今年は、インフルエンザの流行が早いので今のうちかなと思ってきました。
本当に久しぶりに映画館に来ました。
テアトル梅田で見たかったのは…
「レディ・マエストロ」
上映時間が長いので途中で出てしまうかなと心配していましたが、最後まで見ることができました。
女性指揮者となるためにどれほど大きな壁が立ちはだかっていたか…
アントニア・ブリコの苦難の道を描いていました。
アントニア・ブリコも素敵だったのですが
ロビンが素晴らしかったな!
ネタバレになるのでこれ以上は書きませんが公式サイトで
ロビン役をしたスコット・ターナー・スコフィールドの経歴を読むとヒントになります。
そしてシュバイツァーがアントニアの心の支えになっていました。
パンフレットより
「本編で描かれる実在の演奏家・団体について」
アルベルト・シュヴァイツァー(1875-1965)
本編では登場シーンこそ含まれていないが、アントニアが影響を受けた精神的存在として何度も言及される高名な医学博士/神学者/音楽学者/オルガン奏者。
牧師の父から音楽の手ほどきを受け、10歳よりパイプオルガンを習う。
バッハ研究の名著『バッハ』(1905)を出版した他、生前録音したオルガン演奏が現在もCD化されている。
1949年、シュヴァイツァーはコロラド州アスペンで開催された第1回アスペン音楽祭に招待され、かねてより彼の著作と録音を崇拝していたアントニアと初対面。
翌年秋、ヨーロッパでの演奏会を終えたアントニアはシュヴァイツァーが医療活動に従事していたフランス領コンゴ(現ガボン共和国)のランバレネに向かい、数ヶ月に渡ってシュヴァイツァーの助手を務めながら、バッハや神学についての議論を深めた。
両者の親交は、1965年のシュヴァイツァーの死まで続いた。
お昼をどうしようかと迷ったけど以前に入ったお店に向かいました。
「40品目の近江野菜中心の美活健康ランチ」で
メインに「若鳥と近江野菜のうま塩煮込み」を選びました(^^)v
阪急かっぱ横丁2Fにある「花様(ka-you)」
おっちゃん一人だけの客はσ(^-^;だけだったような…
女性客が多かったです。
お腹が一杯になったので御堂筋を歩きましたp(^^)q
男女が手を取り合っているような石像があるのは
お初天神
梅新交差点を東へ渡った北側すぐのところに、菅原道真を祀る《お初天神》がある。
正しくは「露天神社(つゆてんじんじゃ)」といい、道真がいわれのない罪に問われて九州の太宰府に左遷される途中にここを通りかかり、「露と散る 涙は袖に 朽ちにけり 都のことを 思い出づれば」と詠んだところから付いたといわれる。
〝お初天神〟の呼称は、元禄16年(1703)5月に竹本座で近松門左衛門作の『曾根崎(そねざき)心中』が上演されて以後。
曾根崎心中は、その前月に天神社の境内であった醤油屋の手代徳兵衛と堂島新地の天満屋の遊女お初が心中した事件をモデルにしたもので、大入り満員の人気をとり、その女主人公の名をとってお初天神と呼ばれるようになったといわれる。
「この世のなごり、夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」――お初・徳兵衛の道行文は、近松の名声を決定づけた名文句として知られている。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』林豊 東方出版 2007年)
この遊女お初がいた《堂島(どうじま)新地》は、貞享年間(1684~88)の河村瑞賢(ずいけん)の堂島川・蜆川(しじみがわ)治水工事のよって、堂島川とその北を流れる蜆川の間に生まれた新地で、蜆川の南岸に沿って色町が形成されていた。
しかし元禄10年(16697)に堂島川の対岸(今の淀屋橋側)から米市が移転され、さらに享保16年(1731)に米仲買の株が許されて公認の米市場ができてからは、色町は蜆川を越えて北岸の《曾根崎新地》に移った。
曾根崎新地は宝永年間(1704~11)に開発され、茶屋や風呂屋、湯屋、泊り茶屋などが立ち並んでいたが、堂島新地からも青楼が移ってきて〝北の新地(北新地)〟の名で親しまれ、やがて大坂一の遊所として繁昌した。
北新地は今もなお、大阪を代表する高級歓楽街として健在だが、「高くて旨いのはあたり前。金に糸目をつけずにパッと遊ぶのが粋」とされた昔と異なり、最近ではリーズナブルな居酒屋やレストランなどもオープンし、庶民にもぐっと身近な存在となっている。
また堂島はその後、米市で全国に名を知られ、中之島とともに各藩の蔵屋敷が立ち並んだ。
米市は明治以降も米穀取引所として存在したが、昭和8年の米穀統制法の制定により営業が悪化し、14年に廃止された。
因みに堂島の名は、堂島川と蜆川の二つの川(=革)に挟まれた土地なので、鼓の筒(どう)にたとえて〝筒島〟と呼んだのが転訛したという説、二つの川の中にある〝胴島〟から転訛したという説、四天王寺の〝お堂〟の用材が台風で流れ着いたからといった説などがある。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』)
こんな掲示がありました。
「先の大戦末期
大阪駅方向より飛来したという
米軍グラマン戦闘機による
機関銃弾痕
(他方の柱にも残っています。)」
何度も来ていながら気がつかなかったなぁ…
露天神(つゆてんじん)社のしめ柱
「曽根崎心中」ゆかりの地に残る弾あと
●大阪市北区曽根崎2-5-4
●地下鉄「東梅田駅」から南へ
神社に残る空襲の傷あとは、梅田にある露天神社の社殿の前に建つしめ柱にも見ることができます。
二本の柱の下部に機銃弾によってえぐられたあとがそのまま残されていて、「先の大戦末期大阪駅方向より飛来したという米軍グラマン戦闘機による機銃掃射弾痕」と記されています。
露天神社は、「駒つなぎの樟」に名前の出てきた渡辺綱もその一員であった渡辺党という武士団が、湿地帯であった当地の開発にあたるなかで、以前からあった小さな祠(ほこら)を産土社(土地の守り神)に改めたのが起こりといわれています。
名前の由来は、菅原道真が筑紫(つくし)に左遷される途中、この地を通りすぎる時に詠んだ歌からとも、また、社前の井戸から梅雨時分には水が溢れ出たので梅雨天神となったからともいわれます。
元禄時代に、大坂内本町の醤油屋の手代徳兵衛と北野新地天満屋の遊女お初が当社境内の森の中で情死した事件を、近松門左衛門が「曽根崎心中」と題する浄瑠璃作品に仕立てて大ヒットさせました。
境内に「曽根崎心中お初徳兵衛ゆかりの地」の碑やふたりの像がつくられ、若い人たちでにぎわっています。
しかし、しめ柱の弾のあとに目をとめる人があまりいないのは残念な気がします。
(『大阪戦争モノ語り』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
水天宮
当 水天宮は寛政9年6月 大阪 中之島 久留米藩蔵屋敷内に祀られ、藩主 有馬公殊に尊崇し給いしものなり。
明治維新に際し、蔵屋敷は朝廷に返上せられ、御神霊は丸亀藩蔵屋敷の
明治42年「北の大火」の際、該社も被災し、当地に露天神の境内社として斎祀せらるに至る。
明治天皇御誕生の砌、孝明天皇其の御安産を御祈誓あそばされ、無事御降誕の後、当水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納ありしと伝える。
尚、東京水天宮は文政元年11月に御鎮座せられしものにて、当社は之れより21年以前に祀られたり。
御祭神 天之御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神他二柱。
御神徳 安産、児守護、交通安産、水関係職種の守護
(よく確認せずに「金刀比羅宮(ことひらぐう)」を「金比羅宮」と間違えました。「こんぴらさん」と覚えているので(^^;…)
御祭神に安徳天皇、崇徳天皇の名があるのに興味をもちました。
難波(夕日)神明社
御祭神 天照皇大神・豊受姫大神
社殿が西向きでありしをもって「夕日ノ神明社」とも通称されたこの神社は、平安時代初期・弘仁12年(821年)2月 嵯峨天皇の皇子 河原左大臣 源融(みなもと とおる)公が、葦草茂る中洲(現在の曽根崎1丁目付近)に皇大神宮を祀られたのが始めと伝えられている。
往時はこの地を「大神宮の北の洲」または「神明の鼻」と称し一帯をもって境内地としていた。
付近(現、西天満3丁目)の旧町名「伊勢町」の起源ともいわれる。
文治年間(1185~1189)には「源 義経公」より願書と共に寄付物が奉納されたと伝え、後醍醐天皇の御代には勅願所となり度々行幸の栄を受け、江戸期に至りては、大阪城代及び両町奉行の参拝社となり境内も広大であった。
また旧暦6月1日には、氷室に貯蔵の氷を配り「はやり病の無事息災」を祈願したという。
この神事を一般に「氷の朔日」と称し、近松の『心中刃氷朔日』の題材となったという。
かつては、西向き当「夕日ノ神明社」・
東向きの「朝日ノ神明社」・
南向きの「日中ノ神明社」をもって
「大阪三神明」として崇敬された。
しかし、天保5年(1834年)7月11日・明治42年の「北の大火」と両度被災炎上し、復興叶わず明治43年露天神社に合祀された。
現在旧社地には「神明社旧跡」の碑が建立され往時を偲ぶよすがとなっている。
「西天満神明宮」(「大日本名所図会 第1輯第5編摂津名所図会」251/380 国立国会図書館)
昨日の記事にグレタ・トゥンベリさんへの中傷が日本からも発信されていることを紹介しましたが、「レディ・マエストロ」を見ながら思ったのはグレタさんが男子生徒ならどんな反応があったのだろう
また、香港の周庭(アグネス・チョウ)さんが男子学生だったらどうなんだろうと思いました。
こんばんは~
返信削除今日は、爽やかな秋晴れで、お散歩にはいい日和りでした。
映画をご覧になった後の
>「40品目の近江野菜中心の美活健康ランチ」
に目が留まりました。
女性の方が多かったようですが、近江野菜中心といえば、おのずと女性の足が向かいますね。
若鳥もいいです。(^-^;
>お初天神
のほうへ行かれたのですね。
もう四十何年も前に、一度行ったきりです。
ほとんど忘れてしまっています。
いつもkazeさんの街散歩では、色々なことを教えてもらっています。
ほんとうにお詳しいです。
今回は、堂島に金毘羅さんがあったことを知りました。
丸亀藩や高松藩とも縁があったのですね。
いいことを伺いました。(^^)/
>米軍グラマン戦闘機による
グラマン戦闘機の話は聞いたことがありましたが、機関銃弾痕が今も残っていたのですね。
カイさんこんばんは(^^)/
削除>女性の方が多かったようですが、近江野菜中心といえば、おのずと女性の足が向かいますね。
元々は肉が大好きだったのですが…
発病以来、野菜を食べたくなっています(^_-)
「花様」は、ちょっとわかりにくい場所なのですがお客さんが多いです。
特に女性の方が(^-^)
>丸亀藩や高松藩とも縁があったのですね。
今まで、露天神社の社殿はお参りしたことはあっても
隣りにある水天宮・金刀比羅宮のことに気がつきませんでした。
今、気がついたのですが「金比羅宮」ではなく「金刀比羅宮」の間違いですm(__)m
今から訂正します(^^;
機銃掃射の弾痕の跡は意外と残っています。
紹介した本を参考にすると、こんな所にもとビックリします。