居(すまひ)は実にうきつらきながれの里なれば、いつしかとのみ思ふに、うたも手習(てならひ)も出来不申(まうさず)ただ蓮月様のおかげさまばかりにて、」
 とあるのを見れば、このさくら木は蓮月尼によって和歌の開眼(かんげん)をさせられたのであろう。
また、ちか女(じょ)なるものは、のちに長沢伴雄(ながさわともお)の伴侶(はんりょ)となった者であるが、文才があり、
「この尼君は歌まなびのかたにてしたしうむつびしのみならず、ゆゑありてしばしにしごりの里にかりにすみたりし時となりにゐ給(たま)ひければ、いととふかくあひかたらふ中らひとなりにけるを……」
 と書かれてあるから、ここでも蓮月尼はこの遊女に親しくしていたことはわかる。
長沢のかくし妻といわれたちか女は、ある日、切ない事件があって、蓮月尼に剃髪(ていはつ)したいと打ち明けたが、
「尼などになりなさるな。尼になるのは私のような不仕合せなもののすることです」
 と語ったという。
 不幸の自覚から、蓮月尼はおのれの生を展開していった証言を覗(のぞ)かせた一例でもあろう。
   富岡鉄斎(とみおかてっさい)との縁

 鉄斎は京都三条衣棚(ころもだな)の法被商、富岡維叙(これのぶ)の次男であり、通称を猷輔(ゆうすけ)といい、晩年鉄斎と号した。
富岡家は零落し、鉄斎に学問をさせる余裕はなかった。
八歳のころ、西八条六孫王(ろくそんおう)神社の稚子となり、そこで敬神尊王精神を養われた。
 十二歳ごろ、蓮月尼のところに養われ、埴細工(はにざいく)の土運び手伝いをするかたわら学問をした。
碩学(せきがく)を学びえたのも蓮月のおかげである。
梅田雲浜(うめだうんぴん)、春日潜庵(かすがせんあん)と交わり、学び、勤王思想への感化をうけた。
鉄斎に学問をすすめ長崎への遊学を喜んでくれたのも蓮月尼であった。
  のち鉄斎が帰洛(きらく)後、聖護院(しょうごいん)村に私塾(しじゅく)をひらいた。
そこには勤王家の子弟が多く集まっていたが、蓮月尼は、
「あなたは学問で身を立てるべき人です。決して過激な行動はつつしみなさること」
 と折おり注意を与えることをやめなかった。
幕府は、この志士たちを捕縛することにきびしかったけれど、鉄斎は蓮月尼のいましめを守って、ついに事なきを得た。
「何事も御自愛あそばし、御機嫌(ごきげん)よく御長寿あそばし、世のためいなることをなるべきやうにして、心しづかに心長く御いであそばし候やう、ねがひ上(あげ)参らせ候」
 蓮月尼のこの手紙は意味ふかい。
「世のためになることをなるべきやうにして」も「心しづかに」にしても、まさに蓮月尼の人生哲学そのままであった。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
蓮月尼の作品を拾う」は省略します。
橘曙覧が蓮月尼と出会ったときの歌を転記しますφ(..)

  山紫水明処に在りける程なりけり、
  大田垣蓮月尼の急注(きふす)かしくれけるを、
  誤りわりたけるをわびて

ゆく水の ゆきてかへらぬ しわざをば いひてはくゆる 鴨(かも)の川岸(かはぎし)

大田垣蓮月(1791-1875)。幕末の女流歌人。
晩年は尼となり自詠の歌を書いた陶器なども作り、世に賞美された。
〇急注―急須。煎茶を淹れる取手や注ぎ口のついた茶器。
④「悔ゆ・崩ゆ」は掛詞。
〇割ってしまった急須は後悔しても元の姿には返らないことを嘆いている。
(『橘曙覧全歌集』水島直文、橋本政宣編注 岩波文庫 1999年)
今朝の父の一枚です(^^)v

スズメは桜の蜜が目当てでなく、虫を探しに来ています。

望月衣塑子さんの分析が的をえていると思う。

東京は700人超。
とても無理な状況なのは明らかだ。
結局、二階幹事長は五輪中止を決断した勢いで解散か、五輪後の高揚感のあるうちに解散のどちらが勝てるか、天秤にかけているのではないか。


二階氏、東京五輪の開催中止も選択肢 「とても無理と言うならやめないと」〟(東京新聞)

アド・バルーンを揚げて世間の反応を見ていると思う。
だから

二階氏、五輪中止言及は「何が何でも開催かと問われれば、違うという意味」〟(産経新聞)

東京の感染者数は氷山の一角だと思う。
中止が決定されると、延期になった時のように爆発的に増えると思うのだけど…
大阪 新型コロナ 最多1208人感染 3日連続1000人超」(関西NHK)