2021年4月22日木曜日

カラッとした暑さ

まだ四月なんだけど、昨日、夏日になり、今日も暑い(^-^;
洗濯物が早く乾いて助かるのだけど…
朝夕と日中の寒暖差が激しいの体調を崩しやすいです。

大阪市 ことし初の夏日 近畿で空気乾燥 火の取り扱いに注意」(関西NHK 4月21日)
学術会議 定例総会 「6人の速やかな任命強く求める」で一致〟(NHK)

岡田正則早稲田大学教授は

「政府が理由を明らかにしないまま恣意的
(しいてき)に任命拒否することを許せば、
学問の自由に多大な萎縮効果をもたらす。
人事の問題としてごまかすのではなく、学問に対する政治の責任として、理由を説明してほしい」



加藤陽子東京大学教授は

人事という言葉に迷わされてはなりません。
国民の世論としては、
なお、政府による法律の解釈と
運用方針の変更について
十分な説明を聞かされてはいないとうのが
率直な感想だったのではないでしょうか。
私は、この国民世論の趨勢
(すうせい)に信を置きたいと思います。
4月22日
 明治43年(1910) 〔忌〕荻原守衛(おぎわらもりえ)(32歳、彫刻家) 

(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

槍ヶ岳などに登っての帰り、訪ねていたのが「碌山美術館
絶版になっているようですが『新宿中村屋 相馬黒光』より一部転記しますφ(..)
碌山の号は夏目漱石の『二百十日』の登場人物「碌さん」にヒントを得てのことだともいわれていたそうです。
文中の「」は相馬黒光
オブリヴィオン」は守衛のアトリエ「オブリビオン(忘却庵)」。
光太郎」は高村光太郎
九 彫刻家の恋
(前略)

 守衛は雇ったモデルに苛酷なポーズをとらせた。
口絵にあるように、それは両手を腰の後ろで組ませ、下肢を床につけさせたまま状態を前傾させ、顎を突きださせるというものであった。
モデルはあまりの辛さに何度も暇を乞うた。
ときに守衛はせっかくの作品を壊そうとしたが光太郎がそれをとめ、三月半ばに完成する。
守衛はすぐ良に知らせる。
そんなことは初めてであった。
(『新宿中村屋 相馬黒光』宇佐美承 集英社 1997年)

(「《女》1910年重要文化財」 碌山美術館)
 良は子どもたちをつれてオブリヴィオンにいく。
子どもたちは制作台の上の「女」をみたとたん、カアさんだ! と叫んだ。
二人の大人は思わず顔をみあわせる。
子どもは正直というけれど、良の子どもたちは「女」に母の雰囲気をみたのだろう。
そう「女」のモデルの名はたしかに岡田みどりといったけれど、守衛が表現したかったのは良だったにちがいない。
それのみか、ある時期から良自身が密かにオブリヴィオンの通ってモデルをつとめたのかもしれない。
みどりは作品完成前に去っていたし、守衛はモデルがないと制作できない作家だったのだ。
 彫刻にくわしい人はよく「女」のポーズはカミーユ・クローデルの「嘆願する女」など一連の作品に似ているという。
カミーユはロダンの弟子にして恋人であった。
たしかに守衛はその作品をロダンのアトリエでみていたろう。
しかし「嘆願する女」、つまりカミーユ自身は両手をさしだし顔を前方にむけて、去りゆく師ロダンを狂おしげに追おうとしているのに、守衛の「女」、たぶん良は、両手を後ろに組んで脚を大地につけたまま胸を張り、昂然と顔を上にあげている。
カミーユは可愛くも哀れな女であった。
ロダンに捨てられて心を病み、精神病院で果てるのだが、良は愛蔵が「頭でっかち」と評したように誇り高く理性に勝ち、つねに男を誘うようにみえながら容易に相手に踏みこませなかった。

(「パリから1時間。カミーユ・クローデル美術館へ。」FIGARO.jp)
 守衛の友の柳敬助がいた。
戸張孤雁同様ニューヨークで知り合った年下の絵描きである。
守衛はその才を高く買っており、敬助もまた専用のアトリエをもつべきだと考えて愛蔵に相談する。
愛蔵は例によって気軽に、店の隣の松平写真館を買いとって改造しよう、といった。
その年、中村屋の売り上げは創業時の七倍を越えていたから愛蔵にとって、妻が愛する芸術に手を貸すなど何程のことでもなかったのだ。
守衛は「女」につづくテーマが定まらぬままに敬助を思うあまり大工を指揮した。
良は皮肉っぽくいった。
「大工がさぞ迷惑がっているでしょうに」
 良は敬助に嫉妬していたのだろうか。
守衛が逝ったのはそれからまもなくのことであった。
 四月二十日はくだんのアトリエが完成する日であった。
夕方に掃除もおわり、カーペットが敷きつめられたあと良が茶の間にいると守衛がやってきて「あとは丸髷の留守番さえ用意できればよい」と冗談をいった。
その夜は太平洋画会の相談会に出席するはずだったのに、気が進まないといって大好きな炬燵のあるその部屋に寝ころんで『早稲田文学』のページをめくりはじめた。
良がかたわらで針仕事をしていると声をかけてきて、じっと見つめながら「やっぱりカアさんは女原人だ」といったが、どことなく元気がないようにみえた。
 十時まえ、気分が悪いから帰る、といって立ちあがりかけた。
良にも愛蔵にも悪い予感があって泊まっていくよう勧めたが守衛は聞き入れず、 Let me go home, it is better for me, mother.(帰らせてくださいよ。僕にはそのほうがいいんだ。カアさん)といった。
良は、それならお茶にしましょう、といって、三人で卓袱台(ちゃぶだい)をかこんで雑談していると、守衛は突然咽るような咳をしたかと思うと少し血を吐いた。
愛蔵は若い者に命じて氷を買いにやらせ、自身は近所の医者を呼びに走る。
十一時半ごろ、こんどはかなり大量の血を吐き、日が変わって二十一日午前一時半ごろ、良がみておれぬほど苦しみ、血は部屋中に散った。
良は失神する。
ややあって医者がもう一人やってきたが呆然と立ちすくんでいるだけだった。
 本十が駆けつけたあとは二度血を吐いたが、その後は容体もおさまって良にほほえみかけながら「腹が減ってたまらない」といった。
薬を飲ませてやると「ぼくもこんなことになってしまった」といって泣いた。
良は守衛に黙って鉛筆で走り書きして谷中七面坂下の孤雁の家まで店の者を走らせた。

(「本十」は、次兄の荻原本十
 夕方、待ちに待った早稲田の高田病院副院長がきて診察し、「落ちついてからもう一度診なければ診断は下せないが、このぶんなら大丈夫でしょう」といって帰っていった。
本十も安心して引きとった。
孤雁が飛んできたのはそのあとであった。
良は茶の間の隣の部屋で待ちかねていたが、日ごろから青黒い顔がいっそう青みを帯びていた。
 孤雁が茶の間に入った。
良の耳に二人がかわすことばが聞えてくる。
孤雁は「僕が看護しよう」といっている。
守衛が紙と鉛筆を求め、何か書いている。
「伝染するから止めておけ」と書いているのだろうか。
ふたたび孤雁の声が聞こえてくる。
「伝染するのはここばかりじゃないよ。汽車や電車のなかでも往来でも伝染するときは伝染するんだ。だいたい病名がわかってないのにそんな心配をする必要はない」
 良は男の友情を恨めしく思う。
柱時計が十二時を打って二十二日になった。
一時すぎ、守衛は軽い咳をして少し血を吐いた。
医者がきて注射がうたれた。
一同が見守るうちに呼吸は刻一刻と早くなる。
孤雁が「苦しくないか」と尋ねると、守衛は「苦しくない」と答えたが、やがて良を差し置いて孤雁に手を差し伸べ、そのまま事切れた。
肺からの血が気管につまって息がとまったようであった。
明治四十三年四月二十二日午前二時三十分、この国近代彫刻の祖・碌山萩原守衛は三十年四か月の生涯をおえた。
良は三十四歳になっていた。
(後略)
(『新宿中村屋 相馬黒光』宇佐美承 集英社 1997年)