2019年10月22日火曜日

雨が上がって…

昨日からの雨も止んでくれたので出かけました。
今日は、どこの局も同じ番組だったけど
1時からの天皇陛下のお言葉と雅子さまの姿を見ただけです(^^)v
雅子さまが「御帳台(みちょうだい)」からお姿を見せるまでドキドキしていました。
最近、お忙しく御公務を務めておられるので、頑張りすぎではと心配しています。
即位礼正殿の儀 天皇陛下おことば全文」(NHK)
志村昌司さんが

今日はいよいよ「即位礼正殿(せいでん)の儀」。
やはり天皇の装束の黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)、皇后さまの十二単に注目しています。
黄櫨染はめったにみることができない禁色。
染め方も複雑で、光のあたり具合で色が変化するというもの。
染織にたずさわるものならば、一度はみたい色です。


と呟いておられたので楽しみにしていました。
こうろぜん 黄櫨染
 櫨(ろ)に蘇芳(すおう)を加えて染めた赭黄色の名称。
天皇特有の束帯の袍(ほう)の位色。
嵯峨天皇の弘仁11年(820)の制定(『日本紀略』)によるが、『旧唐書』輿服志に唐制の天子の衣服に「其常服赤黄袍」とある色に依拠したのであり、この色の使用はなお現在も存続している。
ただこの色の深浅・明闇、赤みがち・黄みがち・青みがち・黒みがちなど、染材の配合・媒染・熱度、染め付の度数、上掛(うわがけ)、素地の練絹・生絹などの相違によって同一ではない。
総体に若年は黄みがち、壮年になるにつれて赤みがちとすが、好みもあり、近世の歴代遺品に参看しても各種ある。
それで『餝抄』上に麹塵(きくじん)を「天子常着御、称黄櫨染」とするような誤解が生じている。
麹塵は刈安に紫を加えて染めるのであり、青色ともいい、青白橡(あおじろつるばみ)ともいう。
この誤解による混乱は、ときに室町時代の装束抄にもみられるので注意を要する。
京都太秦の広隆寺の歴代天皇進献の遺品によると、後西・東山天皇の袍は黒みのある黄櫨、中御門天皇以降は濃厚はあるが赤黄みのある黄櫨で、後桜町・光格・仁孝天皇と次第に淡色となり、明治天皇以降、再び濃くなっている。
(鈴木敬三)
(『有識故実大辞典』鈴木敬三編 吉川弘文館 平成7年)
10月22日 
 桓武天皇が平安京に移った。 794(延暦13)年

 77年間もつづいた平城京から、長岡京に都が移されたのは784年。
そのときはまだ都造りの途中であった。
ところが翌年、都移りを主張した藤原種継(たねつぐ)が暗殺されるなどの暗い事件がつづいたため、和気清麻呂(わけのきよまろ)の献言によってまた新都に移ることとなった。
この日、桓武天皇の乗った車駕(しゃが)は新京に入った。
造都の事業はまだなかばであったが、内裏(だいり)を初めとする都の規模は壮大で平安京と名づけられ、国名も「山背(やましろ)」が「山城(やましろ)」と改められた。
 これ以後明治維新に至るまで、平安京は千年以上も日本の都であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二 1979年)

10月22日 平安遷都の日」(なるほど統計学園 総務省統計局)

令和元年の時代風俗行列は10月26日に変更されました(平安神宮HP)。
昨夜の逆転人生「中国のカリスマ日本語教師 涙の青春スピーチ」
見ていて目がかすんでしまいました。
国同士は親の喧嘩、それを子どもたちが不安な気持ちで見ていると話されていた。
国際関係でギクシャクした時でも繋がりあえる人たちがいる。
再放送はNHK総合で10月28日(月)午後3時8分からです。

<こころ>の定点観測』より
なだいなださんの
「社会が病むということ――個人の異常と社会の異常
の続きを転記しますφ(..)
 「個人の場合も、《行動》、あるいは《言動》で、くるっているとまわりの人間が気づくことが多いのです。気付くのは本人ではない。外側の人間です。本人は病識を持ちません。まわりの人間が、かれは変なことをいう、やることがおかしい。そう思って医者のところに連れてくる。それはおわかりでしょう」
 「ええ」
(『<こころ>の定点観測』なだいなだ編著 岩波新書 2001年)
 「本人が気がつかないのは、(常識と呼ばれる)判断の基準そのものがくるうからです。川に流されている人間が、川の流れに気がつかないようなものです。社会のくるいはその外側の社会に身を置かないとわからない。しかしなかなかそれができない。だからくるいに気がつかない」
 (ヒイロタケ?)

 記者はぼくに質問した。
 「社会の外側に身を置くとは?」
 「いちばん簡単なのが、外国で生活し、その社会の常識を身につけ、その常識のもとに日本を見る場合です。多くの海外居住者は、遠くから今の日本を見ておかしいと思う」
 「それはわかります。じゃあ、日本にいてはわからないのですか」
 「そんなことはありませんよ。ぼくはなぜくるっているというのか。想像力を働かせればいいのです。かつての日本の常識に身を置けば、現在の日本のくるいに気がつきます。保守派の人が今の日本はおかしいと感じるのはそういう理由からです。かれらは今の日本はくるっていると感じ、むかしに戻そうとします」
 「保守派の考えがあるのなら当然進歩派の考え方がありますね」
 「ええ、かれらはこうあってほしい社会に身を置き、今の日本はくるっていると考えるのです」
 「なるほど、進歩派は、今の社会はくるっているから、直して理想に近づけようという」
 「そうです」
 「じゃあ、個人の治療をするのが精神科医なら、社会のくるいをなおすのは政治ということになりますか」
 「いや、社会自身です。個人のくるいを病気と見て治療するときも、医者が治すのではない。あくまでも主役は本人なのです。ヤスパースも、精神療法論のなかで、シェイクスピアのマクベスの中の医者の言葉を引用していっていますよ。主役は本人だと。ミニスターするのは本人しかないと。ミニスターという言葉を使っていますが、ミニスターとはあの大臣という言葉と同じです。直訳すれば、自分を治めるのは自分だ、ということになりますか。あくまでも患者が主役でであり、それを手助けするのが医者だと。社会も自分のくるいに気がついて、治していかねばならない。ま、右と左が押し合いながら社会の変革をしていくのは、自己治療をしているといってもいいでしょう」
 「で、日本の社会はそれに気がつくことができるのでしょうか」
 「病気が治ってくると、病人はあの時自分はおかしかったな、とわかるようになる。病識が出始めるのですね。それと同じで、過去のくるいには、社会も気がつくことができます。あのときはくるっていたな、とわかるのです。たとえばバブルの時代を思い出してください。あの時代はくるっていたとあなたも思うでしょう。女祈祷師に、フィリピンの国家予算にあたるような巨額の金を、エリートの集まりである興銀のような銀行が投資したんです。くるっていたとしか思えない。しかも彼女が祈禱して、これが上ると予言した株を買ったのですから、ばくちに金をつぎ込んだようなものです。それを重役までが投資だと思っていた。今から見れば、日本の代表的な大銀行が、そんな融資をしていたなんて信じられないでしょう。くるっていたとしかいいようがない。今ならわかります。でも当時は病識がなかった」

   *

(『<こころ>の定点観測』なだいなだ編著 岩波新書 2001年)