2019年10月18日金曜日

龍谷ミュージアム~五條天神社~菅大臣神社など

天気が悪くて体調はいま一つですが、思い切ってやってきました。
七条大橋を渡ると前回(2019年6月1日)気がつかなかった神社が
松明殿稲荷神社(たいまつでんいなりじんじゃ)
 伏見稲荷大社の境外(けいがい)末社で田中社ともいう。
 平安時代の天暦(てんりゃく)2年(948)に創始され、社名は、同10年(956)、勅(みことのり)により燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火(たいまつ)殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられる。
また、江戸時代に出された「都名所図会(みやこめいしょずえ)」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、当神社の氏子が松明(たいまつ)をともしてその神輿(みこし)を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
 はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永8年(1711)現在の地に移ったとされる。
 大己貴命(おおなむちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神とし、天智天皇像(木像)及び大友皇子像(木像)を安置する。
また、境内西側には、五条坂の安祥院(あんしょういん)の僧で、日ノ岡峠の改修、亀の水遺跡などで知られる江戸時代中期の僧・木食正善(もくじきしょうぜん)養阿の銘のある手洗石及び井戸がある。
  京都市
宝暦二年 夏
木食正禅 養阿上人寄贈 
手洗 石井戸 


木食正禅養阿(もくじきせいぜんようあ)については、
安祥院を訪ねた時の記事を参考にしてください(2015年7月23日)。
東本願寺(真宗本廟)を今回も素通りして…
京都のランドマーク「京都タワー」を左に見て…
道を渡れば西本願寺(龍谷山本願寺)なんだけど…
龍谷ミュージアム」にやってきました(^^)v
特別展「日本の素朴絵 ―ゆるい、かわいい、たのしい美術―」を見たかったのです。
展示物は撮影禁止なので写せませんでしたが、ゆっくり、ゆるく楽しめました(*´▽`*)
なんとこの日、特別展「日本の素朴絵」の入場者数が1万人を突破!
鷲田清一さんがこんなことを書かれています。

(…略…)
 子どもの頃は変ともおもわなかったが、その小学校(醒泉小学校)の裏に、一丁目から何丁目までだが、奇妙な名前の路があった。
「天使突抜」。
名の由来は知らぬが。
が、この世界を天使がそそくさと通り抜ける「天使通抜」では断じてなく、この世界を垂直に突き抜ける「天使突抜」なのだ。
そう、哲学者・九鬼周造のことばを借りて言えば、「垂直のエクスタシス」。
なんとも過激な名前だとおもう。
 この「天使突抜」の東は西洞院通。
六間ほどの幅のこの路を軒すれすれに、昔、チンチン電車が走っていた。
じぶんの住む町で遊ぶのがいやで、学校が終わるとすぐにその場所に行き、一円硬貨をチンチン電車のレールに置いて、さてどれくらい大きな極薄の円盤を作れるか、それを友だちと競った。
(『京都の平熱―哲学者の都市案内』鷲田清一 講談社学術文庫 2013年)

醒泉(せいせん)小学校 2017年閉校
天使突抜一丁目(てんしつきぬけいっちょうめ)(下京区)
 南北に通る東中筋(ひがしなかすじ)通をはさむ両側町。
町の北側は天神前町(てんじんまえちょう)に、南側は万寿寺(まんじゅじ)通に接する。
北側に位置する天神前町には五条天神社(こじょうてんじんしゃ)(天使社<てんししゃ>)があり、天正18年(1590)豊臣秀吉による京都改造の一環として、五条天神社の境内地を拓き新しく南北に通る街路を通した。
そのため、新街路は「天使突抜通(現在は東中筋<ひがしなかすじ>通)」と称され、その新路をはさんで形成された両側町(りょうがわちょう)を、北から天使突抜一丁目・天使突抜に丁目(南は五条通まで)・天使突抜三丁目(南は楊梅<ようばい>通まで)・天使突抜四丁目(南は六条通まで)と称したとする(『京都坊目誌』)。
ただし、天使突抜四丁目に限っては、「しのむら町」との異称も記録されるが、詳細は不明。
江戸時代前期の地図『寛永十四年洛中絵図』では「天使壱丁目」、『京都図屏風』や寛文5年(1665)刊行の『京雀』では「天子のつきぬけ」と記され、「突抜」の有無の違いはあるが、宝暦12年(1762)刊行の『京町鑑』に至り、現地名と同じ「天使突抜一町目」としてみえる。
(『京都の地名由来辞典』源城政好、下坂守編著 東京堂出版 2005年)
北鳥居は、民家に挟まっているような…
狛犬の台座を見ると母の生まれた年が刻まれているなと見ていたら
女性が出てこられて「五條天神社(天使社)由緒略記」をくださった!(^^)!
由緒略記を読んで「昭和八年十月」と刻まれている訳が分かりました!
五條天神社(天使社)由緒略記

鎮座地 京都市下京区西洞院通松原南入

祭 神
大己貴命(おおなむちのみこと)(大國主命<おおくにぬしのみこと>で少彦名命と共に國を治める)
少彦名命(すくなひこなのみこと)(医薬の祖神)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)(健康、太陽の神)

 光仁帝大和の宇多に祀られしを、桓武帝奠都の際平安城五条の地に移し給ひ天使の宮と崇め給ひ尊信最も深し、後鳥羽院の御時五條天神宮と勅称あらせられる。
往昔は松原通りは当時の五条通りなりしを以てなり、高倉院の頃、世に伝えられる牛若丸と弁慶との出合の地は此の五条の森なりと云ふ。
 当時の境内は東西四丁、南北五丁あり非常に広く社殿もまた広壯なりしも度々の災火により、幾変遷を経て、元治元年甲子の兵火に烏有に帰す依て孝明帝御金六十両を下賜せらる氏子及信徒は帝の御心を畏み宮殿を造営したりき。
 ついで明治21年幣殿を再建す爾来星霜を経るに及び御本殿大破し雨露を凌ぎがたく昭和8年10月御本殿を始め諸建物を改築し、また、平成4年にも本殿御屋根の修復を始め、末社の新造、境内を整備し、現在に至る。
祭神は医薬禁厭(えん)を始めさせ給ひし神なる事を以て其の恩頼(みたまのふゆ)により此の社に詣で特に節分には宝舟等を求むること盛に行はれ明治以後に於ては厄徐の為参詣する者多し。

祭日
 例 祭 5月10日
 氏子祭 10月第2月曜日(体育の日)
 節分の日
(原文通りではありません。他も同様です)
天満宮降誕之地」と石碑があるのは…
菅大臣神社 道真が生まれた菅原家の宅地跡
 仏光寺(ぶっこうじ)通の新町(しんまち)通を西へ入ったところが菅大臣町であるが、その中央南側に菅大臣神社への入口になる鳥居がある。
ただし本殿は西を向いていてその正面の西洞院(にしのとういん)側にも門がある。
こちらが正門に当たるのであろう。
菅大臣町から境内を突き抜けた境内の南にも南口がり、ちょうど道路に囲まれた一町四方の町家群の真ん中の空閑地に神社の建物があるという格好になる。
三方の入口とも、両側に民家に挟まれて鳥居があり、そこから境内に入ると意外と広い敷地で、その静かなたたずまいに驚かされる。
 14世紀初頭にはすでに存在したことが確認できるこの神社は、本来これより北一町の地にあり、現在の菅大臣神社の敷地(白梅殿といわれる)には道真の娘で宇多天皇の女御(にょうご)であった衍子(えんし)が祀られ、「尼神社」(雨神とも阿米神とも)とよばれていた。
ところが、元禄年間(1688~1704)ごろになって北にあった菅大臣神社が当地に移転し、紅梅殿とよばれる元の場所には道真の父菅原是善を祀る北菅大臣社が置かれるようになった。
これが現在の社殿の配置である。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)
都名所図会 菅大臣社」(国際日本文化研究センター)

 安永9年(1780)に刊行された京都の絵入ガイドブックである『都名所図会(みやこめいしょずえ)』には、当社の境内が西側から描かれている。
手前に見える、堀になっている川が西洞院川で、現在はないが、明治初年までは流れていた。
境内には、これも現在はない元三大師堂(がんざんだいしどう)が見え、神仏習合の様子がうかがえる。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)
狛犬(こまいぬ) 境内を守る左右一対の架空動物
(略)
参道や拝殿の前に左右一対で置かれている狛犬は、邪を除け神前守護の意味を持つ。
 日本では、宮中の清涼殿に狛犬が置かれたのが起源。
それが平安から鎌倉にかけて神社の社殿にも置かれるようになり、江戸時代になって参道など外に置かれるようになったと伝えられる。
 狛犬の起源は、エジプトやインドのライオン。
日本へは中国から朝鮮半島を経て、「獅子(しし)と狛犬」の一対として伝わった。
当初は社殿から見て左側に獅子を、右側に狛犬を配置したが、現在ではその差が認められない。
またいつしか両方とも狛犬と呼ばれるようになった。
「高麗(こま)犬」とも書くのは、朝鮮半島を経由したことを意味している。
 参道に置かれている狛犬は、殆(ほとん)ど石で作られ、左右一対。
一方が口を開け、他方が口を閉じる「阿吽(あうん)」の形式が一般的である。
昔の石工(いしく)たちのさまざまな意匠や工夫の跡が楽しめる。
(『歴史がわかる、腑に落ちる 神社の見方』
  外山晴彦・『サライ』編集部編 小学館 2002年)
 牛は中国では古くから穀神とされていたのでその信仰が伝わり、牛頭(ごず)天王など牛神の信仰や、京都の太秦(うずまさ)の広隆寺の牛祭りなどに遺っている。
また菅原道真の結びついた天神信仰でも牛が重んぜられ、信心の対象となり、天神の社には臥牛の像が奉納されている。
これを牛石といい、それを撫でて病気平癒などを祈願する民俗もあった。
また商家などでは陶製の牛の置物を祀り商売繁盛、家内安全を祈ってこれを撫で、吉事があればその度に布団を重ねる風習があり、その牛を撫牛と呼んだ。
 牛の腹中から石が出ることがある。
これは鮓答(さくとう ベゾアル・ストーン)の類で、牛黄(ごおう)、うしのたまと呼ばれ、霊物とされていた。
(『日本史小百科14 動物』岡田章雄 近藤出版社 昭和54年)
北菅大臣神社 道真の父・是善以来の菅原家の邸宅跡
 もとこの地は紅梅殿といわれ、道真の父是善(これよし)以来の菅原氏の邸宅のあったところである。
紅梅殿の名は、道真が大宰府に左遷されるとき、邸内に植えられていた梅の花との別れを惜しんで「東風(こち)吹かば匂(にお)い起こせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」という和歌を詠んだという有名な逸話にちなむのであろう。
菅家邸内には「菅家廊下(かんけろうか)」とよばれる廊下があり、多くの学生がこの場所で学び、多くの人材を出したことで知られる。
現在は南側に祀られている菅大臣神社は、江戸時代前期まではこの地にあったといわれ、南の敷地に移された後は、道真の父是善を祀ったという。
(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)
綾西公園は紅梅殿の一部だったそうです。
誕生井」があるというので探したのですが、初め分からなかったので
念のために締まっている戸の隙間から見るとありました。
破損がひどいために閉鎖しているようです…

本殿の南側に道真の産湯に使った水を汲んだという誕生井がる。
明和年間(1764~72)に建てられた碑がある。

(『京都を愉しむ 菅原道真の史跡をめぐる』五島邦治 淡交社 2019年)
通りすぎてしまいそうな…
丹波国(たんばのくに)亀山藩京屋敷跡(かみやまはんきょうやしきあと)
中野之町(なかののちょう) 亀山稲荷神社(かめやまいなりじんじゃ)

 江戸前期に当地は、間口11間、奥行30間の芸州広島藩42万石、浅野氏松平安芸守(あきのかみ)の京屋敷で、その後1730年頃、丹波篠山(ささやま)藩5万石、形原(かたはら)松平紀伊守信岑(きいのかみのぶみね)の京屋敷となる。
信岑は寛延元年(1748)丹波亀山藩5万石に転封になる。
以降歴代亀山藩主は幕府の要職に就き、京都火消役にもなり譜代大名として京都監視の重責を果した。
新政府となった慶応3年には京都市中(しちゅう)取締役を務め、明治2年版籍奉還の時に藩名を亀岡と改称した。
明治3年2月当京屋敷は民有地となる。
明治7年にはこの京屋敷三棟は、稲荷焼で類焼した修徳小学校の仮校舎にも使用された。
明治25年、京都市第二高等小学校校舎の建設時まで存続した。
 亀山藩京都松原邸の鎮守の神として祀られていたのが亀山稲荷で、祭神は白瀧(しらたき)大明神と花月(かげつ)大明神である。
昔は両祠があり、江戸期より衆人に尊崇され亀山講も存した。
明治以降は、中野之町が奉祀する。
大正5年の旧亀山藩士族有志の碑も存する。
往時より正月祭、初午祭、火焚祭を執行する。
その霊験(れいげん)は諸厄除災、商売繁昌、家庭円満に灼(あらた)かと伝える。
   中野之町
繁昌社(はんじょうしゃ)
 繁昌社の祭神は宗像三女神、田心姫命(たぎりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)である。
三女神は、海上交通の神で、商品流通の守護から「市の神」として信仰されている。
江戸時代には、功徳院と号し、真言宗の僧によって管理されていたが、明治の神仏分離により神社だけが残った。
 当社はもと「班女ノ社」とも、「半女ノ社」とも称し、牛頭(ごず)天王の妃針才女(はりさいじょ)を祀り、それが転訛し班女になったと伝える。
 また、「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」巻三の中に、「長門前司の娘が亡くなった後、遺骸を運び出そうとしたが動かず、塚になった」と記す。
この塚が、社の北西方向(仏光寺通に抜ける小路の中ほど)に現在も残っている「班女塚」だと伝える。
 後世の書物に、「班女と繁昌は同音の為、男女参拝し子孫繁栄を祈願する」と書かれ、縁結びの神として詣でられる他、市杵島姫命は仏教の「弁財天」と解されることから、商売繁盛・諸芸上達の利益があるという。
  京都市
お参りを済ませて振り返ると…
織部灯篭なんですが、葉をよけると地蔵様のような姿が彫られている。
否定される方もおられるのですが、キリシタン灯籠のように思いました。
京都を歩いていると思わぬところで出会うことが多いです。

京都にあるキリシタン灯籠の場所を知りたい。」(レファレンス協同データベース)
最近の町歩きの定番になっているのはカレー(^_-)
歩いている途中で、体調が悪いな…
冷汗も出てきたなぁと不安になったのですが
美味しい牛すじカレーのおかげか元気になりましたp(^^)q
木喰明満(もくじきみょうまん)作 「自身椅坐像(じしんいざぞう)
木造 像高61.5 江戸時代・文化4年(1807)
京都・蔭涼寺

木喰(1718~1810)は文化3年(1806)から翌年にかけて、自身4回目の廻国のさなかに京都府南丹市八木町に逗留していた。
同町では清源寺の釈迦如来・十六羅漢像をはじめ、31軀の木喰物が現存しており、このうち曹洞宗蔭涼寺(いんりょうじ)には自身像と薬師三尊、大黒天像の5軀が祀られている。
いずれもケヤキ材による一木造りで、文化4年正月から2月にかけて造立されている。
 蔭涼寺で最初に造立したのが、同年正月八日の年紀を有する「自身藏(マゝ)」である。
両手を衣に隠し、満面に笑みをたたえ、あごひげを長く蓄えて素足で台座に腰掛ける。
(後略)
(『2019年度秋季特別展「日本の素朴絵 -ゆるい、かわいい、たのしい美術-」』NHKプロモーション発行)
仏光寺通を歩いて見つけた 「フレンチ・バル GARGANTUA
四条までやってきました。
途中で、傘をさすこともありましたが、そんなにひどい雨に会いませんでした。
京都は外国からの観光客も多いです。
でも、今回廻った神社などでは、観光客にはほとんど出会いませんでした(^_-)-☆

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    日本の素朴絵展に行ってこられたんですね。
    木喰作品の自身椅坐像をご覧になれてよかったです。(^^♪

    そのうえ、五条まで足を伸ばされての街歩き。
    お疲れが出ませんでしたか!
    でも、案外ご自分が見たい時や歩きたい時は大丈夫かもしれませんね。(^-^;
    カレーで元気になられて何よりです。

    狛犬の始まりは、エジプトやインド!
    そうだったんですね。
    一対ではなかったんですね。
    今回の素朴絵展の狛犬が、ワンちゃんのようでなんだか愛嬌がありました。

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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      ニュースで見た時に木喰仏や円空仏が映っていたのでぜひ見たいと思いました。
      蕪村も見られたのでよかったです(*´▽`*)

      カイさんも京都では知らず知らずのうちに歩かれていますよね!
      見たいものがあるとただ町中を歩くのと疲れが違いますねp(^^)q

      気持ちをシャキッとしたいときはカレーがいいですね(^_-)-☆

      ただ見ているだけでは気がつかないことが調べるとヘェ~とビックリすることがありますよね!
      素朴絵展の狛犬も可愛かったです。
      悪霊が来てもその霊力が抜けるのと違うかな(*´▽`*)

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