2021年4月12日月曜日

寒いような暑いような…

朝、出る時は、冷たい風が吹いていましたが、日ざしを浴びると暑くなりました。
キビタキ〔黄鶲〕
 スズメ目ヒタキ科。
全長13.5センチ、体重14グラム位。
日本では主に夏鳥で、四国以北の、主に山地の広葉樹林で繁殖する。
春秋の渡りの季節、特に秋には、平地にもよく現れ、都会や市街地でも、公園や庭など木のある場所ではたびたび見られる。
秋には雌型が多くみられるが、この時期には、その年生まれの若鳥が雌と同様の色彩をしているためである。
ミズキ、アカメガシワなど木の実をよく食べる。
(『野鳥の歳時記4 秋の鳥』日本鳥類保護連盟監修 小学館 昭和59年)
斑鳩[いかる]
スズメ目アトリ科イカル属
学名 Eophoa personata
漢字表記 斑鳩・鵤・桑鳲
全長 23㎝
季節性 留鳥(北日本では夏鳥/南西諸島では冬鳥)

聖徳太子のお気に入り

 「キーコーキー、キーコーキー」という澄んだ鳴き声が夏の森に響きます。
清涼感のある透明な声に、心まで洗われていくようです。
鳴き声の主はイカル。
このさえずりを「月(つき)、日(ひ)、星(ほし)」と鳴きなして三光鳥(さんこうちょう)という俗称でも知られています。
 イカルは、太く大きな嘴(くちばし)が特徴で、ペンチのように強力なその嘴で硬い木の実もバリバリと割って食べます。
明治時代まではマメマワシという異名も使われていましたが、これは木の実を口の中で転がすようにして中のタネを取り出すことに由来します。
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一 ナツメ社 2015年)
 イカルの名は奈良県の斑鳩(いかるが)の里にちなみ、地名が鳥名になった珍しい例です。
しかし、この鳥は奈良県だけでなく北海道から九州までほぼ全国的に分布しています。
なぜこの名で呼ばれるようになったのでしょうか。
 斑鳩の里は法隆寺で知られる聖徳太子ゆかりの土地です。
じつは、イカルは聖徳太子お気に入りの鳥でした。
太子が制定した『十七条憲法』の第一条「和をもって貴しとなす」の文言はイカルの仲睦まじい様子がヒントになったと伝えれているのです。
イカルは繁殖期であっても、群れで仲良く木の実をついばみますので、その様子は一見すると仲良しに見えます。
でも実際には、イカルのなわばりは巣のまわりのごく狭い範囲のため、採食の際には結果的に群れになるというわけです。
 ただ、「斑鳩」はハト類を指すという説や、地名は「いかるが」と読むことから鳥のイカルとは無関係という解釈もあります。
あれこれ推察するのも楽しいものです。
(『日本野鳥歳時記』大橋弘一 ナツメ社 2015年)
 Eテレ0655「おはようソング」の『声の主』にヒヨドリが登場していました。

ヒヨドリ
スズメ目ヒヨドリ科
全長27㎝
ヒヨヒヨ ヒヨヒヨと高い声で鳴きます。
体全体は灰色。
頭には冠のような羽があり、
花の蜜や木の実など甘いものが好きです。
日本中で見られるが、世界的には珍しい鳥。
 体が大きいのでメジロやシジュウカラなどの水浴びと比べると水しぶきが違う(*´▽`*)

さわやか自然百景 選「東京 小金井公園
エナガの巣作りやスズメ、シジュウカラの水浴びの様子が見られます。
ヒヨドリもなかなかのハンターだなと思いました。
見逃し配信が4/18(日) 午前7:59 まで見ることができます。
 若田光一さんのTwitterに

今日4/12はガガーリン宇宙飛行士による人類初の有人宇宙飛行から60周年の記念日です。
人類は地球低軌道から月、そして火星へと活動領域を拡大していきます。
次の60年で、限りない夢を与えてくれる宇宙に我々がどこまで進出しているかを想像するとワクワクします


丸い地球を実際に見た人」(理科)

4月12日 有人宇宙船「ボストーク1号」打ち上げ(1961年)〟(「科学 今日はこんな日」 ブルーバックス編集部)
ユーリー・ガガーリンを凄い人だ思っていましたが、その苦悩を知らずにいました。

 昨日の「天声人語 無念のガガーリン」(朝日新聞 2021年4月11日)に

(前略)
▼今回の取材で、帰還後の人生を描いた評伝や映画にも目を通した。
宇宙時代の英雄として国威を高める広告塔となった後、彼はアルコール依存に苦しみ、夫婦の仲もぎくしゃくしたそうだ。
▼その歩みをたどって浮かぶのは、米ソの宇宙競争でコマの一つとして使われた若者の哀しみである。
米国との先陣争いを制して得意になったフルシチョフは彼に数々の特権を与えたが、続くブレジネフの時代、ガガーリンは軍の一飛行士の扱いに甘んじる。
▼彼の挑戦には敬意を抱く。
とはいえ、為政者が実績を誇るための道具とならざるを得ないのはつらかっただろう。
(後略)

3月27日 ソ連の宇宙飛行士・ガガーリン事故死(1968年)」(「科学 今日はこんな日」ブルーバックス編集部)

オリンピック選手候補のみなさんを見ていると、政治の道具になっているように思うのは間違いだろうか。
大田垣蓮月
                  生方たつゑ
  くらしの火を焚(た)いて

 死別のかなしみは薄らぐこともなかったけれど、ただ一人になった蓮月(れんげつ)尼は真葛庵(まくずあん)を出た。
生活の糧はその日から絶たれるはずであった。
いよいよ瀬戸際になれば、書を習いに来るものの相手もでき、武道も囲碁も師範することができる身であったけれど、謙虚な蓮月尼は人をみちびくということを恥じた。
もう一つは弟子となる人びとに男が多かったこともあって、その生活の方法はさけねばならなかったのである。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
 偶然ではあったけれど、そのころ、知人の老婆が蓮月尼と四方山(よもやま)の話をしていて、
「粟田(あわた)山付近には陶家も多うございます。そちらで土細工でもなされてはいかがです。冬は手が荒れますが、たのしい仕事です。おひとり暮らしの口をしのぐにはことかきません」
 とすすめてくれた。
 陶器をつくる手すさびが、蓮月焼として今ものこされているのはこの老婆の手びきによるものであった。
急須(きゅうす)・茶碗(ちゃわん)に蓮月のうたを刻んだものが、当時の人びとに愛用され、蓮月はようやく生活の安定を得た。
 蓮月尼の陶器の履歴書に、
「陶器は江州(がうしう<滋賀県>)信楽(しがらき)式、土は京都の神楽(かぐら)岡、陶器窯元(かまもと)は三条帯山、五条清水六兵衛(きよみずろくべえ)依頼又は下河原黒田等なり」
 とある。
糊口(ここう)をしのぐ段階から進んで、彼女は芸術品としての陶器へのあこがれを持ったのである。
    信楽の里に冬ごもりして
 夜あらしのつらさのはては雪となりておきて榾(ほた)たくしがらきの里

 とあるから、山のきびし冬も窯たきの労働をあえてして、この窯のもつ不思議な火と土の芸術に身を投入したのである。
 捨て身は道をひらく。
 蓮月尼のこの陶器は人びとに親しまれ、やがて名声高くなると、尼を訪問する人びとが増加した。
身分の高い人もその中にまじっていたが、尼は、世捨て人の私ゆえ、と煩わしいものに思うのであった。
 蓮月尼の宿替えがはじまったのはこのころからである。
尼さまの宿替えは三十四度までは覚えているが、あとは数え切れぬ、という伝説さえのこっているほどであり、

   宿がへといふことをあまたたびいたすとて人の笑ひければ
  うき雲のここにかしこにただよふも消えせぬほどのすさびなりけり

 という歌にあるとおりのくらしであった。
たとえば岡崎聖護院(おかざきしょうごいん)、粟田(あわた)、大仏(だいぶつ)、北白川(きたしらかわ)、下河原(しもがわら)、吉田(よしだ)、洛北(らくほく)の大原(おおはら)、鷹(たか)ヶ峰(みね)の光悦(こうえつ)寺、西加茂(にしかも)の神光(しんこう)院、白川村心性(しんしょう)寺、等々。
 一所不在をそのまま生きた蓮月尼(れんげつに)であったのである。

  明けたてば埴(はに)もてすさび暮れゆけば仏をろがみ思ふことなし

 尼はようやく定着したくらしを持った。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v

カメさんたちがのんびり日向ぼっこをしている前をコサギが優雅に歩いていく(*´▽`*)

コサギ〔小鷺〕コウノトリ目・サギ科
(前略)
コサギは繁殖期になると頭から二本の長い飾羽と肩から背に飾羽が生じる。
北半球の温帯にある日本では、繁殖期が、春から夏の間だから、一般にはよく夏羽と言われたするが、枯れた蓮や蒲の穂とは季節が全々違うのである。
季節によってコサギも姿が違っているのだから、絵を描くときにはそこまで気をつかって描いて欲しいものだ。
(後略)
(『都市のバードウォッチング・バイブル』千羽晋示・柳沢紀夫著 朝日出版 1981年)