2021年4月4日日曜日

清明

空を見ていると大丈夫かなと思ったけど
用心してマクロレンズで出かけました。
すると急に雨が降り出したのですが、すぐに止んでくれました。
今日は「清明(せいめい)」だけど、午後から雨が降って「穀雨(こくう)」(20日)みたいだなぁ。
この記事を書いていると雷が鳴っている。

花などの撮影にするとノンビリと歩ける。
野鳥の撮影は、忙しいけど脳の活性化にいいような気がする(^^ゞ
 (「清明から穀雨のころ」より)
(前略)

 四月は暦では晩春に当たり、二十四節気の「清明」と「穀雨」が該当します。
「清明」は大気が清らかに澄む時期をあらわし、「穀雨」は春の雨が穀物の芽を潤すという時期をあらわしており、種まきの好季とされています。
このころになりますと、日中の時間が長くなります。
まだ春になりきっていない冬のおわりに「日脚(ひあし)伸ぶ」と感じていた夜明けから日没までの時間が、まさしく「畳の目一つずつ」伸びてゆくのがわかります。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
  『俳句歳時記』(角川書店)に付された二十四節気表によりますと、「立春」の東京の昼の時間は約10時間33分、それが「穀雨」時になりますと、約13時間16分。
すでに二時間半近く「日永(ひなが)」になっているのです。
それだけ「春暁」と呼ばれる夜明けが早くなっているということです。

  裏山といふ語なつかし日脚伸ぶ  中村苑子(なかむらそのこ)

  この国に慣れしパンダの日永かな  西村和子(にしむらかずこ)
  春の一日を統(す)べる「春暁」になんとなく明るい一日が予感されます。
朝まだきの春の空を見ますと、清少納言だけでなく、私たちの先祖たちもこの空を見てきたのだというおもいと、日々新たなりの感慨(かんがい)がともに身心から湧(わ)きたってきます。

  のそのそと春あけぼのの象の耳  喜代子

(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
竹の子が伸びていました。
以前、紹介した話ですが、竹の子を見ると思い出すのが

★良寛逸話②――便所を焼く
 解良栄重(けらよししげ)の『良寛禅師奇話』37段にある話。
 五合庵に住んでいたころ、庵(いおり)の周辺には孟宗竹の竹林があった。
春になると、別棟の便所にも竹の子が生えた。
日ましにどんどん伸びてきて、とうとう草の屋根につかえるほどに成長した。
 良寛は毎日これを見ていて、屋根にあたっては竹の子がかわいそうだと、ロウソクの火で屋根に穴をあけようとした。
過って便所をみな燃やしてしまった。
(『良寛 旅と人生 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』松本市壽編 角川文庫 2009年)
春を惜(お)しむ――芳草(ほうそう)萋萋(せいせい)として春将(はるまさ)に暮(く)れんとし

芳草萋萋として春将に暮れんとし
桃花(とうか)乱点(らんてん)として水悠悠(ゆうゆう)たり
(わ)も亦(また)従来(じゅうらい)亡機(ぼうき)の者(もの)なるに
風光(ふうこう)に悩乱(のうらん)せられて殊(こと)に未(いま)だ休(きゅう)せず
かぐわしい草花があたりに繁茂(はんも)し、春はまさに過ぎ去ろうとしている。
桃の花びらがひらひらと川面(かわも)に散って、川の水はゆったりと流れる。
私はもともと僧として俗念(ぞくねん)を忘れた人であるが、この春の景色にはすっかり夢中になり、休むひまもないほどあちこち花を見に歩いていることだ。
(『良寛 旅と人生 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』松本市壽編 角川文庫 2009年)
  自戒のことば
    こころよからぬものは――

ことばの多き、口のはやき さしで口
手がら話 へらず口
(から)ことばを好みてつかふ
おのが意地をはりとほす
もの知り顔のはなし
この事すまぬうちにかの事いふ
くれてのち其の事人にかたる
返すといひて返さぬ
にくき心をもちて人を叱る
悟りくさき話 ふしぎばなし
神仏のことかろがろしくさたする
親切げにものいふ
人にものくれぬさきにその事いふ
おれがかうしたかうしたといふ
この人にいふべきをあの人にいふ
(『良寛さんのうた』田中和雄編 童話屋 1995年)
鼻であしらふ にげごとをいふ
はなしの腰をおる おどけのかうじたる
おのが得手(えて)にかけていふ
ぐちたはごと
あらかじめものの吉凶(きっきょう)をいふ
つげごとの多き 口上のながき
ひとつひとつ数へたててものいふ
みだいに約束する
しもべを使ふに言葉のあらき
客の前に人を叱る いらぬ世話やく
口を耳につけてささやく
をろかなる人をあなどる
かたことを好みてつかふ
(『良寛さんのうた』田中和雄編 童話屋 1995年)
(〝「和」の思想の背景〟の続き)

 では、「なぜ仏教にたよらねばならぬか」という理由について、聖徳太子はいう。
「三宝とは仏と法と僧なり。すなわち四生の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん。人、はなはだ悪(あ)しき者少なし。よく教うるをもて従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」(口訳、411ページ<省略>)
 仏教を採用した他のアジア諸国の帝王も同様に考えていたのであろう。
(『日本の名著2 聖徳太子』中村元責任編集 中公バックス 昭和58年)
 十七条憲法のこの第二条に示されているように、徹底的な悪人はいないというこの思想は、仏教では非常に重要である。
これはまた東洋思想の一つの特徴である。
ところが、西洋では悪人は絶対に救われない。
神に背いたものは地獄に落ちてしまう。
そこには永遠の罰が待ちうけている。
ところが、東洋には徹底的な悪人に対する憎しみという観念はない。
悪人も悪の報いを受ければ、いつかは救われる。
東洋思想と西洋思想との根本的な相違が、こういうところに現われているのであり、聖徳太子のことばは非常に意義が深い。
 さて、ここに普遍的な理法の観念が表明されていることは、注目すべきである。
聖徳太子およびその下にある一連の官僚群によっては、仏教は、なんびとも尊守すべきところの普遍的な教説という自覚のもとに摂取され受容された。
仏教のことを「四生(四種類のあらゆる生けるもの)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)なり」と評価し、仏・法・僧(教団のつどい)の三宝のうちでも、とくに法すなわち教法を重要視した。
したがって、「いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん」と説いている。
聖徳太子によれば、あらゆる生きとし生けるものの「軌範」となっているものが「法」であり、仏というものも実は「法としての身体(法身)」であり、それが「理と和合すること」がサンガであるという。
その内実においては、「法」という一つの原理に帰一しているのである。
 これもアショーカ王の場合とよく似ている。
しかし、アショーカ王の場合には、よりどころとなったものは、もろもろの宗教の対立を超えた法(ダルマ)であって、必ずしも仏教だけではなかった。
仏教はバラモン教・ジャイナ教・アージーヴィカ教と並んで、アショーカ王の保護を受けていた一つの宗教にすぎなかった(もっとも、アショーカ王が仏教をとくに力を入れて保護支援していたことも、同様に事実であるが)。
 だから、アショーカ王と他のアジア諸国の帝王とのあいだいには根本的な差違があるように見えるが、これらの歴史的事実をつくり出した理念について考察してみると、そんなに異なったものではない。
聖徳太子の場合にあっては、普遍的な理法を説く思想体系としてはその当時には仏教だけしかなかったのである。
だから、仏教を「四生の終帰、万国の極宗」として取りあげたのは当然である。
ところが、アショーカ王の場合には、もろもろの宗教の思想体系がかなり高度に発達していたので、普遍的な思想体系であることを標榜(ひょうぼう)するものは仏教以外にいくつもあった。
だからそれらをすべて取りあげねばならなかったのである。
しかし、よく考えてみると、すべての宗教にわたってそれらの説く普遍的な理法を承認するというところに仏教の本質は極まるのであるから、アショーカ王と聖徳太子などとのあいだにも本質的な相違は存在しない。
  このような仏教の特性ゆえに、聖徳太子もソンツェガンポ王も、ともに仏教を尊崇しそれに帰依したにもかかわらず、民族固有の信仰を禁止したり抑圧したりすることがなかった。
それぞれ土着の信仰として、日本では神道が、チベットではボン教が、今日まで依然として存続している。
ビルマでは精霊の信仰が民衆のあいだではなお行われている。
シナでは仏教と道教とが融合している。
こういう仏教文化圏の動きを考慮すれば、推古天皇の十五年にいたって、「今、朕(ちん)が世に当たりて、神祇を祭祀(いわ)うこと、あに怠りあらんや。故(か)れ群臣ともにために心を竭(つく)して、よろしく神祇を拝(うやま)いまつるべし」という詔の発せられた理由も理解することができるであろう。
 そうじて、古来日本人のあいだでは寛容・宥和の精神が顕著であるが、その成立しうる論理的根拠はいかなるものであろうか。
日本人のあいだには現象界のすべてのものにその絶対的意義を認めようとする思惟方法が働いているが、それによるならば、人間の現実世界におけるすべての思想にいちおうその存在意義を認めることになる。
そうすれば、それらすべてに対して寛容・宥和の精神をもって対することになる。
 こういう思惟の方法は聖徳太子の場合にも明らかに現われている。
太子によれば、仏教の究極の趣旨を説いた見なされる『法華経』は、一大乗仏教を教えるものであり、「万善同帰」を語るものである。
それゆえ『法華経』の趣意のことを万善同帰教とも称するのである。
(『日本の名著2 聖徳太子』中村元責任編集 中公バックス 昭和58年)