2021年4月6日火曜日

寒いのか暑いのか…

家を出る時は、風が冷たくて寒かったけど
歩き出してしばらくすると汗が出そうになりました。
でも、休憩で座っていると寒くなる…
まだかなまだかなと見上げていた朴の蕾が開きだしました。
朴の葉には神聖な霊力がそなわっていたそうです。

羽後町では、かつてご飯を包んだホオノ葉を捨てずに、腰に挟んで田植え作業をした。
そうすることで、神聖な葉の霊力と薬効により、腰が痛まないと信じられていたからである。
美郷町堀田では、かつて長雨が止むことを祈って行われる祈願の際、必ずホオノ葉に餅を包んで供えたという。
ホオノ葉は、水をはじく性質があることから、雨をはじき飛ばして晴らそうとしたと言われている

(「樹木シリーズ21 ホオノキ」森と水の郷あきた)

朴といえば坂村眞民の詩が思い出されます。
   朴のこえ

きこえる
きこえる
わたしを呼ぶ
朴のこえが
耳をすまさなくても
きこえる
きこえる
花をひらこうとする
朴のよろこびが
きこえる
きこえる
わたしに語りかける
朴のささやきが
観音のこえのように
風に乗って
きこえてくる

(『坂村真民詩集 詩国 第一集』大東出版社 昭和52年)
 東京新聞編集局のTwitterに

欧米で開発されて接種が進む新型コロナウイルスのワクチンは、病原体に合わせて素早く設計できる新タイプのRNAワクチン。
実は国内でもRNAワクチンの開発が治験直前まで進んでいたが、2018年に国の予算打ち切りで頓挫した。

国産ワクチン、3年前に治験直前で頓挫 東大・石井教授「日本は長年、研究軽視」のツケ今に〟(東京新聞 4月5日)
上野千鶴子さんのTwitterに

ワクチンを100%海外に頼る日本。
GDPは世界3位だが、ひとりあたりGDPは世界25位で、労働生産性は21位。
そして借金大国。
政治が学問に介入する社会。
いつのまにか二流国、三流国に成り下がっているのかもしれない。


岸見一郎さんのTwitterには

「一定の感染リスク」があってもやらなければならないことがあるとは思わない。
僕はこわいです。
こわいといえない社会になりませんように。
 大阪歴史博物館のTwitterに

【きょうは何の日?】
4月6日 < 重要工場等への学徒動員はじまる > 1944年(昭和19)のこと。
太平洋戦争のさなか、中等学校などの生徒が工場や事業所での労働に動員された。
この日、航空機関係の27工場へ約4,200人が動員。
その後、翌年4月にかけて約15万人の男女が動員された。(ふ)


働く子どもたち」(小学6年)
(「第十一章 三つの座標」つづき)

 マルクス主義に対して、林達夫は理論的に接近し、石川淳ははじめから一定の距離を保ちながら関心を示し、小林秀雄は、少なくともマルクス主義に対して激しく批判的だった。
林の理論的接近は、付和雷同でない。
早くも歌舞伎の世界へ訣別したときから、知的生活への、すなわち思想の自由への欲求は、林達夫の裡にあった。
そこから「ヨーロッパにおける宗教的精神の推移と発展」(「三つの指環」1927)のなかで、18世紀合理主義に注目し、エピクロスとルクレティウスからマルクス主義にまで到るところの「戦闘的唯物論」(「唯物論歴史」1950)に注目する。
久野収(「解説」、『林達夫著作集3 無神論としての唯物論』1971)も適切に指摘したように、林のマルクス主義の、少なくとも日本のマルクス主義者のなかでの、独特の内容は、その無神論的な面の強調であった。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)
しかしそれだけではない。
林の独創性は、またその方法にもあらわれていた。
すなわちマルクス主義理論を個別的な状況の解釈に適用するばかりでなく、同時に個別的な場合の緻密で実証的な検討を通じて理論的枠組を批判的に評価するという手続きである。
たとえば見事に美しい論文「社会思想史・中世」(1932~33)は、その典型的な例であった。
「一般的に大局から言われ得ることを、あらゆる個々の場合に適用してはならない」。
その林の言葉は、ほとんどそのまま徂徠の『学則』にも通じるだろう(「業己有物。必徴諸志。而見其殊。以殊相映。而後足以論其世。不爾懸一定之権衡。以歴詆百世。亦易易焉耳。」、『学則』四)。
「社会思想史・中世」は、中世の「インテリゲンチャ」としての僧侶が悉く僧侶階級に奉仕したのではなく、王権に仕えた者もあり、都市ブルジョアジーや平民の政治的立場に立った者さえもあることを示して、「インテリゲンチャ」を一般に支配階級の一部とする見方を駁する。
そのとき林は、中世を語りながら、もちろん現代を語り、「インテリゲンチャ」社会的機能の多様性の事実を確かめながら、本来思想というものの特殊な社会的条件を超えようとする面、すなわち思想の自由の根拠そのものに触れていたにちがいない。
そのことと、「スターリニズム」批判との関係は、密接である。
「冷戦」の時代に、盛んな反共宣伝のただ中で、反共的立場からでなく「スターリニズム」に激しい批判を加え得たおそらく最初の日本人が、林達夫であったのは、偶然ではない。
彼はソヴィエット連邦30年の事実と共産主義の理想とを切り離さずに、「ソヴェト・ロシアによって共産主義を見ることと共産主義によってソヴェト・ロシアを見ることと、この双方ともの操作が重要」であるとした(「共産主義的人間」、1951)。
 マルクス主義の理論は、小説家石川淳をひきつけなかったかもしれない。
しかし「アナキスト」までを含めて社会主義者の運動は、反権力の行動の徹底的な形式として、おそらくこの鋭敏な個人主義者をひきつけたにちがいない。
その三〇年代の小説「普賢」(1936)の主人公の、いくらか超現実主義的な饒舌のなかには、地下活動に入った若い女共産党員の姿があらわれるし、長編『白描』(1939)のなかには、ナチからの亡命建築家夫妻と共に、ソ連から逃げだした女の画家やスターリン粛清された東京在住の新聞記者が登場する。
 「<敵>しかも<ソヴェートの敵>……節操かはらざるこのわたしに向ってスターリンがそれを投げつけて来たのだ。あのレェニンの遺書偽造、遺産横領の犯人スターリンが……」といい、「われわれの流したおびただしい血はいつたいどうなつたのか」という――39年の石川の小説の人物の科白は、後に資料を集めて「共産主義的人間」を書いた林達夫の結論からも遠くなかった。
ソ連邦の現実への幻滅は、林や石川を、おそらく全身の痛みをとおして「イデオロギー」と国家権力とを鋭く引離して考える立場へ導いたのである。
それは一つの「イデオロギー」から別の「イデオロギー」への「転向」ではないし、いわんや、国家権力の一方への加担から他方への忠誠への移行ではない。
林における「思想の自由」、石川における「精神の運動」(「いくさの見かけの波瀾は、精神の運動にとつては、じつは無意味なる平地であつた」、「無尽燈」1946)は、日本の超国家主義との一切の妥協を拒否するものであった。
 小林秀雄は、自己周辺のマルクス主義者たちを、理論と人間との結びつきという一点において、攻撃した。
その結びつきは、浅い。
理論は借りものであり、次々に外国から輸入される流行であって、要するに「様々なる意匠」(1929)の一つにすぎない。
この考え方は、小林自身が渦中にあった両大戦間の日本の文化的状況を、――少なくともその一面において、深く洞察していた。
果して多くのマルクス主義者は、軍国主義の時代が来ると軍国主義に同調し、敗戦後には平和主義者になったのである。
しかし小林は、単に周囲の大勢順応主義を批判したのではなく、生活と思想との密接な結びつきを強調しながら、また独特の美学を作りあげた。
たとえば映画を通じて「精神が全く肉体と化する瞬間」の美しさをオリンピック選手の肉体と動作に見た(「オリムピア」1940)彼は、20年以上経った後にも、オリンピック選手の「表情の簡明、正確、充実には、抗し難い魅力がある」と書いていた(「オリンピックのテレビ」1964)。
「僕等が投げるものは鉄の丸だとか槍だとかに限らない。思想でも知識でも、鉄の丸の様に投げねばならぬ」(「オリムピア」)。
彼のモーツァルトは、音と化した肉体である。
「彼の音楽は、自然の堅い岩に、人間の柔かい肉に、しつかりと間違ひなく密着してゐた」(「モーツァルト」)。
(『日本文学史序説(下)』加藤周一 ちくま学芸文庫 1999年)

つづく
今朝の父の一枚です(^_^)v
私もシジュウカラを写したのですが、ピントも露出も失敗(-_-;)

昨日、ワクチンの予約でセンターに電話をしたのですが、ぜんぜん繋がりませんでした。
住んでいる市の令和元年の70歳以上の人口は3万3千近くいる。
今回、400人以下しか接種を受けることができません。

「(八王子市の)コールセンターでは開始時刻の午前9時になるとともに一斉に電話が鳴り始め、1時間半ほどですべての予約が埋まりました
(「ワクチン 来週から高齢者の接種開始へ 準備状況は…?」NHK4月5日)

昨夜、父が叔母に電話をすると副反応が怖くて申し込んでいないそうです。
今回、受けることができませんでしたが、
接種を受けた方にどれほど副反応があるのか情報提供があるはずです。
それからでも遅くないと思います。