2019年10月16日水曜日

青空だけど…

今朝は青空が広がっていて気温は低かったのですが、風がなかったので気持ちよく歩けました。
でも被災地は「避難所 寒さ対策が課題」(NHK 東北)など大変です。
また、水などが充分でないので
台風被災地 “結膜炎に注意を” 粉じんや土ぼこりで 眼科医会」(NHK)
などさまざまな問題が発生すると思います。
ここ数日、台風の影響と気温の変化に体調を崩していました。
一時孤立の特別養護老人ホーム 200人余を無事救助 埼玉 川越」(NHK)
無事救助されてよかったのですが、体調を崩された方も多いのではと心配です。
2011年3月11日に海より津波が押し寄せ、今度は、山より濁流が押し寄せてきた。
昔から東北の人々は自然の脅威にさらされてきた。
無罪判決を言い渡した東京地方裁判所の裁判官は、
人びとの過酷な歴史を無視した判決でもあると思っています。
原発事故 無罪判決 遺族の思い かなわず」(NHK)

原発事故刑事裁判 なぜ無罪判決か」(時論公論 NHK)

植物のビーズ「ジュズダマ」と暮らす〟(鹿児島大学総合研究博物館)
日野原重明さんの『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』より
死を受容した十六歳の少女―担当医としての最初のハプニング」の続きを転記しますφ(..)
昔の大学病院
 さて当時、まだ新築後新しかった戦前の京都大学の附属病院南病舎に話は帰るが、私が主治医になった16歳の女工さんは、あるとき、日曜日にも出勤する真面目な私の同僚の医師に、「日野原先生は、日曜日だけはいつも病院に来られないのよ」と、寂しそうに述べたという話を聞いた。
不思議と日曜日には、彼女は高熱と腹痛で苦しんだ。
それに対して当直医は、モルヒネ剤を注射すると習慣性になり、いざという時に効かなくなるといって、あまり効果のないルミナールという鎮静剤を注射していたようである。
入局後まもない駆け出し医は、指導医から、どんな患者にも、モルヒネはできるだけ使わないようにという指令をうけていた。
病気がいよいよひどくなって死がせまっていても、医師は、あたかも患者があと何年も生きる望みがあるかのように、モルヒネ剤の注射をくり返すことはこばむことが多かったのである。
(『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』日野原重明 中公新書 1983年)
 私の尊敬する内科学の大家のウィリアム・オスラー教授( William Osler, 1849-1919 )は、70歳で死亡する前、ひどい咳発作で悩まされたが、モルヒネの内服がいかに効果的な鎮咳(ちんがい)、鎮痛作用を示すかを実感され、自分で書いた病床日誌には、「この薬こそ、天から与えられた恵みの薬だ」といっている。
この薬が薬用に使われてから、もう何百年も経つが、死のせまった臨死患者には、これは他にかけがえのないよい薬で、最近は、ブロンプトン混液といって、麻薬を適量配合して、痛みのひどくなる前に早目早目に少量ずつ飲ませるという方法が末期患者にはよくとられている。
 この少女の母親は熱心な仏教信者であり、娘の病気の治ることを願って、工場への行き帰りにお寺におまいしりしていた。
娘も母親に似た信仰をもっていたことがあとでわかった。
少女は、私の日曜日の行動については、直接なにも聞くようなことはなかった。
 7月に入るとむし暑い炎天がつづき、彼女の容態はますます悪くなった。
日曜日ごとに母親は見舞いにきて、食事をとらない彼女を激励した。
私が日曜日にはこないことを彼女が寂しがり、日曜日がくるのがいやだともらしたことを、彼女がひどく苦しい日曜日を過した翌日に、私が同僚から聞かされたのはこのころであった。
私はそこで、今後は、日曜日でもかならず病棟に先に寄り、患者に顔を出してから教会の礼拝に出かけることを決心して、その次の日曜日からは、これを実行した。
その習慣は、その後の40年あまりの私の医師の生涯中つづいた。
死を受容する少女と私
 7月下旬の、ある日曜日の朝のことである。
彼女の容態は、早朝からひどく悪化し、嘔吐がつづき、私が彼女の病棟に出かけたとき、彼女は腸閉塞の症状を示し、血圧は下り、個室の重症室に移された。
彼女の苦しみを止めるには、モルヒネの注射しかなかった。
私は、いつもの2倍の量を注射して、彼女の苦しみが軽くなることを願いつつ、彼女の弱くなっている脈拍を数えていた。
私はときどき、彼女を手を意識的に強く握り「今日は日曜日だから、お母さんが午後からこられるか頑張りなさいよ」と激励した。
 そのころは、今日私たちが行っている高栄養輸液や、静脈内点滴ブドウ糖輸液といった方法はなく、口から何もとれない患者には、一日に一回くらい、左右の大腿に太い針を同時に刺して、500㏄の生理食塩液を皮下注射したものである。
脱水状態の患者には、500㏄くらいの液を30分で注入し終るが、注射の局所が腫れあがるので、暖めたタオルで大腿をくるんで軽くマッサージをするのが当時の看護婦のつとめであった。
そのことによって局所の皮下にたまった水分を早く拡散させて腫れをとり、痛みをとる作業である。
少女は、私がモルヒネを注射するとまもなく、苦しみがすこし軽くなったようで、大きな眼を開いて私にこういった。
「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生にきていただいてすみません。でも今日は、すっかりくたびれてしまいました」といって、しばらく間をおいたのち、またこうつづけた。
「私は、もうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います」と。
 そうして、そのあとしばらく眼を閉じていたが、また眼を開いてこういった。
「先生、お母さんには心配をかけつづけで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく伝えてください」。
彼女は私にこう頼み、私に向かって合掌した。
私は一方で弱くなってゆく脈を気にしながら、死を受容したこの少女の私への感謝と訣別の言葉に対して、どう答えていいかわらず、「安心して死んでゆきなさい」などとはとてもいえず、「あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくなんてことはないから元気を出しなさい」といった。
そのとたんに彼女の顔色が急に変ったので、私はすぐ病室から廊下に出て、大きな声で看護婦さんを呼び、血圧計とカンフル剤を持ってこさせた。
ピタカンファーを一筒皮下注射し、血圧を測ろうとしたが、血圧はひどく下り、血管音はもう聞けなかった。
 私は眠ったような彼女の耳元に口を寄せて大きく叫んだ。
「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」と。
 彼女は、急に気づいて茶褐色の胆汁を吐いた。
そしてそのあと、二つ三つ大きく息をしてから無呼吸になった。
私は大急ぎで彼女のやせた左の乳房の上に聴診器をあてたが、狼狽した私の耳に、心音をとらえることがもうできなかった。
こうして彼女は永遠の眠りに入った。
これは、私が今日まで40年あまりにわたる臨床医としての生涯のなかで、死をみとった六百名あまりの患者のなかで、私にとって死との対決の最初の経験であった。
死にゆく患者への対応
 私は、いまになって思う。
なぜ私は、「安心して成仏しなさい」といわなかった?
「お母さんには、あなたの気持を充分に伝えてあげますよ」となぜいえなかったのか?
そして私は脈をみるよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか?
 それからは、受け持ちの患者が重い場合には、日曜日でもかならず病院に出かけて患者を一度は診ることが習慣化した。
これが臨床医の第一の義務であり、また特権でもあると思う。
 死を受容することはむつかしいという。
しかし16歳の少女が、死を受容し、私に美しい言葉で訣別したその事実を、私はあとからくる若い医師に伝えたい。
医学が、看護がアートであるということは、このような死に対決できる術(すべ)を、医学や看護に従事するものがもつことをいうのではなかろうか。
 癒すことはときどきしかできなくても、和らげることはしばしばできる。
しかし、病む人の心の支えとなることは、医師にも看護婦にも、いつもできることではないか。
それを私たちはやっているのか、そのための時間を患者に与えているのか。
ではどう慰めるのか。

   To cure sometimes
   To relieve often
   To comfort always

これは古き時代の西洋のすぐれた臨床医が遺した言葉だという。
それは、近代外科学の父といわれるフランスのアンブロワズ・パレ( Ambroise Pare', 1517~1590 )だとの説もある。
(『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』日野原重明 中公新書 1983年)
死をどう生きたか 私の心に残る人びと』を中公新書より転記しましたが
文庫本には「亡き妻への追憶を初めて文章にして加筆」されているそうです。
今朝の父の一枚です。
黄色いコスモスの中にポツンと色違い(*´▽`*)

〇 〇 〇 〇

午後から病院で心臓リハビリです。
医療費削減でリハビリの期間が決められています。
でも、今回のように体調を崩したりした時に、不安な気持ちを理学療法士の方に聞いてもらうと気持ちが落ち着きます。
また、必要なら主治医の先生に連絡をとってもらうこともできます。
以前、主治医の先生がリハビリ室に来てくださって様子を見て下さったこともあります。
日々体調に変化がありますが、安心して外に出ることができます。
結局、リハビリを受けることで医療費が削減できるのではと思っています。
心筋梗塞後、2度入院しましたが、循環器科でなく外科の疾患でした。

30分間の歩行距離は2.16㎞、消費カロリーは130kcalでしたp(^^)q
理学療法士の先生に話していたのは、今回、ラグビーワールドカップで外国からの訪日者にどんな避難誘導ができたのかなと…
去年は関西空港で大勢の旅行者が缶詰めになった。
来年、オリンピックが開催されるけど、自然災害の頻発する日本なのにその対策は万全なんだろうか?
また、
台東区長、ホームレス拒否で謝罪 台風避難所、「対応が不十分」〟(東京新聞)
台東区では外国人も拒否されていたんだろうなと思う。
この時の対応とTwitterの反応が世界に発信されている。
Typhoon Hagibis: Homeless men denied shelter in middle of typhoon」(BBC)