「17日~18日にかけて 西~北日本 非常に激しい雨のおそれ」(NHK 4月16日)Eテレ0655の「声の主」の解説にヨーロッパでは「teacher teacher teacher…」と鳴くのだとか。
日本では、
シジュウカラは鳴き声で会話する
シジュウカラのオスは、春になると枝先などにとまって「ツツピーツツピー」とよく響く声でさえずり、求愛したり、ほかのオスに対してなわばりを主張します。
「ツピーツピー」「ピーツツピーツツ」などと、バリエーションが多いほどメスにモテます。
器用でかしこい=生き残る力があるオスということなのでしょう。
(後略)
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)
「シジュウカラの音声言語、単語から指示対象をイメージする能力を確認」(鈴木俊貴 京都大学生態学研究センター研究員)
望月衣塑子さんのTwitterに
米ロイター記者は、菅首相に日本での五輪の準備不足を問いたが、まさかの無視を決め込むとは。
最悪である。
その後に菅首相自身が、指名した共同通信記者の「五輪選手団の派遣に米大統領から前向きな意向示されたのか」の質問にも殆ど答えず。
首相の器ではとてもない。
米ロイター記者は、菅首相に日本での五輪の準備不足を問いたが、まさかの無視を決め込むとは。
最悪である。
その後に菅首相自身が、指名した共同通信記者の「五輪選手団の派遣に米大統領から前向きな意向示されたのか」の質問にも殆ど答えず。
首相の器ではとてもない。
昨日紹介した「僕がスカートをはく理由」(NHK 4月16日)
「おはよう日本 スカートで登校する男子」(7時14分頃)
それを見ていた父が可笑しいと言ったけど、
昭和6年生れの父にいつからズボンをはいたのか?と尋ねると
小学校に入ってからで、それまでは絣の着物だったと言っていました。
ズボンは明治になってから西欧から入ってきた服装。
男性の髪が短くなったのは「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」とこれも明治から。
男らしさや女らしさの既成概念の多くは、明治からだと思う。
「文明開化~新しい文化~」(10min.ボックス 日本史)
だいぶ前から女生徒はズボンとスカートを選ぶことができるようになったと聞いていた。
母は、普段はズボンだったし、妹もズボン。
公園で出会う女性の多くはズボンが多い。
なのに町中で女生徒のズボン姿を見たことがないのは何故なんだろうね…?
北斎館のTwitterに「おはよう日本 スカートで登校する男子」(7時14分頃)
それを見ていた父が可笑しいと言ったけど、
昭和6年生れの父にいつからズボンをはいたのか?と尋ねると
小学校に入ってからで、それまでは絣の着物だったと言っていました。
ズボンは明治になってから西欧から入ってきた服装。
男性の髪が短くなったのは「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」とこれも明治から。
男らしさや女らしさの既成概念の多くは、明治からだと思う。
「文明開化~新しい文化~」(10min.ボックス 日本史)
だいぶ前から女生徒はズボンとスカートを選ぶことができるようになったと聞いていた。
母は、普段はズボンだったし、妹もズボン。
公園で出会う女性の多くはズボンが多い。
なのに町中で女生徒のズボン姿を見たことがないのは何故なんだろうね…?
今日は旧暦で北斎の命日にあたります。
嘉永2年4月18日に90歳で亡くなった北斎は最後まで絵筆をとり続けました。
今日はその絶筆といわれている「富士越龍」を1日限り展示しています。
保存上、複製になりますが北斎の作品に込めた想いを感じてみてください。
#北斎館 #葛飾北斎 #富士越龍
4月18日
嘉永2年(1849.5.10) 〔忌〕葛飾北斎(90、浮世絵師)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)岩波新書の『江戸問答』、面白かったです。
そのなかに「浮世絵はどこから生まれたか」について田中優子さんと松岡正剛さんの問答。
今まで「浮世絵」という言葉になんの疑問も感じずに使っていたなぁ…
なお、問答の中で知らないことがでてきたので、検索して( )の中に参考になる記事を書き加えました。
検索するといろいろ情報がヒットしますので、興味を持たれたら調べてみてください。
2 浮世問答
浮世絵はどこから生まれたか
松岡 となると、浮世絵のような形式はどうして生まれたんですか。浮世絵はそれまでの大和絵とはまったく違うものでしょう。
田中 それが謎なんです。
松岡 岩佐又兵衛のような風俗画でもない。
田中 浮世絵という概念でいえば、浮世の絵、すなわち現実社会を描こうというものですね。そういうものは、屛風から始まる大和絵の系譜のなかにも、都市図や人物図としてはすでにありましたね。
(『江戸問答』田中優子 松岡正剛 岩波新書 2021年)松岡 『洛中洛外図』とかもそうでしょう。
田中 『洛中洛外図』は、まさに一種の浮世絵です。山水画とは違うという意味で、まさに「浮世」の絵。
松岡 でも『洛中洛外図』は、北宋の『清明上河図(せいめいじょうかず)』のような都市図とも違いますね。
田中 いくぶんかは『洛中洛外図』は『清明上河図』的なものとして描かれたんですが、あのなかから人物をクローズアップして取り出していくと浮世絵になるんですね。だから最初は、立ち姿歩き姿の美人画、寛永美人画のようなものになるわけです。
(〝神品「清明上河図」とは〟東京国立博物館 2012年)
松岡 遊女を描いた「松浦屏風」がまさにそれですね。
田中 当時の舞踏図なども、背景がないけれども立ち姿で描いています。
松岡 あれが浮世絵になっていくのか。
田中 あれも浮世絵です。絵巻とか屏風から始まって、冊子本になって、挿し絵になっていって、一枚絵になっていく。そういうメディアの変遷をずっと浮世絵がたどっていくんですね。その途中で起こったのが風景画への変換です。アムステルダム絵画の風景画を受け入れたことによって、秋田蘭画のような風景がの発生が起こる。
(「特別展 国宝彦根屏風と国宝松浦屏風―遊宴と雅会の美―」 大和文華館 2019年
「秋田蘭画(あきたらんが)」 秋田県立近代美術館)松岡 浮世絵という概念だけじゃ足りないね。もっと大きいキーワードが必要だね。
田中 いや、もっと細かい必要がある。まず美人画がある。この「美人画」という言い方は変だと思うんですが、ようするに人物画です。次に1730年代(享保後期~元文)に奥村政信(おくむらまさのぶ)が描いているのが遠近法の劇場図です。あれは美人画でも芝居絵でもなく、観客を描いています。遠近法はヨーロッパから中国を経由して日本に入ってきて定着するんです。どういうわけか遊郭と劇場は遠近法で描いた。だから、テーマとしてはこれも浮世絵になる。
(「奥村政信」 浮世絵検索)松岡 どうも江戸を見るには、メディアの変遷のほうからぜんぶをもう一度見直す必要がありそうですね。「浮世」の感覚そのものも、十二段浄瑠璃から始まった舞台や芝居の変遷と、仮名草子とか奈良絵本からきているもの、さらに黄表紙だとか読本までいっちゃったもの、というようにいろいろあるわけでしょう。
田中 文学の成り立ちだけでも「語り」からくるものと、文章からくるものとがある、西鶴系は「語り」じゃなくて「はなし」というジャンルに由来する。「語り」と「はなし」は違う。「語り」は曲節があるけれども、「はなし」は曲がないから。「語り」と「はなし」と文章と、三つの系譜が入ってきて、江戸文芸にそれぞれなっていくんです。
松岡 そこに邦楽、とくに三味線音楽の変遷も重なっていく。絵師や版元といった職能も出てくるし、蔦重(つたじゅう<蔦屋重三郎>)のようなプロデューサーも出てくる。そいったもののメディアの移り変わり総体を見ないと、浮世絵がどうやって生まれたのかはわからないね。
(「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」サントリー美術館 2010年)田中 「浮世絵」という名称で大括りしすぎているから、余計にわからなくなるんだと思いますね。もうちょっと分類を細かくしたほうがわかりやすいと思います。だいたい三分類ぐらいはできるように思います。人物画と空間画――遊郭とか町とか劇場内部――と、それから風景画。風景がというのは空間画より広大な風景なんですが、ようするに広い範囲の風景と都市の図、だいたいこの三つぐらいなんですよ。
松岡 名所絵もようするに風景画。
田中 このなかで、建物の内部を主目的に描く絵というのは、あんまりヨーロッパの絵画にないんですよね。
松岡 ヨーロッパは建物の内部の壁に描いたものが、窓枠のトロンプ・ルイユ(だまし絵)になり、やがてタブローとして独立して絵画になっていったので、室内だけを描くというジャンルが成立しにくかったんだと思います。それに対して、浮世絵はもともとメディアですよね。
田中 たとえばベラスケスの「ラス・メニーナス」や、フェルメールの絵画などには室内が描かれているし、他にも室内を描いている絵はあるんですが、そこには必ず主役として人物が入っています。室内が主ではなく人物画であって、そこに背景としての室内や調度類がある。江戸時代の室内画、遠近法で描かれた芝居小屋の絵とか遊郭の絵には、主役がいないんです。たくさんの人が描かれていて、しかも一人ひとりが違っている。それがおもしろい。松岡 それはやはり場面型なんですよ。『日本問答』でも少し話しましたが、日本は場面主義だとぼくは思っているんです。
田中 人物にクローズアップするのと、建物のなかの共同体的な描き方と、それから全体としての風景画と、三種類ぐらいに分かれるのを、みんな「浮世絵」と呼んでしまっている。あともう一つは花鳥図ですね。花鳥図も歌麿が描けば浮世絵になっちゃうんですが、実は違う。花鳥図というジャンルがある。
松岡 ぼくがずっと不思議だ思っているのは、歌麿の大首(おおくび)絵はどうして出てきたのか。『洛中洛外図』から人物の立ち姿が取り出されて、美人画や人物画になっていった。そこまではいいとして、あそこまでバストショットで人物の首から上だけをクローズアップするような絵を描けたのはなぜなんだろう。あれは画期的ですよね。しかも突然ああいうものが出てきた。
(「黄金期の浮世絵 歌麿とその時代展」八王子市夢美術館 2014年)
田中 私はあれこそ西洋画の影響だと思っている。
松岡 あ、そうか。肖像画の影響?
田中 そうです。まず平賀源内が、銅版画の肖像画を模写した。そのあとに大首絵が起こるわけです。だから当然、西洋銅版画のバストショットの絵というのを見ているはずです。歌麿が見ていなくても蔦重は見ていたはずです。
松岡 そうか。やっぱり蔦重はすごかった。そういうディレクションをしていた可能性が確かにありますね。
田中 ですから、浮世絵を見るときは作家主義で見ないほうがいい。その裏には必ずディレクターがいる。版元は単なる商売人ではなく、ディレクターです。あるいは、その役割をはたした「連」があるんです。一人ひとりに注目しすぎて作家主義に陥ると、文化のネットワークがわからなくなるんです。
(『江戸問答』田中優子 松岡正剛 岩波新書 2021年)