帰りに地下の食料品売り場に行こうとすると買い物客がいっぱいなので諦めました。
今日から百貨店などが休業になるので買い物客が多かったです。
スーパーにゆくと比較的すいていました。
今朝、注文している本が来週届くとメールで通知があったのですが解除するまで…
「緊急事態宣言 スーパーの多くは通常どおり営業」(関西NHK)【ストーリーズ】「アニマルアイズ」
動物写真家の宮崎学さんが登場していたので録画して見ました。
この冬、川のそばで見慣れないものを発見しました(15分位)。
誰かが作った落ち葉の山(2021年2月22日撮影)。
落ち葉の下にあったのはタヌキの死体。
発見した時には葉をかき集めたような跡があったそうです。
「こんなこと誰も人間もやるわけじゃないし、他の動物っていうのはやりようがないから。
タヌキとキツネのどちらかだなと思ったのね。
だからまずタヌキが葬ったと思ったの。
でも、それはまだ分かりませんがね。
要するにコロンと死体があると、今度、カラスから上空から見つかるわけですよ。
これを見つけにくいように隠している、絶対そうだと思う。
じゃなきゃ、こんなことしないもん。
だから結局、そういう心理というかね、仲間内の。
それが僕は働いてるじゃないかと思うの。」
番組の続きを見ていると宮崎学さんの推理に賛同したくなります。
宮崎学「森の動物日記」
一方、コロナ禍では、コロナに感染して亡くなると最後のお別れも出来ずに葬られてしまう。
母が危篤になったとき、看護師さんに頼んで手や腕に刺さっている点滴などの針を抜いてもらいました。
そして父や妹が素手で母の手をさすって声をかけてあげました。
意識がないように見えた母の目から涙が一筋流れたあと、静かに旅立ちました。
今、コロナに感染していなくても見舞いに行くことができません。 国際オリンピック委員会(IOC)のヘイリー・ウィッケンハイザー委員(カナダ)は
「東京五輪、開催可否は医療専門家が決めるべき IOC委員」(AFPBBNews 4月24日)
「医師は1日最大約300人 東京五輪の医療従事者」(産経新聞 2月5日)
看護師が約400人。
このうち、主に新型コロナウイルス対策にあたるのは医師、看護師とも100人程度という。
看護師が足らないと悲鳴を上げているのに…4月25日
天智10年(671.6.7) 漏剋(ろうこく)を用い、初めて鍾鼓(しょうこ)を打って時を知らせる(奈良県水落<みずおち>遺跡)(紀)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年) 天智天皇 十年
夏四月(なつうづき)の丁卯(ひのとのう)の朔辛卯(かのとのうのひ<25日>)に、漏剋(ろうこく)を新しき台(うてな)に置く。
始めて候時(とき)を打つ。
鍾鼓(かねつづみ)を動(とどろか)す。
初めて漏剋を用(もち)ゐる。
此の漏剋は、天皇(すめらみこと)の皇太子(ひつぎのみこ)に為(ましま)す時に、始めて親(みづか)ら製造(つく)れる所(ところ)なりと、云云(しかしかいふ)。
(『日本書紀(五)』坂本太郎他校注 岩波文庫 1955年)
天智天皇 十年
夏四月二十五日、漏刻(ろこく<水時計>)を新しい台の上におき、はじめて鐘・鼓を打って時刻を知らせた。
この漏刻は天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。云々。
(『日本書紀(下)』宇治谷孟訳 講談社学術文庫 1988年)4月25日
慶応4年(1868.5.17)〔忌〕近藤勇(こんどういさみ<35、新選組局長>)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
近藤勇――こんどう・いさみ
1834~1868(天保5~慶応4)
■出身地=武蔵国(東京) ■父=宮川久次郎 ■幼名=勝太
■諱=昌宜 ■変名=大久保大和
■墓=東京都三鷹市・竜源寺
最後の剣豪にして新撰組の隊長
(中略)
そして慶応4年(1868)正月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いである。
新撰組は淀堤(よどづつみ)の千本松で壊滅的な打撃をうけた。
実に隊の三分の二を失ったのである。
近藤、土方、沖田をはじめとする44名は幕府海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)が指揮する軍艦で、江戸へ脱出した。
(『日本の歴史を大転換させた幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年) 海の上を走る富士山丸の甲板で、近藤は、生まじめな口調で榎本にいった。
「上洛(じょうらく)するとき妻子の顔は見おさめだと思って出かけましたが、また会えるのはうれしいことです。しかし、国家の大事に際してこんな気持ちになるのはお恥ずかしいことです」
「いや、それが人情というものです。文武にすぐれていても、人情のない者は鳥や獣にひとしいのですから」と榎本は答えた。
武闘派で器用さに欠け、根っから純情な今度のキャラクターをあらわす会話である。
その後、新選組は、「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」と改名し、近藤は「若年寄(わかどしより)格」に、土方は「寄合席(よりあいせき)格」に任じられた。
幕閣(ばっかく)なみの待遇であり、末期的症状を呈(てい)していた幕府にはそれほど人材がいなかった。
機動隊の隊長が一気に大臣にされたようなもので、倒産寸前の会社にありがちな職制のインフレ発行であり、事実、近藤は「若年寄格」としてはなんの役にも立たなかった。 彼には二尺三寸五分の「虎徹」以上に、政治の論理を使いこなせる能力も見識もなかったのである。
軍資金五千両。大砲二門。小銃五百挺(ちょう)をあたえられ、近藤は大名なみの駕籠(かご)にのる資格も得はしたが、部下の直参(じきさん)20名足らず、200名の兵は行進もロクにできないかき集めの雑兵(ぞうひょう)集団であった。 そして、甲州・勝沼で板垣退助(いたがきたいすけ)の隊と戦って敗北し、以後各地を転戦するが、転戦とは名ばかりで実質的には逃亡生活である。
債権者にのべつ責めたてられているようなもので、景気のいいライバル会社である官軍は勢いづいて追いまわし、ついには下総(しもうさ)・流山(ながれやま<千葉県>)へたどりついたものの、有馬藤太(ありまとうた<薩摩>)の軍に無条件降伏せざるをえなかった。 近藤は、このとき有馬に向って「旗本の大久保大和(おおくぼやまと)」と名のった。
あんたは昨日今日できた新しい会社の社員だが、オレは歴史を築いた伝統のある幕府株式会社の重役だ、と胸を張ったわけである。
勝者である有馬は侠気(おとこぎ)のある情のあつい男で、近藤をしかるべき武士として作法どおりに遇した。 が、谷干城(たにたてき)ら強硬派が即時処刑を主張し、板橋・庚申塚(こうしんづか<東京>)の刑場で首を斬った。
4月25日のことで、近藤は35歳、その首は塩漬けにされて京都へ送られ、三条河原にさらされた。
こうして近藤は血風のかなたに姿を消し、日本は維新をむかえることとなった。
(後略)
(『日本の歴史を大転換させた幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)臨時休館のお知らせ。
これは予想していたけど、駐車場を出る時にスタッフが「閉」の駐車場の案内に貼っていました。
何故、駐車場を閉鎖しないといけないのか。
去年もゴールデンウィークの期間に前日に予告もなく駐車場が閉鎖された。
今年は、「4/25(日)~当面の間、一般利用中止」となっている。
私だけだと自転車で公園に来ることができるけど
今年に90歳を迎える父に自転車は乗ってほしくないのだけど、自転車で行くと話しています。
去年、ゴールデンウィークの期間、歩かなかったことで足腰が弱った。