2021年4月14日水曜日

黒い雲が浮かんでいたけど

天気予報では曇り。
それでも昨日より黒い雲が浮かんでいました。
午後から暖かくなるかなぁと思っていたら冷たい風で寒い寒い…
Windowsアップデートのおかげで編集作業ができず
終わったと思ったら重たい重たい
何度か再起動をかけてやっと…
望月衣塑子さんのTwitterに

最悪のセンス。
政府は、国民を舐めてるんでしょうか


「トリチウム」がゆるキャラに? 復興庁「親しみやすいように」原発汚染処理水の安全PR〟(東京新聞)

言い出すだろうなと思っていたけど…

吉村知事、処理水の大阪湾放出「要請あれば真摯に検討」〟(毎日新聞)

大阪の漁民や府民のトリチウムへの懸念を無視して勝手に決めることができると思っているみたい。
「真摯」に向き合うべきなのは

大阪府 コロナ重症患者数が病床数を上回る 医療提供体制深刻」(関西NHK)
今日は、高杉晋作の命日です。

高杉晋作――たかすぎ・しんさく
 維新革命に火をつけた男

(前略)

 慶応3年(1867)4月14日午前2時、晋作は肺結核によって満27歳8ヵ月という短い生涯を終えた。
 死をむかえるにあたって、晋作は辞世(じせい)として「おもしろきこともなき世をおもしろく」と書き、そこで力がつきた。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
  晋作を終生ささえた野村望東尼(のむらぼうとうに)が書き加えた。
「住みなすものは心なりけり」
 それをみて晋作は、「おもしろいのお」とつぶやいて、目を閉じた。
(後略)
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)

望東尼と蓮月尼は出会って親しく歓談しています。
大田垣蓮月 生方たつゑ

   文学への開眼(かいげん)

 養父、西心(さいしん<光古(みつひさ)>)は文雅の心得ふかい人であったから、尼は幼いころからこの父によって和歌の手ほどきを受け、十二、三歳ころすでに詠歌にふけった、といわれている。
家庭の雰囲気が彼女の天成の素地をみがき上げたとも考えられる。
一説によれば七、八歳ごろから亀山(かめやま)城に奥づとめしたともいわれているから、この城内で誰かに教えをうけたのかも知れぬ。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
  また尼が初婚時代、知恩院近くに住んでいたころ、付近に住んでいた上田秋成(うえだあきなり)にまなんだとも思われる。
 蓮月尼が猶子(ゆうし)のようにしていた富岡鉄斎(とみおかてっさい)の語ったところによれば、尼はたしかに上田秋成にまなんだ日をもった。
 しかし尼の和歌から推しはかれば、真葛庵(まくずあん)時代にはさして彼女のひかる作品は見がたく、いわば短歌の類型的なものが多い。
 彼女の特色がかがやき出したのは岡崎へ転居後である。
愛する夫に死なれたあとになる。
「生」のはかなさを芯(しん)から刻みつけた日から彼女の「もののあわれ」の風鐸(ふうたく)はひびきをかなでだしたのであった。
 尼はそのころ、年月不詳であるが、香川景樹(かがわかげき)の門に入っている。
 景樹が門人に詠ませた兼題(けんだい)の天保十年(1839)一月から翌年一月までのものを一冊にした中に、「東塢(とうう)亭月並(つきなみ)兼題和歌」があり、その中に、

   たち込むる霞(かすみ)を分けて思ふどちよはひをのべの小松をぞひく (一月、霞中子日<かちゅうねのひ>

   かへるより又こん秋を松島やなごりをじまの浪(なみ)のおちかた (二月、海上帰雁<きがん>

 の二首が記載されているから、天保十年前には入門しているはずである。
当時、景樹の桂園(けいえん)派調は全国にゆき渡っていたほど盛んであったから、同じ岡崎にすんでいた尼は入門するのは当然であった。
尼の名歌といわれるものの多くが桂園調であり、とにもかくにも和歌に眼(め)をひらかせたのは香川景樹であった。

 また尼は小沢蘆庵(おざわろあん)に私淑(ししゅく)した。

   言(こと)の葉(は)は人の心の声なれば思ひをのぶるほかなりけり

 などは、その影響をうけたことを示すうたであろう。
 文久(ぶんきゅう)元年(1861)、越前の橘曙覧(たちばなあけみ)が伊勢神宮参拝の帰途、尼を訪(おとの)うている。
当時、狷介不羈(けんかいふき)といわれた曙覧がわざわざ尼を訪うには、和歌文学を通じて、何らかの交換があったはずである。
 彼女は多くの人たちから、和歌文学を肥(ふと)らせる種子を受けとる名手であった。
彼女をめぐる人びとの幅ひろい交流から推量すれば、尼としての強靭(きょうじん)な覚悟を根として、すべてはありのまま素直に受容をなしつつ、その素質をかがやかしいものに研(みが)き上げたといってよいであろう。
 蓮月尼の作は純然とした抒情歌(じょじょうか)よりは、生活歌が多く、その中に流れる気息は温和で、控え目で女性らしいふくらみをもっている。
 奔放に恋をうたう女性にはとおく、それらを超えた人生的な「生」と「死」の深さを、しずかな気息でよみ上げている。
 出生の時から人生の悲しみの中にただよい出ていた蓮月尼は、つぎつぎと不幸に遭遇しながら生きた。
この不幸を洗うように剃髪(ていはつ)した尼は、悲しみをのり超えた人だけがもつ静寂を知った。
 はげしいものを内包した静寂であった。
 蓮月尼は不幸の堆積層(たいせきそう)から起(た)って、ひたすらに生きた。
世俗の不幸を押しのけられたのは彼女の根性によるものだけれど、囲(めぐ)る人びとから、数多い文学的貢(みつぎ)をうけたことも考えねばならない。
たとえば三河(みかわ)にあった国学者村上忠順(むらかみただまさ)、橘曙覧、税所敦子(さいしょあつこ)、野村望東尼(のむらぼうとうに)、富岡鉄斎(とみおかてっさい)、与謝野尚綱(よさのひさつな)等から彼女は教えられること多い日をもった。
あるいは栄養を摂取したといったほうがほんとうかもしれぬ。
精神の爆発性はそれによって一層濾過(ろか)された。
仏道によるこころの練達を根とした、文学的指向は、やはり蓮月尼を特色ある位置にすすめたとも言える。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v

私も上の方に咲いているなと思っていましたが、90mmマクロレンズでは遠すぎたので諦めました。
昨日、今日とマクロレンズをぶら下げて歩いているとノンビリ歩けます(^^)v

[ホオ]
 大きな緑の葉、大きな白い花。そして材は堅さが中庸でおおらか。

「日本人として知っておきたい木三〇種」の30番目に選んだ木は朴(ほお)である。
29番目に選んだ桜は、日本の国花であり、日本人が一番好きな花であり、木であるのだが、英語でいえばチェリーである。
ところが朴は日本にだけ存在する木である。
しかも材が緑色がかっている。
葉っぱが緑なのは樹木の通例だが、材まで緑がかっている木は朴以外にまずない。
神代欅(じんだいけやき)という地中に埋まっていた木の中には、緑がかっているものもあるが、生木のときに緑がかっている木は朴だけだろう。
もっとも朴の中にも、ほとんど灰色だったり茶色だったりする木も多い。
さらにまた、伐(き)って間もなくは暗緑色のきれいな色をしていていも、少し時間がたつと色がさめてしまうものも多い。
特に紫外線には弱く、日光の強いところでは黒褐色に色が変わってしまう。
(後略)
(『森の博物館』 稲本正 小学館 1995年)