2014年11月25日火曜日

本能寺~四条河原

23日(日)の続きPart3です(*^O^*)/
本能寺
卯木山(うぎさん)と号する本門法華(ほんもんほっけ)宗の大本山。
本尊は十界大曼荼羅
(じゅっかいだいまんだら)
1415(応永22)年,日隆
(にちりゅう)が油小路高辻(あぶらのこうじたかつじ)と五条坊門の間の地(現,下京区)に創建。
当初は本応寺(ほんのうじ)と称し,1436(永享<えいきょう>8)年に現在の寺名に改めた。
茶屋や塩屋・小袖(こそで)屋一族の上層町衆の帰依(きえ)を得て宗勢をのばした。
天文(てんぶん)法華の乱で一山は灰燼に帰したが,その後日承(にっしょう)が油小路蛸薬師に中興した。
寺域が拡大で,城郭風の構造であったため,織田信長の上京時の宿舎とされた。
1582(天正10)年6月,信長が家臣明智光秀に襲撃されて自害した,いわゆる本能寺の変がおこった。
1587年,豊臣秀吉の命で寺町通の現在地にうつった。
江戸前期の日甫(にっぽ)(大住院以信<だいじゅういんいしん>)は立花(りっか)に秀で,本能寺未生流をおこした。
天明の大火に続き1864(元治元)年の禁門の変に類焼。
現在の堂宇は1928(昭和3)年の再建。
境内には織田信長・信忠(のぶただ)父子供養塔および変に殉じた家臣の慰霊塔がある。
また,その北側には檀家薩摩藩島津家ゆかりの供養塔や日承の墓所がある。
ほかに「信長首洗いの井戸」とよばれる本能寺井戸や浦上玉堂(うらがみぎょくどう)・春琴(しゅんきん)父子墓碑などがある。
寺宝に「伝藤原行成(ゆきなり)筆書巻」(藤原期・国宝)や「花園天皇宸翰(しんかん)御賀礼」(鎌倉期・国重文)などがある。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)
織田信長が自刃した地には「此附近 本能寺跡」の石碑があります。

発病前は,明智光秀のゆかりの地を歩くのが好きでした(*^ー゜)
明智越え」というハイキングコースがあります。

鳩居堂
今は,素敵な工芸品などを購入できますが,元は薬屋さんです。

渡辺崋山は,天保七年(1836)の大飢饉の時に設置されたお救小屋に義損金を出し,その時の小屋風景を見事な筆致でリアルに写生しています。
なお,救済の中心的人物の鳩居堂四代目当主熊谷直恭(蓮心)は京都で種痘を初めてやらせた人として有名です。
天保年間の大飢饉は,幕藩体制をくつがえすきっかけになったようですが,大坂の大塩平八郎の乱もやはり天保八年のことでした。

(『京都障害者歴史散歩』藤本文朗・藤井克美編 文理閣 1994年)
鳩居堂のHPには,
「1850年前後(嘉永3年前後)
4代目熊谷直恭は,文人墨客との交流のほか社会奉仕にも志が篤く,有信堂という種痘所(種痘とは天然痘の予防接種のこと)を設けたり,コレラ対策に力を注いだりしましたが,自らも1859年、コレラに感染して多彩な一生を終えました。」

当初の予定では,ここで珈琲タイムにするつもりでしたが…
諦めました…「スマート珈琲
昭和7年創業のお店で有名なのですが
森見登見彦さんの『聖なる怠け者の冒険』(朝日新聞出版 2013年)でなおいっそう…
矢田寺(やたでら)
通称「矢田地蔵」で知られる。
正しくは金剛山矢田寺と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院。
845(承和<じょうわ>12)年,大和の矢田山金剛寺の別院として五条坊門に創建されたと伝える。
のちに下京の矢田町にうつり,1590(天正18)年に現在地に三転した。
その際に真言宗から改宗。
本尊の地蔵菩薩立像は,火炎を背負い,一名を「代受苦(だいじゅく)地蔵」といい,開山の満慶(まんけい)が地獄で拝した地蔵菩薩の姿を写したものとされる。
落陽(らくよう)名地蔵の1つ。
満慶は閻魔大王から米がつねに満たされている桝(ます)をあたえられたといい,世人は彼のことを満米上人(まんまいしょうにん)と崇敬した。
寺宝の『紙本著色(しほんちゃくしょく)矢田地蔵縁起絵巻』(鎌倉期・国重文)は,この霊験譚(れいげんたん)を描いたものである。 
当寺の鐘は「送り鐘」といい,死者がでたときや盆の精霊を送るときにつかれ,六波羅珍皇寺(ろくはらちんこうじ)の「迎え鐘」と一対をなしている。
(『京都洛中散歩21コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年)

迷子みちしるべ」(誓願寺あれこれ)

京都障害者歴史散歩』に
月下氷人石(八坂神社境内)
祇園社の拝殿を少し東へ行きますと,有名な忠盛灯籠があり前に駒札が立っています。
その南側に長方形の変形石灯籠が,木の間がかくれ見えています。
「天保十年己亥初秋建立」と正面に大きく彫られたこの石の左側には「尋ね方」,右側には「教え方」とあります。
迷子や行方不明の人を探す時,紙にその人の特徴を書き,「尋ね方」に貼ります。
「教え方」には心あたり人が「何某までよろしく」と張り紙をする仕組みになっています。
月下氷人とは,仲人のことですが,仲介者という意味で名付けられたのでしょう。
京都にはもう一ヵ所北野神社の茶室の庭にもあり,その石には月下氷人石と彫られています。
いずれも人の大勢集まるところへ設置されていました。
読みにくいのですが,碑面には,変体がなでこう書かれています。
「去る庚寅年(天保元年)より五穀の実り少なく丙申歳(天保七年)によって雨いとう降りつづき米価いよいよ貴
(たかく)是に因てよるべなき輩の日々飢(うえ)かなしめる有さま見るに忍びかたければ心あらん人々に相議いて教諭所まり公に願ひ三条の河原に仮に救小屋を造って養いおき病めるには医薬をもあたへ  はた便よき方に場を分かちて米銭を施ける事も全く大時代の御仁恵と仰ぎ奉る余にこの後とてもかかることあらんには今後まさりて施の行なわれることをかしこくもこの祇園社の広前に額づきて共に祈り奉るよしを天保十年己亥霜月にかくは記し侍りぬ」
裏面には神灯,向って右に「尋方
(たずねかた)宿坊(しゅくぼう)長吏(ちょうり)宝光院」,左側教え方,「奇縁によりてなげき救わんとす」とあります。
天保十年の三月,市中を老若男女が仮装し狂気乱舞「ちょうちょう」と合いの手を入れながら踊り狂ったとあります。

この現象は,長く続いた天保の大飢饉のための不安や不況を一掃したいという庶民の豊作への祈りとあわせての爆発だといわれています。
(略)
月下氷人石は,天災・人災に悩まされ続けた幕末の京都庶民の立会人ともいえましょう。

とあったので八坂神社で忠盛燈籠周辺を探していました。
ネットで検索すると南楼門,空也上人ゆかりの井戸近くにあって目にしていた…
思い込むと…
深草山(しんそうざん)と号する浄土宗西山深草派総本山。
円光大師法然(えんこうだいしほうねん)25霊場の1つ。
本尊は阿弥陀如来立像。
寺伝によれば。天智天皇の勅願(ちょくがん)所として奈良に創建され,のちに紀伊郡深草(現,伏見区)にうつり,平安遷都に伴い上京区元(もと)誓願寺通小川(おがわ)に移転したという。
はじめは三論(さんろん)宗であったが,21世蔵俊(ぞうしゅん)が法然に帰依し,彼を22世中興祖に迎えて浄土宗に転宗。
西山派開祖証空(しょうくう)の弟子で,深草真宗院の円空立信(えんくうりゅうしん)が入寺して西山深草派の総本山となる。
1591(天正19)年,現在地にうつり,豊臣秀吉の側室松ノ丸殿京極竜子(たつこ)の援助で,本堂以下の諸堂宇が整備された。
盛時には現在の数倍におよぶ寺域を占め,18の塔頭(たっちゅう)を含めた堂塔伽藍(どうとうがらん)が壮大さを誇示する,洛中屈指の巨刹(きょさつ)であった。
不断念仏(ふだんねんぶつ)の道場として知られ,1619(元和(げんな)5)年,55世安楽安策伝(あんらくあんさくでん)が紫衣(しえ)を勅許されて隆盛の極みに達した。
その後,あいついで火災にあり,寺運は漸次(ぜんじ)衰退に向った。
1864(元治元)年の禁門の変の兵火に類焼し,堂塔とともに本尊も焼失。
現在の本尊は,1869(明治2)年,石清水八幡宮の本地仏(ほんじぶつ)阿弥陀如来像を勧請(かんじょう)遷座したもの。
1872年,境内6000坪余(約1万9800㎡)の約8割におよぶ4800坪(約1万5840㎡)を上地(じょうち)され,塔頭のうち15院が廃絶または転出を強制され,いっそう寺観はさびれた。
数度の罹災に,多くの寺宝が失われたが,『絹本著色(けんぽんちゃくしょく)誓願寺縁起』3幅や木造毘沙門天立像(ともに国重文)など,なお重文級の美術品を所蔵する。
門前に街頭連絡板として石柱月下氷人(げっかひょうじん)石「迷子道しるべ」が,門内には扇塚がたつ。
東北にある墓地には解剖供養碑,安楽庵策伝や山脇東洋(やまわきとうよう)とその一門などの墓がある。
11月上旬に策伝忌がもよおされる。墓所参拝は要予約。

世阿弥作の謠曲「誓願寺」の中で一遍上人が誓願寺で御札を配っていると,
和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから,能楽や舞踏など芸能の世界で尊崇される。
その和泉式部が姿を隠したお墓が誠心院にある
和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝篋印塔/ほうきょういんとう)
癌封じなどに霊験あらたかな…
正しくは浄瑠璃山(じょうるりざん)永福寺(えいふくじ)といい,本堂に「蛸薬師」と呼ばれる薬師如来の石像を安置している。
昔,この寺が二条室町にあったころ,付近に池があったことから,水上
(みなかみ)薬師又は澤(たく)薬師と呼ばれ,これが訛って蛸薬師となったといわれている。
また,一説には,この寺にいた善光
(ぜんこう)という親孝行な僧侶が,戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ,箱を開けるよう求められたとき,薬師如来に「この難をお助けください。」と念じたところ,蛸の足が八巻の妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)に変わり,難局を逃れたという。
その後,母の病気も薬を飲まずに全治し,これは,親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして,本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えられている。
病気平癒の祈願のために参拝する人々でにぎわった参道は蛸薬師通と呼ばれるようになった。   京都市
なで薬師
左手でふれるだけで全ての病が癒やされると云われているそうです。
奥にも…京都のうなぎの寝床を連想…
妙心寺阿弥陀堂
1251(建長3)年に創建された円福寺(えんぷくじ)が,二条室町通下ルにあった蛸薬師堂の通称で知られた永福寺(えいふくじ)を吸収。
明治にはいって三河の妙心寺と寺地を交換。
円福寺は当地を去ったが,蛸薬師堂は境内に別堂として残った。
(『京都洛中散歩21コース』)
「八兵衛明神」
隣が学生時代にお世話になった居酒屋「静」
ここでホット珈琲を注文すると…
ウィンナーコーヒーです(*^-^*)
京都で初めてウィンナーコーヒーを出した店として知られています。
築地(中京区河原町通四条上ル1筋目東入ル米屋町384)
鴨川の河原には名物の(*^ー゜)

建都以来千二百年の間,京都の人達はどれほど地震・火災・飢饉・戦乱に悩まされ続けたことでしょうか。
江戸時代の天明,天保の飢饉はよく知られていますが,中世の寛喜二年(1230)の飢饉では「天下の三分の一失す」といわれ,寛正二年(1461)は餓死者八万余人で,死体が加茂の川原にあふれ,「死臭満ち疫病流行す」とあります。
天災は忘れた頃にやってくるどころでなく随時やってきました。
人災の戦禍も常時あり応仁の乱だけではありません。
幕末の「蛤御門の変」の時市中二万八千戸焼失とあります。
それに十五年戦争の後の飢饉もありました。
天,人災の連続的襲来が京都の歴史だといっても過言ではありません。
その歴史を鴨川はみつめていました。
もう一つは処刑の地としての河原でした。
処刑の地としては六条河原が一番古く石田三成,小西行長や不受不施派の日経らが処刑されています。
時代が下がるに従って処刑場は北へ上がり,三条河原では豊臣秀次ゆかりの妻妾ら幼児三十余名の斬殺があまりにも有名です。
後に高瀬川を開削した角倉了以が瑞泉寺を建てて霊を祀りました。
時代は下がって元和の殉教としてカトリック信徒が祈りを捧げるのは1619年,キリシタンの処刑でした。
52名が火刑に処せられました。
また,南蛮寺附属の病院で看護されていたのであろう癩病者など多くの病人や女,子どもらが竹矢来でかこわれた一ヵ所に集められ餓死させられるというむごい処刑が行われたのもまたこの河原でした。

(『京都障害者歴史散歩』 )