2021年4月26日月曜日

心地いい風

ミカンの花(ナツミカンかな?)が咲きだしました。
今朝は、心地いい風が吹いていました。
もうじき風にのって甘い香りが漂うほどいっぱい咲いてくれるのが楽しみです。

ミカンの花と実のつくり」(中学)
ハナミズキが散り始めました。
ちなみに花びらに見えるのは…

アメリカからきた犬の木
  ハナミズキ ミズキ科
 
(中略)

 アメリカにソメイヨシノを送った返礼に送られた木がハナミズキです。
樹皮の煮汁で犬を洗うと皮膚病が良くなると、ドッグウッドと呼ばれます。
現地では森林内などで見られる木のようで、乾燥に弱い木だと思います。
桜が終わることに白やピンクの花を咲かせますが、花弁にみえるのは苞(ほう)と呼ばれるもので、花は真ん中の小さい集団です。
花芽は玉ねぎのような形をしていて花をつつんでいるのです。
成長が遅いハナミズキは、剪定代が節約でき、きれいな花も咲くと街路樹として人気の樹種です。
乾燥した土だと、花は小さくなる傾向があります。
街路樹のように狭い場所だと、根の張りが悪く倒れる木も割にあります。
「土も陽当りも悪くないのにハナミズキが咲かない」という相談をよく受けます。
原因はよくわかりませんが、木は長生きできる生き物なので、わざわざ散財して子孫を作らなくても良いわけです。
たぶん恵まれている場所なので、危機感がなく花が咲かないのかもしれません。
(後略)
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
若松英輔さんのTwitterに

最近、再読してもっとも驚いたのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。
これまでこの本を何度読み、何度語ったか分からない。
だが、危機の時代を生きて、この物語が、作者の危機と時代の危機のなかで生まれた意味が実によく分かった。
そして、この作品は死者たちへの贈り物でもあるのだ。
大阪歴史博物館のTwitterに

【きょうは何の日?】
4月26日 < 太陽の塔に男が籠城 > 1970年(昭和45)のこと。
千里丘陵で開催中の日本万国博覧会のさなか、若い男が太陽の塔の目にのぼって籠城。
「目玉男」は、8日間立てこもった。
当時はハンパク(反万博)も盛んだったからねぇ。(ふ)
4月26日
  天文2年(1533.5.20) 京都法華宗徒・細川元晴勢、大坂の一向一揆を攻める(祇園執行日記)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
混迷する畿内
 聖界領主本願寺


 さて、ふたたび目を政治情勢に向けることとしよう。
 すでに「守護大名の没落」の章でふれたように、中央の政争で細川高国(ほそかわたかくに)が敗死したのは享禄(きょうろく)4年(1531)のことであるが、この高国追討にもっとも大きな力をふるったのは細川晴元(ほそかわはるもと)の被官三好元長(みよしもとなが)であった。
 元長は本領の阿波から中央に進出し、細川方の勘合貿易の拠点であり、国内経済の中心地でもあった和泉の堺をがっちりと固めたから、ここで元長を中心とする政局の安定があらわれるかに見えた。
(『日本の歴史 11戦国大名』杉山博 中公文庫 2005年)
 しかしそれもまたつかの間のことであった。
元長の主君細川晴元が、このころにわかに晴元に接近していた、もと畠山義宣(よしのぶ)の被官木沢長政(きざわながまさ)や元長の叔父三好政長(まさなが)の讒言(ざんげん)をいれて、元長を討とうとしたのである。
しかも晴元は、このとき本願寺証如光教(しょうにょこうき)を味方にひきいれた。
 高国敗死の翌享禄5年(1532)6月、本願寺証如は木沢長政らとともに、元長の拠る堺南荘を攻撃、一挙にこれを破ってたちまち元長をたおした。
 ここでにわかにクローズアップされてくるのが、光教の率いる門徒勢力である。
これから以後、本願寺勢力は戦国争覇戦のキャスチングボートをにぎり、のちには信長・秀吉の天下統一過程でその正面に立ちはだかる。
したがって、とくに畿内を中心とする政局の理解には、まずこの本願寺勢力に分析のメスを加えておく必要がある。
 よく知られているように、一向宗(いっこうしゅう)門徒は、蓮如(れんにょ)の晩年から北陸・飛騨・三河・濃尾・畿内などで、にわかに力をのばしていた。
蓮如の多数の子供たちは一家衆(いっけしゅう)とよばれて各地の門徒組織の中心に立ち、ピラミッドの頂点に立つ山科(やましな)本願寺は、それから送られてくる志納金によって、物質的にも巨大な力をもった。
 しかし本願寺は、蓮如以来の「王法為(おうほうもととなす)」、つまり現世の武士権力を容認して、門徒がにわかに反抗的行動に走り、そのために政治的軍事的紛争にまきこまれることを、極力さけようという方針を堅持していた。
だから法主側では、加賀の一向一揆が守護富樫(とがし)をたおし門徒領国をつくりあげた事態に対しては、かえって困惑を感じていた。
いわば本願寺は聖界の大領主であり、末端の門徒は地侍・農民なのだから、両者のあいだにははげしい対立があり、極言すれば、法主と門徒とはもはや別個の世界に属しているともいえるのである。
 とはいえ、門徒以外の人々の目からすれば、上から下まで門徒はやはり門徒である。
法主から末端の門徒までを一つの、同類の動きとみるのは自然である。
歴史の現実では、急進化した各地の門徒農民・地侍が一揆をおこし、本願寺はそれを必死におさえようとしているのであるが、外観上はそうとは受けとれない。
また実際としても、法主が指令すれば門徒は勇躍立ち上がるにちがいない。
晴元が証如に目をつけたのもこの点だった。
本願寺法主の立場を利用し、一揆勢を率いて元長を攻撃するように、証如に要求したのである。
証如は教団の安全のためにこれを拒否しえず、門徒の一揆に堺攻撃を命じた。
 天文一揆

 したがって、証如の目標は元長打倒だけであり、それ以上に事態が拡大することについては極力警戒している。
ところが元長がたおれた翌月、年号が天文(てんぶん)とかわると、それが合図となったかのように、摂津・河内・和泉・大和など各地で、証如の意志をこえてはげしい一揆がもえあがった。
  細川二流の争いで戦争の被害が大きかっただけでに、この地方の農民は急進化していた。
門徒の農民・地侍はそのような一般農民たちの前衛であった。
かれらはたちまち証如の制止をのりこえて、各地で晴元・木沢長政派と対立しはじめた。
これはちょうど加賀の門徒領国と同様、いまや畿内でも門徒一揆がみずから在地の権力をにぎりとろうとすうものであったから、これに対して晴元派が全力をあげて弾圧にのりだしてくるのも当然であった。
 危急を感じた細川晴元・木沢長政は一策を案じた。
当時一向宗とはげしく対立していた法華宗徒の力を利用したのである。
法華宗は日親の布教以来、京都の町衆のなかに急速に信仰者をひろめており、これもまたなかなか戦闘的な信徒群であった。
  天文元年(1532)8月下旬、細川晴元は、姻戚であると同時に日ごろ近江門徒になやまされている六角定頼(ろっかくさだより)に命じ、法華宗を大動員して山科本願寺を攻撃させた。
攻撃軍の京都の町衆を中心とする法華宗は三、四千ともいわれた。
 本願寺方もこれに対して死力をつくして防戦した。
しかしたちまち寺内には火の手が上がった。
証如はからくも脱出したが、当時人々から「富貴栄花を誇り、寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」といわれた山科本願寺は、すべて灰燼(かいじん)に帰した。
  本願寺を焼き打ちされた門徒は憤激し、ますますはげしい蜂起を示した。
翌天文2年2月、門徒一揆は堺を攻め、細川晴元を淡路に敗走させ、3月には伊丹城を囲んだ。
多年にわたってきずきあげられてきた摂津の細川の領国は、いまや門徒に制圧されようとした。
 この危機にあたり、木沢長政はまた洛中二十一ヵ寺の法華宗徒を動員し、伊丹に反攻させた。
宗教戦争の相貌をとったこの争いはとりわけはげしく、ついに一向衆も囲みを解いて退かねばならなかった。
さしもの門徒の一揆は、ここでひとまず挫折したのである。
  この間、細川晴元は淡路から池田城に入り、証如は本拠を石山(いしやま<大阪市>)に移した。
石山はのちの大坂城の地であり、蓮如以来一道場がおかれていたが、規模が微々たるうえ、その土地は低湿であって、けっして恵まれたものではなかった。
(『日本の歴史 11戦国大名』杉山博 中公文庫 2005年)
惣・一揆と下剋上の社会状況
  曲折する民衆の戦い
  宗教戦争の苦汁


 「大一揆」「小一揆」の騒動がおこった翌享禄5年(1532)、畿内では本願寺法主証如が、細川晴元(政元の養子澄元の子)の要請に応じて、木沢長政を援(たす)け、河内飯盛(いいもり)城に畠山義宣(よしのぶ)を倒し、ついで堺に三好元長(もとなが)を攻めて自刃させた。
このとき証如の指令によって蜂起した門徒一揆は摂河泉三ヵ国にわたり、その数3万といわれた。
ここまでくると本願寺の行動は、もはや完全に現世の権力闘争と一体化していた。
そしてかれらの拠点である山科、石山はもとより、各地の寺内町(一向宗寺院とその門前町)は城砦(じょうさい)都市としての性格を強めた。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
 ところが、その同じ年のうちに、一転して細川晴元・木沢長政と本願寺が対立した。
春元は、当時ラディカルな動きをとりだした法華一揆と手をにぎり、それをもって一向一揆と対決しようとした。
8月23日、京都市中の法華宗二一ヵ寺の連合からなる法華一揆は、細川晴元・六角定頼(さだより)の軍と結んで、山科本願寺を攻撃し、これを焼き落した。
本願寺の実力者下間兄弟は急遽(きゅうきょ)北陸から帰還してこれを援けたが、法華一揆は山科・摂津・和泉などの各地で一向門徒を圧倒した。
法華一揆は天文3年(1534)ごろには、洛中の地子銭(じしせん)を納めず、宇治(うじ)十一郷・山科七郷・東山十郷などを独自に支配しようとするなど、すさまじい勢いを示した。
 法華一揆の主力は京都の都市民衆であり、元来一向一揆の主力であった門徒民衆と解決しえないほどに異質な関係にあるものではなかった。
けれども、日蓮宗も他宗に対するはげしい排他性をもつとともに、信徒仲間の固い団結を誇っていたから、一向一揆との対抗は、宗教戦争としての苛烈(かれつ)さをもっていた。
法華一揆は結局、天文5年、その巨大化に恐れをなした山門(比叡山)が、六角定頼らを味方に引き入れてこれを急襲したため、一挙に圧殺されて終わった。
こうして聖俗支配層の泥沼のような政争に巻きこまれながら、相互に戦わされた一向一揆と法華一揆は、戦国の民衆が味わわねばならなかった悲劇であり、歴史は一直線に進みえないことを示す事件であった。
(『戦国時代』永原慶二 講談社学術文庫 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)v
ブラシノキは、父の里を思い出すようです。

帰って来てから「平衡感覚が弱くなっているので(自転車をこぐのが)怖かった」と話していました。
私も自転車をこいでいから公園を歩くので、距離をいつもよりかなり短くしましたし、望遠レンズを諦めました。
せめて平日は、駐車場を利用できるようにしてほしいです。
リハビリ散歩から帰って来てから眼科を受診しました。
待合室に貼っていたのは

黙待ち合い室にご理解をお願いします。
マスクをしていても、待合室での大きな声や、長い会話はご遠慮ください。


父や妹がかかりつけの内科を受診して困ったと話していたのが、高齢者の会話。
待ち時間に読んでいたのが「『方丈記』と『徒然草』
島内裕子さんの『徒然草』を読んでいて分かりやすいと思っていました。

先日、Eテレ先人たちの底力 知恵泉の

鴨長明 ひとりを愉しむ~不条理な世を生きる極意

兼好法師 ひとりを愉しむ~自分の居場所を作る極意
に出演されていて読んでみたくなり注文していました。
緊急事態宣言で書店が休業になる前に購入できてよかったです。
Amazonで頼めば自宅まで配達してくれますが、地元の本屋さんを応援したいp(^^)q