2019年10月3日木曜日

台風が遠く離れていても…

台風影響 高知県で猛烈な雨 土砂災害など厳重警戒」(NHK)
というニュースを見ていて台風18号(ミートク・MITAG)
正午現在990hPaと猛烈な台風でもないのに
強風圏にも入っていない高知で豪雨の被害が出ている。
台風が遠くにあるからといって安心できません。
KAMEI NobutakaさんのTwitter

私が「お笑い」の名における差別やイジリやハラスメントをなぜ批判するかというと。
それがテレビやウェブ動画を通じて何百倍にも増幅されて、現実の社会でいじめを誘発する恐れがあるからです。
子どもたちは、お笑いを真似して遊ぶ。
そこで身近な子どもが標的にされる。
我慢なりません。やめさせよう


人生幸朗さん、生恵幸子さんの「ぼやき漫才」は、嫌味がなく面白かったな。
昔だったら時事ネタで時のお偉いさんをいじくっても
庶民をバカにするようなことを言わなかったと思う。
まして差別を助長するようなことを言わなかったとおもう。
最近は、まるで中国のように政府の批判などできないような雰囲気でもあるのだろうか?
小泉八雲の「果心居士(かしんこじ)のはなし」(奇談)の続きを転記しますφ(..)
私が、最初に知った明智光秀は「三日天下」「逆臣」など否定的なイメージでした。
でも「日本雑録」は1901(明治34)年に最初に出版されたのに好意的に描かれていると思うのですが…
 御殿の取調所で、果心居士はただちに奉行から詮議され、きびしく譴責(けんせき)された。
最後に奉行は、果心居士にむかってこうた言った。
「そのほうが、魔法で世人を瞞着(まんちゃく)していたことは、あきらかだ。その罪だけでも、当然、重い罰をくうべきだ。しかしながら、今もしそのほうが、あの絵をつつしんで信長公に献上するならば、今度のところは、罪を大目に見てやろう。が、さもなければ、かならず厳罰に処するぞ」
(『怪談・奇談(書籍版)』ラフカディオ・ハーン著、
  田代三千稔訳 角川文庫 昭和31年)
 このおどしに、果心居士は面くらったように笑い、大声でこう言った。
「世人をあざむく罪を犯したのは、わたしじゃございません」それから、荒川のほうをふりむきながら叫んだ。
「あんたこそ裏切り者だ。あんたは、その絵を献上して信長公にへつらおうとしたのだ。
そして、それを盗むために、わしを殺そうとしたのだ。
まったくのところ、もしこの世の中に罪というものあるとしたら、これこそ、まさにその罪なんだ。
さいわいにも、わしをうまく殺せなかったが、もし望みどおりにうまく殺せていたら、そんなひどい仕打ちに、なんと申し開きができたろう?
とにかく、あんたは絵を盗んだんだ。
わしがいま所持している絵は、その写しにすぎない。
しかも、あんたは絵を盗んだあとで、それを信長公に献上するのがいやになって、自分の物にとっておこうと、計略をたくらんだのだ。
それで、白紙の掛物を信長公にさしあげ、その秘密の行いや企みをおし隠さんがため、このわしが、本物の掛物を白紙の物とすりかえて、あんたを欺いたように見せかけたんだ。
いま、本物の絵がどこにあるか、わしは知らない。おおかた、あんたは知っているだろう」
 この言葉を聞くと、荒川はひどく怒りだして、果心居士に飛びかかっていった。
そして、もし見張り人に遮られなかったら、彼を殴りつけるところだった。
ところで、荒川が、このようにとつぜんひどく怒りだしたため、かえって奉行に、荒川はぜんぜん罪がないわけではなかろう、と疑念をおこさせた。
さしあたり果心居士を、牢に入れておくように命じてから、奉行は、荒川を厳重に尋問しはじめた。
ところが、荒川は生来訥弁(とつべん)であるうえに、このときは、ひどく興奮していたので、ろくにものが言えず、どもったり、つじつまの合わぬことを喋ったりして、どう見ても、罪を犯したと思われるような素振りをみせた。
そこで奉行は、白状するまで、荒川を鞭で打つように命じた。
けれども、荒川は、ほんとうのことを言っているような様子さえもできず、竹で打たれて、とうとう正気をうしない、死人のようにぶっ倒れた。

 果心居士は、牢屋のなかで、荒川の身におこったことを聞いて笑った。
が、しばらくすると、牢番にむかってこう言った。
「ねえ、あの荒川という奴は、ほんとうに、ならず者みたいな振舞をしたんで、あいつの悪い心根をなおしてやろうと思って、わしが、故意にこんな罰をうけるようにしたのだよ。しかし、荒川は、事実はなにも知らなかったに違いない。それで、わしから、いっさいのことをよくわかるようにお話しすると、奉行に伝えてくれ」
 そこで、果心居士は、ふたたび奉行のまえに連れだされ、次のように申したてた。
「ほんとうにすぐれた絵には、魂がこもっているに違いありません。
またそのような絵には、それ自身の意志がありますので、自分に生命をあたえてくれた人から、いやそれどころか、その正しい持ち主からさえ、引き離されるのをいやがることがあります。
ほんとうにすぐれた絵には、魂があることを証明するような話が、たくさんあります。
むかし、法眼元信(ほうげんもとのぶ)が襖にかいた雀が、幾羽か飛んでいって、その絵のあとが白紙になっていた話は、よく知られております。
また、ある掛物にかいてあった馬が、夜分にはいつも、草をたべて出かけたことも、よく知られております。
さて、このたびの場合も、真相はこうだと思います。
つまり、信長公は、けっしてわたしの掛物の正しい持ち主になれなかったんで、絵が公(こう)の面前で広げられたとき、ひとりでに消えうせたものだと信じます。
しかし、わたしが最初にお願いした値段――すなわち、黄金百両をお出しになるようでしたら、そのときには、絵は自分から進んで、現在白紙になっているところへ、ふたたび現われるだろうと思います。
とにかく、ためしにひとつ、やってごらんになっては、いかがです。
あぶないことなぞ、すこしもごぜいません。
――と申しますのは、もし絵がふたたび現われないようでしたら、お金はすぐにお返しいたしますから」
 このかわった申し立てを聞くと、信長は百両支払うように命じ、その結果を見ようと、したしく臨席した。
そこで、公の面前で、掛物が広げられた。
すると、列座の者がみんなおどろいたことには、その絵はごく細かい点までも、すっかり元どおりになっていた。
しかし、色がいくぶん褪(あ)せているようで、それに亡者や鬼の姿も、前のように、ほんとうにいきいきと見えなかった。
この相違に気がついて、信長公は、果心居士にその理由を説明するように求めた。
すると果心居士は、こう答えた。
「はじめてごらんになりましたときの絵の値打は、まったくどんな値もつけられないほど、貴いものでございました。
ところが、たま今ごらんになっております絵の値打は、この絵の代価としてお払いになりました、ちょうどその金高――すなわち、黄金百両の値打を現わしているのでございます。
……どうしても、こうならないわけには、ゆかないのでございます」
この返答を聞くと、列座の人たちはみんな、これ以上すこしでも老人に反対するのは、有害無益であると感じた。
果心居士はただちに放免された。
そして荒川もまた釈放された。
それまで受けた罰で、その罪を償ってなお余りがあったからである。
 さて、荒川に武一(ぶいち)という弟がいた。
やはり、信長に仕えている家来だった。
武一は、荒川が打たれて牢に入れられたので、たいへん怒って、果心居士を殺そうと決意した。
果心居士は、ふたたび自由の身になると、すぐその足で酒屋へ行って、酒を命じた。
武一は、そのあとを追って、店に飛びこみ、果心居士を打ち倒して、首を切りとった。
それから、老人が支払いをうけて所持していた百両の金を奪うと、首と金といっしょに風呂敷に包みこみ、荒川に見せようと、いそいで家に帰った。
しかし、その包をといて見ると、首のかわりに、ただ空っぽの酒瓢箪(さけびょうたん)があり、黄金のかわりに、一塊りの汚物があるばかりだった。
……それに、まもなく、果心居士の首のない死体が、いつどうしたのか、わからないけれど、酒屋から消えうせたという知らせがあったので、荒川兄弟は、ますますうろたえて、わけがわからなくなった。
 それから一ヵ月ばかりのちまで、果心居士については、なんの消息もなかったが、そのころのある晩のこと、信長公の御殿の入口で、遠雷のような高鼾(たかいびき)をかきながら眠っている酔いどれがあった。
一人の家来が、その酔いどれは果心居士であることを、つきとめた。
この無礼な咎(とが)のために、老人はすぐ召しとられて、牢にぶちこまれた。
それでも、老人は目をさまさず、そのまま、牢のなかで、十日十晩も間断なく眠りつづけて、そのあいだ、たえず、遠くまで聞えるような高鼾をかいた。
  このころ、信長公は、部将の一人の明智光秀の謀反のために命をおとすにいたり、光秀がただちに政権を奪いとった。
しかし、光秀の権力は、わずか十二日間しかつづかなかった。
 ところで、光秀が京都の主になったとき、果心居士の話を耳にすると、この囚人を、自分のまえに連れてくるように命じた。
そこで果心居士は、新しい主君の面前に呼びだされた。
しかし、光秀は、やさしく言葉をかけ、賓客として遇し、おおいに御馳走してやるように命じた。
老人が食べおわると、光秀は彼にむかって、こう言った。
「聞くところによれば、あなたはたいそうお酒が好きなそうだが、一度にどれくらい飲みますか」果心居士は答えて言った。
「どれほどか、よくぞんじませんが、酔がまわりかけたと思うじぶんに、やめるだけでございます」
そこで、光秀公は、果心居士のまえに大きな酒盃をおき、侍臣(じしん)に申しつけて、老人が望むままに、何度でも酒を注がせた。
果心居士は、つづけざまに十たび大盃を飲みほして、さらにあとを求めたが、侍臣は、酒樽はもすっかり空になったと答えた。
列座の者はみんな、このみごとな飲みぶりに、舌を巻いてしまった。
そこで、光秀公は尋ねた。
「まだ足りませんか」「いえ、もう」と、果心居士は答えた。
「いささか満足いたしました。ところで、御親切のお礼に、すこしばかり、わたしのわざをお目にかけましょう。どうかその屏風をごらん願います」こう言って、彼は近江八景(おうみはっけい)をかいた大きな八枚屏風をさした。
それで、みんな屏風を見た。
八景の一つに、湖上はるかに一人の男が舟を漕いでいる図がかいてあったが、その小舟の長さは、屏風のうえでは、一寸にも足りなかった。
やがて果心居士は、小舟のほうに手をふった。
すると、舟はとつぜん向きをかえて、絵の前景のほうに動きだすのが、みんなの目についたが、それは、近づくにつれて、ずんずん大きくなり、やがて船頭の顔かたちが、はっきり認められるようになった。
それから、なおも舟は近よってきて、たえず大きくなり、とうとう、ほんのわずかな距離にせまってきたように見えた。
それから、とつぜん――絵から部屋のなかへ――湖水があふれてくるように思われて、部屋は水浸しになった。
そして、水が膝のうえまで達したので、見ている人たちは、いそいで裾をからげた。
と同時に、舟が――ほんものの漁船が、屏風のなかから滑りだしたくるようで、その一丁艪のぎいぎいいう音が聞えた。

なおも部屋のなかの洪水は増すばかりで、とうとう見ている人たちは、帯のところまで水浸しになったまま、立っていた。
やがて舟は、果心居士のすぐそばまで来た。
すると、果心居士はそれに乗りこんだ。
船頭はくるりと向きをかえ、ひじょうな早さで、むこうへ漕いで行きはじめた。
そして、舟がだんだん遠のくにつれて、部屋のなかの水も急に減りはじめ、ふたたび屏風のなかへ、引いてゆくようであった。
舟が絵の前景と思われるところを通りすぎるが早いか、部屋はふたたび乾いてしまった。
しかし、絵のなかの舟は、なおも絵のなかの水のうえを滑るように進んでゆき、しだいに遠のきながら、たえず小さくなって、とうとうついには、湖の沖合で、一つの点のように小さくなった。
それから、まったく見えなくなった。
それとともに、果心居士も消えてしまった。
彼の姿は、その後ふたたび、日本では見られなかった。
  ――「日本雑録」より
(『怪談・奇談(書籍版)』ラフカディオ・ハーン著、
  田代三千稔訳 角川文庫 昭和31年)
今朝の父の一枚です。
イチョウが黄色く色づいています。
やまと尼寺 精進日記「長月 秋の先どり小さな実り」
去年台風21号で折れた枝に実がなっているのを見て
その生命力にビックリしました。
再放送が明日、5日(土)午前5時30分からあります。
音羽山観音寺の「お葉つきイチョウ」は県指定天然記念物です。