今朝は、吹く風が涼しかったです(^-^)
一方、
「北陸や北日本中心に大荒れ 暴風・高波・大雨に警戒を」(NHK)
台風が低気圧に変わっても注意が必要です。
そして気温が上昇して熱中症に注意といわれているのに
「県内の停電 一時最大3500戸」(NHK)
〝「温暖化を否定する者に隠れ家ない」国連事務総長が意見広告〟(NHK)
のニュースと
「16歳の活動家グレタさん プーチン大統領の批判に強く反発」(NHK)
グレタさんはアメリカ大統領だけでなくロシア大統領にも注目されているんだなぁ!
日本の首相や環境大臣は相手にしてもらえないだろうけど(^_-)
この時期、蜂に刺されたというニュースが度々あります。
『今昔物語』の中にこんな話が載っています。
福永武彦氏の現代語訳を転記しますφ(..)
蜂(はち)の群れが山賊を刺し殺す話
今は昔のこと、京に水銀の商いをする者があった。
長年のあいだ、せっせと商売に励んだので、財産もふえて裕福に暮らしていた。
(『今昔物語 日本の古典』福永武彦訳 ちくま文庫 1991年)
この人は伊勢の国との間をしょっちゅう往来していたが、馬百余頭に、絹や糸や綿や米などを背負わせて、その番には、小さな童を数人つけて馬を追わせるだけであった。
すでに年老いていたが、それまでに盗賊に紙一枚取られることもなく、いよいよ富み栄えるばかりだった。
それに火難や水難にあうこともなかった。
この水銀を産する伊勢の国というのは、たとえ親子の仲でも物を奪い取り、また親疎を問わず、貴賤を選ばず、互いに相手の隙をうかがいだまくらかして、弱い者の持ち物を取り上げて自分の財産とするような、欲ばりな人間が多かった。
それなのに、この水銀商人が昼も夜もこの国を通って旅行しているのに、どういうわけか、物を取られることの一度もないのがふしぎであった。
ところでここに山賊に一団があり、同勢八十余人、鈴香山にたむろして往来の旅人の持ち物を奪い、公私の別なく財宝を取り上げたうえ、犠牲者を殺してしまった。
その悪業が多年にわたったが、お上が追捕(ついぶ)の手をのばすこともなく、依然として鈴香山に陣取っていた。
そこにこの水銀商人が、伊勢の国から京へ上る途中さしかかった。
馬百余頭にさまざまの財産を背負わせ、いつものように童たちにその馬を追わせて、食事の支度をする女たちをも連れていた。
八十余人の山賊どもは、これはありがたい獲物が引っかかった、まるまる頂戴しようとばかり、山の中で前後を挟み打ちにして、大声をあげておどかしたから、童たちはたちまち逃げてしまった。
そこで山賊どもは、荷を背負った馬は追いかけてその荷を奪い、女たちは着ている衣をみな剥ぎ取って、裸のまま捨ててしまった。
(キセキレイ)
水銀商人は、浅葱色の打衣(うちぎ)に、青黒の打狩袴(うちかりばかま)を着て、綿の厚い練色(ねりいろ)の衣を三枚ばかり重ね、菅笠(すげがさ)をかぶり、草刈馬にまたがっていたが、危いところをようよう逃れて、小高い丘の上にのぼった。
山賊どもも遠くらからそれを認めたが、あんな奴はたいしたことはないだろうと高をくくって、みなみな谷間にある巣窟(そうくつ)にはいった。
そこで八十余人が働きに応じて獲物を分配したが、追手の来る気遣いがないから、平気なものである。
一方、水銀商人は一段と高い丘の頂きにあって、たいして気を留めている様子もなく、空のをほうを見上げながら、大きな声で、
「どこにいるんだ? 早く早く」
と呼んでいる。
ものの半時(はんとき)ばかりも経(た)つと、大きさ三寸ばかりもある恐ろしげな蜂が、空から舞い下りて、ぶぶぶ、と唸りながら、そばの高い木の枝にとまった。
水銀商人はこれを見ると、いよいよ熱心に祈りながら、
「早く早く」
と言う。
と見るまに、雲一つなく晴れわたった大空に、二丈ばかりの長くつながった赤い雲が、たちまちにして現われた。
街道を行く人たちも、おかしな雲が出たぞ、と思って見ているうち、しだいにその雲が下って、山賊どもが獲物の後始末をしている谷間へと下りて行った。
そばに木にとまっていた蜂も、飛び立ってそちらへ飛んで行った。
つまりこの赤い雲と見えたのは、蜂の大群なのであった。
谷間にいた山賊どもに、蜂がむらがり襲った。
一人に百二百の蜂がついたのでさえ、そても助かるものではない。
それを一人に二百三百とくっついたのだから、少々は打ち殺しても、結局は一人残らず刺し殺されてしまった。
そこで蜂は全部飛び去って、空はまた前のように晴れわたった。
水銀商人はその谷間に下りて行き、山賊どもが日ごろ貯えていた財宝をはじめ、弓、矢筒、馬、鞍、着物などをすべて没収し、京へと帰った。
そこでいよいよ富み栄えた。
この水銀商人は、家に大きな酒樽をつくり、そこで醸(かも)した酒を他には使わず、もっぱら蜂に飲ませて、大事に養い育てていた。
それゆえ、この人の物を取ろうとする盗賊もいなかったのだが、事情を知らぬ山賊どもがつい手を出して、このように刺し殺されたものである。
蜂でさえも物の恩を知るのである。
心ある人は、他人から恩を受けたなら、必ず報いなければならない。
また、大きな蜂を見かけたら、けっして打ち殺してはならない。
このように仲間を連れて来て、きっと恨みを返すものだ、という話である。
(巻廿九第卅六話)
(『今昔物語 日本の古典』福永武彦訳 ちくま文庫 1991年)
古代伊勢国は水銀産地として第一級であった。
『続紀』文武2年(698)9月、伊勢から朱砂(水銀の原料)・雄黄を献ぜしめ、和同6年(713)5月、調として伊勢に水銀の進上が定められており、『延喜式』民部・下に、水銀四百斤、典薬寮の「諸国進年●雑薬」の項、伊勢物産のうちに水銀十八斤が記されている。
治承4年(1180)東大寺が兵火に焼けた後の復興に、伊勢の住人大中臣氏は水銀二万両を貢上した。
十七―十三話には飯高(いいたか)郡の水銀掘りが水銀鉱で生埋めになる話を載せるが、飯高郡丹生(にゅう 後の多気郡勢和町)は主要鉱山の所在で、水銀をめぐる丹生(にふ)神社・丹生中神社・神宮寺(丹生大師)があって空海との結縁の伝承があり、丹生(にふ)千軒と呼ばれる聚落の賑いがあった。
しかし『重訂本草綱目啓蒙』などによると、江戸期には伊勢水銀の産出はなく、輸入した朱砂からの水銀製造のみが行われていた。
松田寿男『丹生の研究』に詳しい。
(「諸国進年●雑薬」の「●」は「米+斤」)
(『新潮古典集成 今昔物語集 本朝世俗部四』
阪倉篤義他校柱 昭和59年)
蜂の報恩譚は民話に多い。
『十訓抄』一・六には、大和の余五大夫が妻、敵に破られて岩屋に逃げた時、蜘蛛の囲(い)に懸かった蜂を助け、その仲間の群の助力で敵を討つ話を載せる。
―蜂はまた、しばしば、神使として語られる。
東大寺羂索(けんざく)院執金剛神(しゅうこんごうじん)の(『東大寺要録』『扶桑略記』など)、日吉山王の(『山王利生記』)、伊吹の(『武智麿伝』)、味舌(まじた)寺観音の(『摂陽郡談』)、東南院鎮守二荒(ふたら)明神の(『東大寺縁起』)。
それらの蜂は、それらの神(仏)の、あるいは国家の敵である賊を討った。
執金剛神の蜂は平将門を、味舌寺の蜂は官軍の祈りに応じて天平の賊を、殺したという。
『捜神後記』、宗の元嘉元年、建安郡の寺に押し入った山賊は、法衣入れの竹籠から湧き出た幾万の蜜蜂に螫(さ)し殺された。
(『新潮古典集成 今昔物語集 本朝世俗部四』
阪倉篤義他校柱 昭和59年)