土曜日とあって人出が多くイベントも開催されていました。
〝「まん延防止等重点措置」と「緊急事態宣言」どう違う? 政府の思惑と本音は〟(東京新聞 4月9日)
によると、緊急事態宣言はステージ4(感染爆発)相当。
まん延防止等重点措置はステージ3(感染急増)相当だそうですが
現在の方が感染爆発だと思うけどなぁ…
〝宣言解除からわずか3週間…「自粛疲れ」でまん延防止効果どこまで〟(山下真 西日本新聞 4月10日)
「写真家ソール・ライター いつもの毎日でみつけた宝物」
で、初めてソール・ライターを知り、写真集が欲しくなり検索すると
『ソール・ライターのすべて』(左 青幻社)を見つけました。
その時、
『永遠のソール・ライター』(右 小学館)は、残念ながら品切れになっていた。
最近、再放送があってもう一度検索すると、重版されていました。
2冊とも似たような装丁なんだけど、『Forever Saul Leiter』には
妹のDeborahと人生のパートナーSoamesの写真が多く収録されています。
この本を紹介したくなったのは、
〝「撮り鉄」の人気スポットで 私有地の木 何者かに切り倒される〟(NHK 4月9日)
というニュースを知ったからですが、鉄道写真愛好家のみなさんにとって迷惑な話だろうな…
被害にあった女性は、「木は亡くなった夫が植えたもの」といいます。
職場の先輩(Kさん)が鉄道ファンで鉄道写真を撮っておられました。
その頃(30年前かな?)は「撮り鉄」という言葉はなかったと思う。
温厚な先輩は、楽しそうに鉄道写真の楽しさを話してくれていたなぁ…
Eテレ0655で「仮説小学生」が木曜日にあり、
「タンポポの茎、どうしてストローみたいにスカスカなっとんのか?」事件
知らなかったなぁ…
金曜日に1分解説があって、
同じ重さのアルミ棒、アルミパイプを用意して、両方に同じ重さの重りをぶら下げると…
Eテレ2355の「BAR仮説」では、ヒントもないので???のまま終わるのですが(^-^;
「仮説小学生」は、ほぼ答えを教えてくれます。
親が子どもたちに聞かれると困るからかな(*´▽`*)
昭和21年(1946)4月10日 新選挙法による第22回衆議院総選挙(自由141・進歩94・社会93・諸派38・無所属81、女性議員39人)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「女性がの参政権が認められる」(小学6年)
「民主日本の建設に投票を」(NHKアーカイブス 1946年)
衆議院の令和3年4月1日現在、総数465名のうち女性議員46名。
参議院の令和3年4月9日現在、総数243名のうち女性議員55名。 (「運命的な出生」つづき)
誠(のぶ)が十七歳の春であった。
養父の光古(みつひさ)は娘の誠の婿定めに心をつかい、親族関係であった田結荘の子孫、田結荘元造(もとぞう)をむかえることにした。
婿は望古(もちひさ)と名乗って、太田垣家の人に加わったのである。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年) 望古は名門の出であり、誠の聡明で美貌(びぼう)であるのに併せれば人の羨(うらや)むほどの夫婦であるはずであったけれど、馴(な)れると望古は酒色におぼれ、博奕(ばくち)に耽(ふけ)る日がつづいた。
救いがたい荒涼とした日々が、太田垣家をとまどわせた。
誠は、養父がこの荒れた家の中で、じっと耐えていてくれるのが切なかった。
いっそ結婚しなければよかった、とひそかに悔いながら、夜を悶々(もんもん)としたのは幾たびであったであろう。 このような食いちがった者同士であるのに、やがて誠は長男鉄太郎(てつたろう)の母になった。
さすがに望古は父になったよろこびを見せ、当座は殊勝げに家におちついたかに見えたけれど、この鉄太郎が生後二十日余りで死亡すると、望古はこの悲しみを蹴(け)るように、今までより、幾倍もの遊蕩癖(ゆうとうへき)を見せはじめたのであった。
貞淑な誠は土足でふみこまれたような心の傷をかかえて、じっと耐えてしのんだ。
その間も皮肉なことに、つづけて誠は二人の女児をもうけた。
やがては望古もおとなしくわが家におちつく日もあろう、と待った。
律儀な光古(みつひさ)は誠(のぶ)の辛(つら)い思いを見かねて、
「望古(もちひさ)の放蕩(ほうとう)はやみそうもない。いっそ離別してしまったらどうだ」
と誠にすすめるのであった。「これも宿命でございます。望古とて今は二人の女児の父でございます。子供のために、今しばらくこのままにしておいて下さいませ」
と養父に頼むのであった。
煮えたつ思いは涙になって噴き出しながら、誠はその涙が父への嘆願のせいであるような錯覚におちていくのであった。 女としての屈辱に、もうしばし耐えよう。
望古の楽欲(ぎょうよく)の火が消える日まで耐えよう。
誠はつつましい妻として母として生きる以外に道はなかったかのようであった。
それにもかかわらず、また女児が死んだ。
望古へはこれ以上の情けをかけてはならぬ、とする養父光古の意見にしたがって、誠はついに夫望古を、わが身辺から遠ざけて離別の覚悟をかために至った。
傷ついた心は襤褸(ぼろ)にひとしいみじめなものであった。 文化十二年(1815)のある日のできごとであった。
誠(のぶ)はその時に十五歳であった。
この若い寡婦をそのまま捨てておくはずはなく、言いよるものあとを絶たずの日常であったけれど、誠は横暴で無頼な夫から受けた痛傷(いたで)を思うと、男というものへの不信に引き据えられていくのであった。
ふたたび妻となる日など持つまい、と覚悟した誠の心はかたかった。
だが、恩愛をうけた養父、光古は急に老いが目立った。
養父と二人だけのひっそりした暮らしがいつまで平安を保てるかはわからなかったが、せめて誠は老いた父をいたわりつづけていきたかった。 「誠よ、このままで二人のしずかな生活は有り難いが、折角いただいた譜代(ふだい)の御恩命も、このままでは相続者がない限りたえてしまう。この父をあわれと思ってもう一度養子をむかえてくれまいか」
老いた光古の口からこれをきかされると、誠はわがままにそれを一蹴(いっしゅう)するわけにはいかなかったのである。
父への孝養のつもりで、もう一度夫を迎えよう、という決心をするのには、幾夜誠は悩んだことであろう。 結論として、誠は一つの条件を父にむかって出した。
「もし、今度迎えます夫との間に万一不幸がおこりましたときは、この黒髪をふっつりと切らせて下さいませ。その時こそ私が俗を断って生まれかわる時でございますから」
言い終わると、誠はせき上げて泣いた。
おそらく、今度の結婚とて幸せだけではすまされまい、しかし、今は逃げてはならない。
甘んじて、この不幸をうけてみよう。誠は心が決まると、やがて彦根藩士の石川氏の子息重二郎(じゅうじろう)を二度目の養子として太田垣家へ迎えた。
名を古肥(ひさとし)と名乗った。
前の望古(もちひさ)とはうってかわって温厚であり、舅(しゅうと)の光古(みつひさ)によく仕え、ようやく太田垣家にも平和な明るさがかえってきた。
父と婿は二人むつまじく知恩院(ちおんいん)へ出仕する日がつづいた。
誠にもやさしいいたわりを見せ、幸せとはこのような日に感ずるものであろうか、と誠は感謝の思いにひたるのであった。
やがて一人の女児が生まれ、文政三年(1820)9月には光古は安んじて家督を古肥に譲るに至った。 二、三年はこの平穏な幸せがつづいた。
春ごろから疲労を覚えはじめた古肥は痩(や)せが目立ちはじめ、遂には文政六年(1823)六月二十九日この世を去った。
誠はまたこの運命の逆波(さかなみ)をかぶらねばならなかったのである。
誠は愛する夫に回復ののぞみを持てないと知ったあとも、まめまめしく仕え、病革(あらた)まると、美しい黒髪を薙(な)ぎおとし、今こそ俗を断つ決心をしたのであった。
養父との約束どおりであった。
誠ははじめて古肥がわが人生の唯一の愛する男性であったと思った。
悲しい死別のとき、彼女は三十三歳であった。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
で、初めてソール・ライターを知り、写真集が欲しくなり検索すると
『ソール・ライターのすべて』(左 青幻社)を見つけました。
その時、
『永遠のソール・ライター』(右 小学館)は、残念ながら品切れになっていた。
最近、再放送があってもう一度検索すると、重版されていました。
2冊とも似たような装丁なんだけど、『Forever Saul Leiter』には
妹のDeborahと人生のパートナーSoamesの写真が多く収録されています。
この本を紹介したくなったのは、
〝「撮り鉄」の人気スポットで 私有地の木 何者かに切り倒される〟(NHK 4月9日)
というニュースを知ったからですが、鉄道写真愛好家のみなさんにとって迷惑な話だろうな…
被害にあった女性は、「木は亡くなった夫が植えたもの」といいます。
職場の先輩(Kさん)が鉄道ファンで鉄道写真を撮っておられました。
その頃(30年前かな?)は「撮り鉄」という言葉はなかったと思う。
温厚な先輩は、楽しそうに鉄道写真の楽しさを話してくれていたなぁ…
Eテレ0655で「仮説小学生」が木曜日にあり、
「タンポポの茎、どうしてストローみたいにスカスカなっとんのか?」事件
知らなかったなぁ…
金曜日に1分解説があって、
同じ重さのアルミ棒、アルミパイプを用意して、両方に同じ重さの重りをぶら下げると…
Eテレ2355の「BAR仮説」では、ヒントもないので???のまま終わるのですが(^-^;
「仮説小学生」は、ほぼ答えを教えてくれます。
親が子どもたちに聞かれると困るからかな(*´▽`*)
昭和21年(1946)4月10日 新選挙法による第22回衆議院総選挙(自由141・進歩94・社会93・諸派38・無所属81、女性議員39人)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「女性がの参政権が認められる」(小学6年)
「民主日本の建設に投票を」(NHKアーカイブス 1946年)
衆議院の令和3年4月1日現在、総数465名のうち女性議員46名。
参議院の令和3年4月9日現在、総数243名のうち女性議員55名。 (「運命的な出生」つづき)
誠(のぶ)が十七歳の春であった。
養父の光古(みつひさ)は娘の誠の婿定めに心をつかい、親族関係であった田結荘の子孫、田結荘元造(もとぞう)をむかえることにした。
婿は望古(もちひさ)と名乗って、太田垣家の人に加わったのである。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年) 望古は名門の出であり、誠の聡明で美貌(びぼう)であるのに併せれば人の羨(うらや)むほどの夫婦であるはずであったけれど、馴(な)れると望古は酒色におぼれ、博奕(ばくち)に耽(ふけ)る日がつづいた。
救いがたい荒涼とした日々が、太田垣家をとまどわせた。
誠は、養父がこの荒れた家の中で、じっと耐えていてくれるのが切なかった。
いっそ結婚しなければよかった、とひそかに悔いながら、夜を悶々(もんもん)としたのは幾たびであったであろう。 このような食いちがった者同士であるのに、やがて誠は長男鉄太郎(てつたろう)の母になった。
さすがに望古は父になったよろこびを見せ、当座は殊勝げに家におちついたかに見えたけれど、この鉄太郎が生後二十日余りで死亡すると、望古はこの悲しみを蹴(け)るように、今までより、幾倍もの遊蕩癖(ゆうとうへき)を見せはじめたのであった。
貞淑な誠は土足でふみこまれたような心の傷をかかえて、じっと耐えてしのんだ。
その間も皮肉なことに、つづけて誠は二人の女児をもうけた。
やがては望古もおとなしくわが家におちつく日もあろう、と待った。
律儀な光古(みつひさ)は誠(のぶ)の辛(つら)い思いを見かねて、
「望古(もちひさ)の放蕩(ほうとう)はやみそうもない。いっそ離別してしまったらどうだ」
と誠にすすめるのであった。「これも宿命でございます。望古とて今は二人の女児の父でございます。子供のために、今しばらくこのままにしておいて下さいませ」
と養父に頼むのであった。
煮えたつ思いは涙になって噴き出しながら、誠はその涙が父への嘆願のせいであるような錯覚におちていくのであった。 女としての屈辱に、もうしばし耐えよう。
望古の楽欲(ぎょうよく)の火が消える日まで耐えよう。
誠はつつましい妻として母として生きる以外に道はなかったかのようであった。
それにもかかわらず、また女児が死んだ。
望古へはこれ以上の情けをかけてはならぬ、とする養父光古の意見にしたがって、誠はついに夫望古を、わが身辺から遠ざけて離別の覚悟をかために至った。
傷ついた心は襤褸(ぼろ)にひとしいみじめなものであった。 文化十二年(1815)のある日のできごとであった。
誠(のぶ)はその時に十五歳であった。
この若い寡婦をそのまま捨てておくはずはなく、言いよるものあとを絶たずの日常であったけれど、誠は横暴で無頼な夫から受けた痛傷(いたで)を思うと、男というものへの不信に引き据えられていくのであった。
ふたたび妻となる日など持つまい、と覚悟した誠の心はかたかった。
だが、恩愛をうけた養父、光古は急に老いが目立った。
養父と二人だけのひっそりした暮らしがいつまで平安を保てるかはわからなかったが、せめて誠は老いた父をいたわりつづけていきたかった。 「誠よ、このままで二人のしずかな生活は有り難いが、折角いただいた譜代(ふだい)の御恩命も、このままでは相続者がない限りたえてしまう。この父をあわれと思ってもう一度養子をむかえてくれまいか」
老いた光古の口からこれをきかされると、誠はわがままにそれを一蹴(いっしゅう)するわけにはいかなかったのである。
父への孝養のつもりで、もう一度夫を迎えよう、という決心をするのには、幾夜誠は悩んだことであろう。 結論として、誠は一つの条件を父にむかって出した。
「もし、今度迎えます夫との間に万一不幸がおこりましたときは、この黒髪をふっつりと切らせて下さいませ。その時こそ私が俗を断って生まれかわる時でございますから」
言い終わると、誠はせき上げて泣いた。
おそらく、今度の結婚とて幸せだけではすまされまい、しかし、今は逃げてはならない。
甘んじて、この不幸をうけてみよう。誠は心が決まると、やがて彦根藩士の石川氏の子息重二郎(じゅうじろう)を二度目の養子として太田垣家へ迎えた。
名を古肥(ひさとし)と名乗った。
前の望古(もちひさ)とはうってかわって温厚であり、舅(しゅうと)の光古(みつひさ)によく仕え、ようやく太田垣家にも平和な明るさがかえってきた。
父と婿は二人むつまじく知恩院(ちおんいん)へ出仕する日がつづいた。
誠にもやさしいいたわりを見せ、幸せとはこのような日に感ずるものであろうか、と誠は感謝の思いにひたるのであった。
やがて一人の女児が生まれ、文政三年(1820)9月には光古は安んじて家督を古肥に譲るに至った。 二、三年はこの平穏な幸せがつづいた。
春ごろから疲労を覚えはじめた古肥は痩(や)せが目立ちはじめ、遂には文政六年(1823)六月二十九日この世を去った。
誠はまたこの運命の逆波(さかなみ)をかぶらねばならなかったのである。
誠は愛する夫に回復ののぞみを持てないと知ったあとも、まめまめしく仕え、病革(あらた)まると、美しい黒髪を薙(な)ぎおとし、今こそ俗を断つ決心をしたのであった。
養父との約束どおりであった。
誠ははじめて古肥がわが人生の唯一の愛する男性であったと思った。
悲しい死別のとき、彼女は三十三歳であった。
(『人物日本の女性史●第十巻 江戸期女性の生きかた』円地文子監修 集英社 昭和52年)
つづく…
今朝の父の一枚です(^^)v
桜がみごとに咲いているなと話していました。
グレーテルのかまど「大林宣彦の桜あんぱん」を一緒に見ていた妹が、
監督の命日も母さんと一緒なんだなぁと呟いていました。
ナレーション)
2020年4月10日、この日は、最後の作品「海辺の映画館」の公開予定日でした。
この日の朝のことを恭子さんは鮮明に覚えています。
恭子さん)
うちの前の八重桜が満開で、そうなんです。
監督が朝ね。
「今年も(桜が)きれいに咲いたね」
窓から見えるもんですから、ベッドの。
だからその夜、亡くなると、私もほんとうに思ってみなかった。
ナレーション)
満開の桜に見守られて旅立った大林宜彦監督。
母が亡くなった時も寒い春でした。
そのおかげで告別式の時、祭場への道の桜が満開でした。
今朝の父の一枚です(^^)v
桜がみごとに咲いているなと話していました。
グレーテルのかまど「大林宣彦の桜あんぱん」を一緒に見ていた妹が、
監督の命日も母さんと一緒なんだなぁと呟いていました。
ナレーション)
2020年4月10日、この日は、最後の作品「海辺の映画館」の公開予定日でした。
この日の朝のことを恭子さんは鮮明に覚えています。
恭子さん)
うちの前の八重桜が満開で、そうなんです。
監督が朝ね。
「今年も(桜が)きれいに咲いたね」
窓から見えるもんですから、ベッドの。
だからその夜、亡くなると、私もほんとうに思ってみなかった。
ナレーション)
満開の桜に見守られて旅立った大林宜彦監督。
母が亡くなった時も寒い春でした。
そのおかげで告別式の時、祭場への道の桜が満開でした。